9月30日(月)
「わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」(雅歌2:4)
「旗幟を鮮明にせよ」と言われる。わたしたちの旗印はキリストの愛だ。本当にそうだ、それだったら、それを振り回しているだけではなく、そのような生き方をせよ。そのような生き方をせよ。自分のことばかりではなく、人のことも考えるような生き方をせよ。一瞬一瞬において、言葉だけではなく、キリストの愛を味わい、キリストの愛を知り、キリストの愛に生きる者とさせてください、主よ。私はあなたの十字架を私の旗印にします。
「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。」(コロサイ人への手紙4:2)
そうだ、祈り続けよう。祈るべきことはたくさんある。本当に人々は痛みを覚えている。戦いがある。だから目を覚まして祈り続けよう。一人一人の一日のために、今日の守りのために、仕事のために、魂の状態のために、救いのために、癒しのために、神さまが砦をつくって子供たちを守ってくださるように。祈り続けよう。そして、このパウロのように、一人一人が語るべき時に、福音を恐れないで語ることができるように、人との語り合いの中で、自然と福音を証しするチャンスが与えられるように祈っていこう。
9月29日(日)
「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」(伝道の書11:1)
多くの日の後、それを得る。なんという励ましだろうか、何という支えだろうか?わたしたちが働く働きは多くの日の後にそれを得ることのできる働きなのだ。パンを水の上に投げるような気持ちになるだろう、もしも、本当にそうであったとしても、本当にそんな働きだとしても、それを多くの日の後に得ることができる。みことばはすごいと思う。みことばは力があると思う。こんなに小さな言葉がこんなに大きな慰めと励ましをくれるなんて・・・。決してわたしたちの働きは無駄ではない!
9月28日(土)
「『昔が今よりもよかったのはなぜか』と言うな。あなたがこれを問うのは知恵から出るのではない。」(伝道の書7:10)
おもしろい言葉でもあり、考えさせられる言葉でもある。「昔はよかった」「今時の若い者は・・・」という言葉は知恵から出ているのではない、という。ついつい出てきてしまうのはもう自分が若くはないことを認めているのだろうかと思ったりする。今が最高!それを忘れないでいたい。神さまが許してくださっている今が最高の時。最高の時が与えられている、そのことをいつもいつも忘れないでいたい。聖書はいつも自分たちが陥り易いところを知っていてい、そこを鋭く突く。今の時を大切に、振り返るよりも先を楽しみに見据えて歩んでいこう。
「互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。」(コロサイ人への手紙3:13)
日本語としてちょっと変。いや、日本語はあってるのかなあ。内容がねじれていると言ったらいいのか。責めるべきことがあれば・・・ゆるし合いなさい、ってのはねえ。責めるべきことは責める、赦すべきことは赦すってのならわかるし、責めて反省したら赦す、っていうのならわかるのだけれども、「責めるべきことを赦す」と言うのだから・・・。
9月27日(金)
「神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。」(伝道の書5:2)
熱心に祈る中で、神さまを「お父様」と呼ぶような親しい関係にあって、つい忘れがちなことだが、本来は神さまの前に立つとは本当におそれおおいことなのだ。「神さま・・・」と声に出すのも大変なことであるのだ。その神さまに祈ることを許されているのだ。それはイエスの十字架ゆえ・・・。でも、もう一度神さまの前に神を神として、祈りの姿勢を正していきたい。神さまの前に襟を正し、ひれ伏して、神さまからの語りかけをいただこう。軽々しく口を開くのではなく、へりくだった心を持って神さまの前に出よう。
「キリストのうちには、知恵と知識との宝がいっさい隠されている。」(コロサイ人への手紙2:3)
説教の準備をしていても、どこかで、「聖書の外に」何か心をひかれる話がないかと尋ねていることがある。でも、本当はキリストのうちにこそ、キリストのうちにこそ、知恵と知識の宝が隠されているのだという。それをほっておいて、何か他のものに心を向けているのは本当にもったいないことだ。この宝をもっともっと探っていきたいと思う。そして、そのすばらしさを人々に興奮をもって人々に伝えていきたい。主よ、教えてください。その宝を教えてください。
9月26日(木)
