先日、ある集まりで聖書の中に出てくる「奇跡の物語」を読みながら、「奇跡を見たら信じられるだろうか?」という話をしていました。「見たら、信じれる!見たい!」とか、「いやあ、見たら逆に引いちゃうかもなあ・・・」とか、皆さんの声を聞きながら、いったい自分はどうだろうかと思わされていました。その時の私の結論は、「歩けなかった人が歩き出したり、目の見えなかった人が見えたりするようなそんな奇跡を見たら、その現象面ばかりに気が取られて、大切なものを見逃してしまうだろうから、そんな奇跡は見なくてもいい、でも、人の内側が造りかえられるような奇跡、そういう奇跡はたくさん見たい」というものでした。しかし、その後、「はて・・・」と考えさせられてしまいました。その後半の「人の内面が造りかえられるような奇跡を・・・」というのはいいのだけれども、本当は自分はそんなことを言いながら、神の働きを人間の内面だけに閉じこめていないだろうか?神の力を人間の心の中の動きだけにとどめていないだろうか、と思わされました。そして、自分のまわりにいる、今病気で苦しんでいる方々のことを思い、「やはり自分はこの方々の上に神の奇跡を見たい!見せてください!」と祈りました。
今から10数年前に初めて読んだ本で、今も何度も読み返すのですが、チャールズ・スウィンドルの書いた「仕える喜び」という本(石塚八重訳、いのちのことば社刊、1983年)があります。その中にこのような引用があります。
3ドル程度の神さまが欲しいのだ、私の心をあばくことも、睡眠を邪魔することもない神さま、そう、ちょうど一杯の温いミルクとか、日差しの中での居眠り程度の神さまをね。黒人を愛しなさいとか、移民たちといっしょに働きなさいなんて言う神さまはごめんだよ。私の望むのは、我を忘れることであって、変えられることじゃない。私の欲しいのは、胎のぬくもりであって、新しく生まれることじゃない。紙袋に1ポンド分の永遠があればいい。3ドル程度の神さまをもらえないかね。
(Wilbur Rees, メ$3.00 Worth of God,モ When I relax I Feel Guilty by Tim Hansel [Elgin, IL: David C. Cook Publishing Co., 1979], p49)
私達は「神を信じる」と言いながら、本当は自分の頭で考えた、自分の都合のいい神を信じていないでしょうか?神の働きを自分のちっぽけな頭の常識の中に閉じこめていないでしょうか?神は私達を造った方であるのに、その造られた私達の頭で理解できる範囲に神を閉じこめていないでしょうか?そして、神を「アラジンの魔法のランプ」に出てくるような「僕らの言うことを聞いてくれる力のある巨人」のような便利な存在として考えていないでしょうか?3ドルくらいの、お手軽な神さま・・・。
2002年は「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう」という詩篇81篇10節の聖書の言葉を掲げて、それを信じて従って歩んできました。振り返ってみるときに、「もっと大きく口を開けるべきではなかっただろうか?もっと真剣に神に祈るべきだったのではないだろうか?」と思わされます。それで、2003年も同じ言葉を掲げて進んでいきたいと思います。神の方が私達に豊かなものを与えようとしておられるのに、私達が、「神だってここまではできないだろう」と神を軽く見ていたら、神はどんな思いをなさるでしょうか?大きく神に期待して、祈って求めて大きな奇跡を見せて頂こうではありませんか?
(かきごおり:錦織 学)
月報2003年1月号より