「後回し」

最近「後回し」ということを考えさせられる。「後回し」といっても、私の場合は「やりたくないので、つい後回し」と、「興味をひかれつつも、つい後回し」という2つのパターンがある。
 
前者はありきたりな事が多い。家事、ベッドメーキング(我が家は布団メーキング)、トイレット・ペーパーの補充、腕時計の電池交換、電球のつけ替え、化粧(?)、などに手をつける時の腰の重たさといったら、自分でもあきれる。朝、目を覚まし、枕元に置いた眼鏡を手で探り当ててがばっと起き上がり、洗面所で顔を洗い、歯を磨き、髭をそり、髪を整え、着替えを済ませ、用を足し、リステリンでうがいをする、その身のこなしに無駄のない夫の姿に、ついみとれてしまう。「眠る幸福を手放してまで起き上がるということは、何と勇気のいることか」と思う。悔し紛れに「何が楽しくってそんなにせっせと身支度できるの?」と、心で叫びつつ、よたり、よたり、と起き上がる。起きないといけない、お弁当の準備をしないといけない、とわかっていてもなかなか布団から離れられない私の1日は、「後回し」からはじまるといっても過言ではないのだ。

後者。興味をひかれつつ、つい後回し・・・の一つは、恐れ多くも哲学。これは、未知なる世界への憧れ。パスカルの「パンセ」をはじめて読んだ時、あまりにわけがわからなくて投げ出してしまった。日本史や世界史もそう。(それにしても「世界史」とは何と大胆なタイトルだろう。こんな科目が存在するなんて、「世界」をなめているのでは?)もう一つは聖書。聖書に関しては、「読みたかった」というよりは「読みたくなかった」という方が正しいかもしれないが。「時間があったらあれもやりたい、これもやりたい」と言い訳してきた「時間」が夫の転勤を機に与えられ、後回しにしてきたことを「かじる」幸せ。まるで幼子がお煎餅を一口かじっては、食べ終わらないうちにもう1枚、またもう1枚、という感じだろうか。大人の目からみれば全く解せない行動でも成長の過程では必要なのかもしれないと、幼子と自分を重ねて慰めつつ。
 
イエス・キリストにとっての「後回し」は何だろう。人里離れた場所に行って休もうとしていたところへ群集が押し寄せた時に、神の教えを説き、パンと魚で養ったという。(マルコによる福音書6章30節〜44節) 多分相当疲れていたに違いないのに、人々のために「自分」を後回しにしたのだ。私の「後回し」とは、比べようもない。そんな「イエス」を後回しにしないようにしたい。

月報2001年7月号より


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