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いをさずけられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。・・・神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようなるためである。」(伝道の書3:11,14)
神のなさることは永遠の視点からされている。人間にも「永遠を思う思い」が与えられている。しかし、それでも、神さまのなさることはわからないことが多い。それは人間が神さまに対して恐れをいだくためだ、という。わたしたちが神さまのなさることがわからないことがある。「時にかなって美しい」ということがわからない時がある。その時に、信仰を失ってはならない。わからないから神さまに不信感を持ってはならない。それはわたしたちがいかに小さい者であるか、神さまがいかに大きな方であるか、それを知らされる時であるのだ。主よ、わからないことが起こってきた時に、どうか、あなたを信頼していくことができますように。
「ただし、あなたがたは、ゆるぐことなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移りゆくことがないようにすべきである。」(コロサイ人への手紙1:23)
救われているのだから、福音にしっかりと立っていく。救われているのだから、信仰に留まっていく。十字架の許に留まり続ける。何か目新しいことがないかと探し求めるのではなく、何か奇抜な教えに振り回されるのではなく、本当に十字架の許に立ち続ける、ただただ福音を語り続ける伝道者でありたい。それであって、いつでも新鮮な驚きを、新鮮な感動を持ち続けたいと思う。新鮮な感動を持っていつもの十字架の福音を語り続ける者でありたい。
9月25日(水)
「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。」(箴言31:30)
アーメン!ハレルヤ!
「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たしてくださるであろう。」(ピリピ人への手紙4:19)
神さまが必要を満たしてくださる。そうだ、経済的な必要も、そして、何よりも霊的な必要も・・・。そう、神さまがここでの働きを与えてくださっている以上、神さまがその栄光の富の中から、その圧倒的な富の中から、必要を与えてくださる。霊的な力も、与えてくださる。だから思いっきり積極的に求めていきたい。主が満たしてくださる。天国にはたくさんのプレゼントが準備されている。どこかの本の話のように、天国に行った時に、自分宛に準備されていたプレゼントが、求めなかったゆえにたくさん余っていることがないようでありたい。本気で神さまを信頼する者でありたい。
9月24日(火)
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
主よ、あなたを、あなただけを恐れる者としてください。主よ、あなたを恐れ、あなたに従う者としてください。人を恐れるのではなく、人を恐れて歩むのではなく、あなたを恐れて歩む者としてください。主よ、あなたが主です。あなたが私の主です。あなたの御力を待ち望みます。あなたが教会の主です。あなたを教会の主として歩んでいく教会としてください。人を恐れて、人の言葉に振り回されることがありませんように。あなたに聞いて、あなたに信頼して、その確信を持って、人の言葉に耳を傾けることができますように。
「わたしたちの国籍は天にある。」(ピリピ人への手紙3:20)
わお。すごいパワフルな言葉だ。そうだ。わたしたちは天国の市民なんだ。天国の市民の歩みをこの地上ですることができるのだ。この地上にありながら、天国を生きることができるんだ。ああ、なんという幸い。なんという力。もっともっと味わいたい。天国の味わいを。どうか、会話をきよめ、クリスチャンの交わりをきよめてください。どうか主がその真ん中にいて、わたしたちの歩みをきよめてくださいますように。もっともっと幸いな経験をしたい。主よ、助けてください。導いてください。
9月23日(月)
「あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」(箴言27:5)
本当にずっと考えさせられていることだ。先週もこのような言葉に心が留まった。戒めるべき時には、はっきりと戒める責任が自分にはあると思う。それを怠るとするならば、本当にその人を愛するよりも自分をかわいがっているだけだ。自分がどう思われるかを心配しているだけではないだろうか?本当に神さまを信頼していこう。そして、人を信頼していこう。愛を愛として受け止めてくれると信頼していこう。そして、みことばが戒め、みことばが慰め、みことばが解決を与えてくれることを信じていこう。先ず、とにかく祈ることだ、祈ることだ。祈りの力を信じ、神の答えを信じることだ。そして、もし、自分がはっきりと戒めるべきことであるならば、恐れることはない。祈ろう。
