「心を錆び付かせないように」
 
最近、何かの雑誌で「たくさん感動するほど若さを保てる」という話を読みました。若さを保てるというよりは、周りを見回したときに感動の多い人のほうが若々しく見えるということのようですが、確かにそうかもしれません。心も道具と同じです。動かさなければ錆び付いてしまうでしょう。
 
この前までは固いつぼみだった桜の花が大きく開いた、知らない間に子供が自分でコップから水を飲めるようになっていた、連絡の途絶えていた友人から「元気にしている」との便りが届いた―。どれも、当たり前と言ってしまえばその通りで、取るに足らない事柄かもしれません。しかし、その一つ一つに驚き、喜び、感謝することで、同じことが2倍も3倍も意味のある体験となっていくような気がします。
 
子供のころは見るもの、聞くもの、触るものすべてが新しく、気になって仕方がありませんでした。それが大人になるにつれて、見たことのあるもの、聞いたことのあるもの、触ったことのあるものばかりになっていき、まだ知らないことですら過去に体験したかのような感覚で受け止めてしまいがちです。
 
クリスチャンとして経験する霊的な感動も同じようです。神様を信じたばかりのころは心がとても研ぎ澄まされていて、小さなことにも敏感だった気がします。それが今では、聖書を開いては「読んだことのある個所だ」、日曜礼拝に出席しては「聞いたことのある例話だ」などと決め付けてしまい、心を動かすことがありません。
 
そんな折、長年来の友人がイースターに洗礼を受けました。すでにキリスト教の神様を信じ、毎週教会へ通っていた友人ですが、洗礼の意義をいまひとつ見い出せないことや教会に属することへのこだわりがあって、受洗までに長い歳月がかかりました。今回、疑問に対する明確な答えが与えられたわけでは無いそうですが、神様がここまで養ってくださったことに感謝して、「これからは神様のために何かしていきたい」と思ったとき、複雑に絡み合っていた紐がするすると解かれるように心がほぐされたとのことでした。
 
友人の洗礼式に臨んで厳かな空気に包まれ、私の心は久々に震える思いがしました。牧師先生の語られた「洗礼によって古い自分が罪に死に、新しく生まれ変わるのです」という言葉は今まで何十回、何百回と耳にしてきた台詞ですが、この時改めて、意味を持って私に迫ってきた気がします。
 
友人の受洗が私の体験に重なり合い、クリスチャンとして生まれたばかりのころに引き戻していただきました。そこでは見るもの、聞くもの、すべてが新しく、驚きや喜びに溢れています。心をやわらかくして、錆び付かせることのない毎日を送りたいものです。

月報2000年5月号より


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