インドネシアのスマトラ島沖の地震で大変なことが起っているようだ。その第一報に触れたのは先月の月報の発送の日、2004年最後の日曜日の朝でした。被害の大きさは日を追って明らかになり、20万人を超える方々が犠牲となり、多くの方々が家族や友人、家や畑を失っていたことがわかり、本当に心痛む一ヶ月を送りました。地球の反対側からできることは限られていますが、一時的な援助だけではなく、数百万人にも上るという、地震がきっかけとなって貧困に陥ると言われている人々のことを、忘れないようにしたいと思います。
このようなことが起ると、いつも思わされるのが、自分の小ささと、その小さな自分が生かされていることの意味、です。アメリカの東部に住んでいると、地震だとか津波だとか、「ありえない」と思って生きています。しかし、インド洋沿岸の諸国の人々の多くもそのように思って生きてきたと言います。また、あの9・11の時にも、CIAの人などはともかくとして、一般人はあのようなことが起るなんて全く予想していませんでした。神戸の地震も、地下鉄のサリンも、そうでした。そして、大きなことが起るとこう思うのです。あのとき、わたしも、たまたまそこに居合わせて、命を落としていたとしてもちっともおかしくなかったと。私たち、普段は忘れてしまっているのですが、本当のところ、このように生きているのは、決して「あたりまえ」のことではなく、特別なことなのではないだろうかと思わされるのです。「生かされている」のだと、そのように思います。だから、わたしは何をすべきなのだろうか?わたしは今も生きている。生かされている。何のために生かされているのだろうか?と問われるのです。
一人一人違う使命が与えられています。カスタムメードの、他の人では代わりのきかない使命が私たち一人一人には与えられているのです。それを求めて歩んでいくことはとても大切なことだと思います。そして、聖書はすべての人に与えられた共通の使命があると言います。
「そして、彼(イエス)がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために、生きるためである。」(コリント第二の手紙5:15)
自分のためにではなく、キリストのために生きる。そして、聖書はまたキリストを愛することはあなたの周りにいる一人一人を愛することだと語ります。神の愛を知った者たちに与えられた使命は、自分が愛された愛をもって、周りの人々を愛することです。
せっかく生かされているのです。当たり前ではなく、今、生かされているのです。具体的に愛を表していく歩みをさせていただきたいと思わされます。
(かきごおり:錦織 学)
月報2005年2月号より