「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり・・・」(ピリピ人への手紙2:15)
神さまはわたしたちをきよめに招いておられる。責められるところのない者となることを、二心ではなく、イエス様だけを見ていく者となることを望んでおられる。そのことを忘れないでいたい。その純粋さをいつもいつも持っていきたい。主がきよめを求めておられるように、自分も求めていきたい。そして、自分のきよめだけではなく、パウロのように教会のきよめを祈っていこう。主よ、あなたが、先ず牧師の私をきよめてください。主よ、「責められるところのない純真な者」としてください。そして、主よ、教会をきよい花嫁として整えてください。教会が、大きくなることではなく、キリストにふさわしいものとなることを第一に求めていく者としてください。
9月22日(日)
「怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな。それはあなたがその道にならって、みずから、わなに陥ることのないためである。」(箴言22:24)
怒っている人のそばにいると自分もその怒りに引きずられて、罪を犯してしまうことがある。愚痴の罪や陰口の罪だ。この箴言は本当にまた大切なことを言っていると思う。神さまと交わり、神さまから癒しと力をいただいて歩んでいきたいと思う。舌を制する者は全身を制する、という。でも、これは決して舌だけの問題ではない、心の奥底にあることが現れてきてしまうわけで、本当に神さまとの関係の中でいつもいつも満たされて、いやされて、恵みに注目して歩んでいきたいと思う。主よ、あなたとの交わりに生きる者としてください。
9月21日(土)
「戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。」(箴言21:31)
戦いの日のための備え、それを否定するわけではない。働き人、正しい計画、組織、それらを馬鹿にしてはいけない。でも、勝利は主による。そのことをいつも忘れないようにしたいと思う。いつも勝利は神さまから来る、ということを覚えていたい。いつも傲慢にならないで、主に頼り、祈り、神さまとの太いパイプをもっていきたいと思う。主が今も働かれるのを見せて頂きたい。「これだけやったから、こういう結果が出た」というのではない、神さまの奇跡、神さまの御業を見せて頂きたいと思う。主よ、あなたを待ち望みます。あなたの勝利、あなたから来た勝利を味合わせてください。
「肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。」(ピリピ人への手紙1:22)
主が与えてくださった働き場。主が導いてくださった働き場であるが、本当に自分の働きが実り多い働きであるかどうか悩むことがある。本当に自分の存在が教会のためにプラスになっているのだろうか、また、この地域に住んでおられる方々に証しになっているのだろうかなどと、考えさせられる。早く天国に召してくださいと、叫びたくなることもある。でも、主が生かしてくださっている場。主が送ってくださった、使命を与えてくださった働き場。だから、本当に自分の力ではなく、神さまの御業を見させて頂きたいと思う。そう、自分の都合で神さまを振り回すのではなく、神さまのご計画の中に自分の働きを見いだしていくことのできるような者となりたい。生かされている以上、神さまが用いようとされているのだ。そして、それは自分だけではない。周りの一人一人にそのことが言える。ああ、本当に期待していこう。主の御業を期待していこう。
9月20日(金)
「銀を試みるものはつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。」(箴言17:3)
主がわたしの心を試みてくださる。主が与えてくださる試練は一つも無駄にはならない。一つの問題でも、一つの誤解でも、神さまが与えてくださる試練は決して無駄にはならない。わたしたちの避けたいこと、これさえなくなってくれたら、と思うことも、すべて無駄にはならない。だから、勇気を出して、逃げないでぶつかっていこう。主が与えてくださる試練によって、自分が練られ、錬られ、きよめられ、不純なものがきよめられていくならば、本気でそれを信じて進んでいきたい。主よ、わたしのうちから恐れを取り除き、すべての試練、困難、問題等がわたしのきよめのために主が与えてくださっているものであることを忘れないように守ってください。
「つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。」(エペソ人への手紙6:20)
