ある日、1匹の魚が鳥にお国自慢をしていた。魚は自分の国がどれ程すばらしいかを言葉を尽くし、鳥に納得させようとした。しかし、空を飛ぶ鳥はいくら話しを聞いても、水の中の美しさが全く実感できなかった。百聞は一見に如かずと言っても、鳥は魚の家を訪ねることも叶わなかった。そして次ぎに今度は、鳥が魚に空を飛ぶ事がどれほど自由なことかを自慢したが、結果は同じであった。自分の空間しか知らないものには他に存在する世界が判らないのである。 |
年々、新年を迎える頃は特に、時のはやさが身に染む。いつの頃から時は限りあるものという思いに捉われるようになったのだろう。幼き頃は、確かに永遠の時の中に自分があった。誕生日がいつも待ち遠しく、早く大人になりたいと願いながらも、その流れに身をまかせることができた。いつしか、1年を12ヶ月、1日を24時間と時間に単位を与え、19歳までは子ども、20歳からは成人、40歳は分別盛りなどと、便宜上、区別し始めたことで、時間に追われるようになってしまった。 |
一昔、人生は50年、今や80年、そして創世紀の頃は百年を超した人間の寿命。肉体に与えられている時は限られているが、神の時は永遠の彼方から彼方へ、たゆみない一条の河のように在る。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水に在らずのごとく、神の時は河の流れのようにも感ずる。数千年前、アブラハムの神となった主は、時間と空間をはるかに超え、今日も生き、無条件の愛と忍耐をもって私たちの中で働かれている。限られた3次元の空間に住む人間の知恵では、到底、想像し得ない神の叡智がそこに在る。 |
「家を建てる者たちが捨てた石。それが礎となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」(詩篇118篇22〜23節)主の働きは偉大で、時に人が推し量ることのできない方法が用いられる。ローマ帝国からイスラエルを救う力強いメシアを長く待ち望んでいた民にも全く思いも掛けない方法で、救い主が与えられた。十字架の死によって救いは完成されたが、人間の浅知恵では神の壮大なご計画が判らなかったのも当然であろう。誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできないと聖書は言っている。聖霊の働きによって、私たちクリスチャンは別の次元に招かれ、そして、主を信ずるものに神の時をなぞらえた永遠の命という大きな恵みも与えられている。 |
神である主は、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる 「私はアルファであり、オメガである。」(黙示録1章8節) アーメン
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