「ターキー奮戦記」
 
七面鳥にまつわるエピソードです。初めてターキーを目にした時、一体誰がこんなものを焼いたりするのだろうかと驚きました。食品にしても、衣類にしても、そのサイズの大きさに驚きと同時に戸惑いを感じる方(特に日本からアメリカへ来たばかりの方)は多いでしょう。私もその典型的な一人で、1ガロンの牛乳、サラダのちゃんこもり、掃除機や食器洗浄機の騒音、走る車の大きさや質など、数え上げれば枚挙にいとまがありません。その中でも巨大な七面鳥の姿は、3本の指に入ると言えるほど、強烈な印象がありました。

1999年の11月のことです。教会で行われる感謝祭の愛餐会用に、食事の持ち寄りを募っていました。「何を持って行こうかな、ジュースかなあ、」と思ってリストに目をやると、「七面鳥」の文字が飛び込んできます。その瞬間、ターキーと遭遇した時のあの感動が突然頭に蘇り、まるで七面鳥に招き入れられるかのように自分の名前を書き込んでしまいました。たまたますぐそばにいた方に、「え?ターキー?やるの?」と言われ、もう後にひくことはできません。「焼いたことあるの?」「スタッフィンはどうなさるの?」「匂いがオーブンに充満して、ケーキが焼けなくなるのよねえ」「ついでに2羽焼いてくれない?」「レシピをご存知?」「ドライシェリーを使うと、美味しくなるわよ」「えらいわねえ」と、その場の雰囲気が盛り上がったのもつかの間、「いやあ・・・、全く初めてで、何をどうしていいか、さっぱりわかりません。どこで買えばいいでしょうか。」という私の一言で、周囲は絶句。
 
とりあえず、近くの店に行ってみると、お肉のコーナーに七面鳥の姿はありません。店員さんに聞いてみると、「冷凍もの以外は、来週から並ぶ」とのこと。翌週足を運び、親切そうなおばあさんに「初めて作ろうと思うけど、何かアドバイスは?」と聞いてみました。ポイントは、15ポンドより大きいものにしないこと、中につまっている袋は取り除く、冷凍のターキーは解凍に丸1日かかる、あとは、ターキーの包装ビニールに書いてある作り方の通りに焼けばいい、とのことでした。これは、お料理の上手なS氏の助言とほとんど一致していました。
 
レシピを見たら、材料もニンニク、バター、レモンと、とても簡単そうです。ドライシェリーを加えて、本番三日前にアメリカ人の方々や同じアパートに住む方々に試食をしていただきました。「初めてにしては、柔らかくっていい出来よ」という励ましに自信をつけて、いざ、本番です。スタッフィンは範子さん(牧師夫人)にお任せすることにして、朝の3時から11時まで、1時間おきに焼き加減のチェックです。睡眠不足で目をこすりながら教会へ行くと、礼拝中も七面鳥のことで頭がいっぱい。
 
いよいよ食事です。丸ごと1匹持って行くということで、味見もろくにしていません。ドキドキしながら一口食べると、我ながら、ほっぺたが落ちるほどの出来・・・、と言いたいところですが、ミラクルは、そう起るものではありません。口にしたのは私の作ったものでなく、範子さんのターキーでした。その美味しかったこと。気を取り直して自作のほうを食べてみると、「柔らかい」のですが、味が淡白。それもそのはずです。私はターキーの焼き方に気を使ったものの、肝心の味つけには全く注意を向けていなかったのです。味が薄かったら、醤油をかければいいや、程度にしか考えていませんでした。
 
「ターキーは何と味気のない肉か・・・。」と、耳にしたことがあります。実際に作ってみて、その意味がよくわかりました。しかし、よく考えてみると、それでは七面鳥の立つ瀬がありません。七面鳥は、本来淡白だからこそ、お料理しがいがあるというもの。隠された旨みをうまく引き出し、引き立ててあげられるかどうかが、料理の鍵です。何だか、グルメ本の解説みたいになってしまって申し訳ありませんが、お料理には素材選び、手順、味付け、盛り付けと、作る過程に様々な要素が含まれているという、そんな当たり前のことに気がつきませんでした。その中の「手順」ひとつだけにしか注目できなかったなんて。まさか、あの巨大でグロテスクな七面鳥がそんなことを私に教えてくれるとは、初めて出会った時には思ってもみませんでした。七面鳥さん、ありがとう。食べて下さった皆さん、ごめんなさい。
 
「弟子は師に勝るものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(ルカによる福音書6章40節)とあります。現状では、料理に飽きたり、掃除に関して文句を言ったり、楽な道を狙ったりと、「師」のようになるにはまだまだ時間がかかりそうです。「十分に修行を積む」忍耐力や持続する知恵を持ち、来年こそは・・・、と思います。

月報2001年1月号より


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