自分の身の危険をも感じるような時にも、大胆に語る。自分は時々、人がどう感じるかで、ためらってしまうこともある。だから、パウロの言葉を自分の言葉とし、パウロの祈りを自分の祈りとしよう。本当に神さまがわたしを通して語ってくださるように。どんなときにも、語るべき時には大胆に語ることができるように。主よ、どうか助けてください。聖書にある、「そのときには聖霊様が語るべき言葉を教えてくださる」という約束通りにしてください。
9月19日(木)
「謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言15:33)
十字架は復活に先立つ。新約聖書を知っている者だったらそのように言ったであろう。神さまの前に砕かれる、という意味での謙遜さが必要だと思う。十字架が栄光に先立つ。わたしたちが神の栄誉を受けようと思うならば、積極的に神の栄誉を受けようと思うならば、わたしたちは十字架を負わなければいけない。十字架を負うこと。今の自分に問われているような気がする。今の自分に問われていると思う。イエス様が言われたように、「自分の十字架」、神さまからの使命をしっかりと受け取って、立ち上がっていく者となりたい。主がわたしをどこに導こうとされているのか、何をさせようとしておられるのか。主よ、教えてください。
「また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらはよろしくないことである。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。」(エペソ人への手紙5:4)
最近、言葉に気をつけなさい、という意味の言葉が心にびんびんくる。自分の言葉が乱れている、と自分で感じているのだろうか?会話がきよめられることを求めている。主よ、本当にそうです。わたしの口から出る言葉をきよめてください。でも、それは心の中にあることが出てくるのです。だから、主よ、先ずわたしの心をきよめてください。そして、本当に神さま、あなたを中心とした日々を送ることができますように。日曜日に向けて、そなえられていく、というのではなく、いつでも金太郎飴のようにイエス様が現れてくださるような毎日の歩みを与えてください。主よ、あなたがわたしの生活の中心となってください。
9月18日(水)
「目で、めくばせする者は憂いをおこし、あからさまに、戒める者は平和をきたらせる。」(箴言10:10)
はっきりとものを言った方がいいということだ。裏で策略を巡らすよりも、はっきりと戒めるべきことを戒めた方がいいということだ。昨日読んだ、「あざける者を責めるな」という言葉とはどういう関係なのだろうか?10:10の方が一般論で、9:8はもっと細かい適用なのだろうか?いずれにしても本当に人間関係は一筋縄ではいかないと思う。でも、「配慮」「気配り」の名の下に、はっきりと忠告する事から逃げてはならないと思う。本当に人を愛し、人を信頼する時に、ある時には耳の痛いことも言わなければならない。そして、逆にそれを言われる時に、感情的に攻撃として受け止めるのではなく、愛を受け止めることができるように。主よ、柔らかいこころを与えてください。
「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ人への手紙4:24)
心の深みまで新たにされて・・・。この言葉がとても新鮮に感じられた。そう、わたしたちはイエスを信じて歩んでいく時に、イエスによって心の深みまでも新たにされるのだ。主が与えてくださった新しい人を着るのだ。主よ、わたしのうちにあなたのきよさを与えてください。自分中心の世界観ではなく、あなたを中心とした世界観を与えてください。わたしの人生に神さまを組み入れるのではなく、そして、周りの人々を組み入れるのではなく、神さま中心の世界観の中に自分の人生を見ていくことができるようにしてください。そう、コペルニクス的転回が今日、起こった。自分中心の計画の中に神さまや周りの人を巻き込んでいくのではなくて、神さま中心の世界の中に自分の身を置いていく・・・。そうだ。ちょうど、地球がたくさんある太陽の周りを回っている惑星の一つにすぎないように、自分も神さまを中心とした世界の中に生かされている一人にすぎないのだ。主よ、ありがとうございます。
9月17日(火)
「あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。」(箴言9:8)
これは至言だ。人の言葉を聞いて、それを糧とする人は知恵ある者だ。本当に責めるべき人を責める勇気と知恵、そして愛がほしい。そして、単にあざけるためにあざけっている人々に関わらない勇気も必要だ。神さまから与えられた時間、神さまから与えられた人生、単に怒りや自分の気持ちを収めるために人を責めたりするのではなく、その人が本当にその忠告を受け止める力があるかを見極めて注目するようにしたい。そして、自分自身、人の忠告を本当に素直にストレートに受け止め、愛を受け止めることができますように。
