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「ナイアガラと神への畏敬」
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在米30年、ニューヨーク州に住みながら、まだナイアガラの滝を見たことがないとは、嘘のような本当の話である。日本から来た友人にナイアガラ観を求められると「あそこは滝を見る以外何も見る所はありません」などと知ったかぶりをして、なるべくその話題から遠ざかることにしていた。 |
神が、この大自然を造られた時の偉大な作品を、まるで見たかのように否定する浅はかさは、不信仰以外の何物でもないことに気がついていなかった。そんなわたしにこの目でナイアガラを見る機会がこの夏与えられた。カリフォルニアに居る娘の家族が、日本から来た親戚の少年1人を案内するので一緒に行こうと誘ってくれた。2人の孫と家族、総勢8人でミニバンでニューヨークを発ち、ほぼ8時間のドライブの途上、豪雨と雷鳴の洗礼を受けたが、時間500ミリとも思える激しい嵐であった。神を畏れぬ不遜な私の心に愛の鞭が下ったと密かに思った。 |
初めて見るナイアガラの滝は、想像を遥かに越えた存在であった。滝に至る川の流れは、あくまでも悠々と、直下の滝壷になだれ落ちる怒涛の姿はそこには無かった。そしてその流れが突然絶壁によって直角に切断され、水しぶきに煙る滝壷に向かって一気に50メートルの落差を轟々と落ちて行く。この無限の水は、一体どこから来るのか。この巨大なエネルギーはどこにその根源があるのだろう。神の業の不思議と言う以外、これを表す言葉はどこにもなかった。上から見る滝は人の目で見る滝、神秘さと偉大さに、恐怖すら覚える。木の葉の様でゾウリムシのような、楕円形の観光船が滝に向かって恐れも無く進んで行く。ぎっしりと隙間もなく乗り込んだ見物人たちは、まるでコピットゲームの木製の人形のように身動き一つしない。タイタニックが氷山に向かった様にも似ている。50メートル下の船着場が遥かに下に見える。13段の階段を登るにも似た気持ちで降りて行くと、そこには、この大自然を眼前に歓喜の声を上げる人々の群れがまるで賛美をしているようだ。その辺りの水面の穏やかさは、そこに何万トンという水を落とし続ける滝があることを忘れさせる位である。人間が上から神の業を見ることの愚かさを、船着場に降りて痛く感じた。 |
この経験は私にとって、良いことであった。確かによいことであった。感謝。 |
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