「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができるように。」(エペソ人への手紙3:18)
キリストの愛のものすごさをもっともっと知っていく。それがパウロの人々に対する祈りだった。自分自身、もっと知りたいと思うし、また教会の方々にももっと知って頂いて、そして、それを分かち合いたいと思う。そのような交わりをしたいと思う。なかなか忙しくてスモールグループの「パイロットプログラム」を始める事ができないのだが、何とかそのような交わりを通して、神さまのすばらしさをもっともっと知っていくようなことができればと思う。主よ、どうか助けてください。主が御業をしてくださって、救われる方々が起こされるように、そして、恵みの深みを知る方々が起こされていくように。
9月16日(月)
「曲がった言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。」(箴言4:24)
言葉は心の中から出てくるものだ。でも、自分がそれを言葉にする時に、それが相乗効果をもたらしていく。語ることによって自分の中にある気持ちが大きくなってしまうこともある。そして、周りの人にも影響を与え、またその周りの人々の言葉によってまたそれが歪んでくる。会話を本当に気をつけなければいけないと思う。それは決して本音を出さないとか、そういうことではなく、いつもいつも「お互いの徳を高める」ような会話を求めていくことだと思う。そのためにいつもいつも神さまに近くありたい。神さま共に歩んでいる、と胸を張って言えるような歩みをしたいと思う。
「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ人への手紙2:19)
キリストにあってはわたしたちは一つなのだ。どこの国の人間かということはたいした問題ではない。大体ものの考え方なんかも、民族とか、どこの国に住んでいるかで決まると言うよりも、どのような情報を与えられているかで決まる。国やマスコミに操作されている部分もあるなあ、と思う。今回の北朝鮮との問題も、日本からみた見方と、あちらからみた見方では全然違う。どちらも「向こうの出方次第だ」という感じで、「自分たちがされたひどいこと」を強く感じ、相手にぶつけている。「植民地支配の補償が解決しなければ」「拉致問題が解決しなければ」と言い合っている。わたしたちは自分の視点が不完全なことを神さまの前に認めなければいけないと思う。へりくだって、イエスの許に一つになる時が来ているのではないだろうか?
9月15日(日)
「あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことをさし控えてはならない」(箴言3:27)
自分は何もできない、と思う時がある。でも、それは逃げているのではないかと思う。本当に神さまの前に砕かれて言っていることではなくて、逃げているのではないかと思う。善をなす力があるのにしないのは罪だ。なすべき人に対してなす。そのために神さまから与えられている力、才能、そして財力。「何もありません」なんて気軽に言ってはいけないなあ、と思う。主よ、あなたがわたしに与えてくださっているものを感謝します。あなたに与えられているものを与えることを惜しむことがないように、助けてください。
9月14日(土)
「み言葉を行うあらしよ」(詩篇148:8)
いつもこの言葉が目に留まる。他のものは「火よ、あられよ、雪よ、霜よ」と単純に書いている。太陽も月も、星も、みんなそうだ。なのに、この「嵐」だけ「みことばを行う嵐よ」と語りかけられている。嵐は「みことばを行う」ものだったんだ。嵐はみことばを行ってくれる存在だったんだ。自分は嵐は嫌いだ。天気の嵐はまだいい。何年か前のフロイドみたいなのは大変だったが、それでも天気の嵐はまだいい。この地域に住んでいて、家に住んでいるんだから・・・。でも、人生の嵐は本当につらい。避けたい。逃げたい。やってこないでほしい。でも、それが「みことばを行う」存在であるなら、それは正面から受け入れるものとなりたい。今度、嵐がやってきた時に、神さま、この言葉を思い出させてください。
「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか・・・」(エペソ人への手紙1:18)
パウロのエペソの教会の人々のために祈る祈りは、人々が救われたことのすばらしさをもっと知ってほしいということだった。救いのすばらしさ。救いのすばらしさ、まだまだ自分もわかっていないんだろうなあと思う。もっともっと神さまのすばらしさ、救いのすばらしさを知っていきたいし、そこに目が開かれていきたいと思う。主があそこまでしてわたしたちのために救いの道を開いてくださったんだから、それは半端なものではないだろうと思う。天国の前味を味合わせて頂きたい。そのようなクリスチャンとして歩んでいきたいと思う。
9月13日(金)
「その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる。」(詩篇146:4)
どきっとするような言葉だが、本当にそうだなあ、と思った。自分も自分でいろいろな計画を立てる。けれども、自分はやはり明日もわからぬ身。死によってその計画も終わりになってしまう。でも、神のご計画は進んでいく。そう思うと、自分の計画を推し進めていこう、というよりも、「神の計画に参加しよう」「神のご計画に入れて頂こう」と思う。そう思うと、死においても「無念」ということがない。自分の生き死にも「神さまのご計画の中にあったんだ」と前向きに受け取っていける。神さま、わたしはいつまで生かされるのでしょうか?あなたのご計画を教えてください。そして、あなたのご栄光をあらわす者として用いてください。
「すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ人への手紙6:8)
自分は今何に時間を使いお金を使い、労力を使っているだろうか?肉にまいているとそこから刈り取るという。本当に厳しい言葉だ。霊にまく者でありたい。霊的なこと、神さまのことに心を遣い、時間を使い、お金をつかい、労力を使う者でありたい。主よ、助けてください。もっともっとあなたとの交わりを豊かなものにしてください。祈りの時を、そして聖書を読む時をあなたがもっともっと豊かなものにしてください。
9月12日(木)
「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」(詩篇141:3)
これはわたしの祈りでもある。傷つくことがある時に、人と意見が食い違う時に、本当にこの事を思わされる。わたしのくちびるを守ってください、と。いつも謙虚でありたい。いつも神さまの前に低くありたい。そして、人の前でも神さまの前にあるような歩みをしたい。単なる慇懃さではなく、また人の機嫌を取るのでもなく、神さまの前に謙虚にあるようにそのまま人の前でも謙虚でありたい。主よ、いろいろな出来事の中で、「謙虚さ」が何を意味しているのかを教えてください。そして、身につけさせてください。お願いします。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって・・・」(ガラテヤ人への手紙5:22−23)
御霊の実を結ばせてください。これらは本当にすばらしいものだと思う。でも、それ自体を求めることがここで勧められているのではないと思う。実を求める以上に、御霊様ご自身を求めることが求められているのではないだろうか?御霊を求めます。主よ、聖霊様を送ってください。主よ、今、わたしの内に聖霊様の御業を与えてください。主よ、御霊に満たしてください。それを邪魔するものを追い出して下さい。他のものではなく、聖霊様による喜びを味合わせて下さい。
9月11日(水)
「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。」(詩篇139:16)
この日にこの言葉が与えられることの不思議を思う。神さまのなさることがわからない時がある。あの事件が起こったのは、決して神の計画だとは思わない。やはり罪の結果であり、憎しみの結果だ。責任は憎しみにとらわれたテロリストにある。それは疑問の余地はない。でも、どうして、全能の神さまがそこで非常時の介入をならなかったのだろうか。紅海を二つに分けられた神さまがどうしてそのようなことをなさらなかったのか。テロリストの企みをくじかれなかったのか。わたしにはわからない。でも、神さまのみ思いは大きい、という。わからない、納得いかないというのは変わらない。でも、わたしのちっぽけな頭の納得を超えたお方だということはわかる。だから、信頼していきたい。そして、やがての日、「神さまはいつも最高のことをしてくださる」と「信仰」として言うだけではなく、「経験」として言える者となりたいと思う。
「ああ、わたしの幼子たちよ、あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」(ガラテヤ人への手紙4:19)
わたしの内にキリストの形がなる。主よ、求めます。そのようにしてください。わたしの内にキリストの形がなるように求めていきます。求め続けます。そして、それが教会全体のうめきになりますように。教会全体の求めになりますように。きよめてください。つくりかえてください。主よ、あなたの御形をわたしの内に、そして、教会のお一人お一人の内に形作ってください。それがわたしたちの切なる求めとなり、切なるうめきとなり、会話も、関心もそこに集中するようなお互いとしてください。
9月10日(火)
「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇133:1)
自分は今、トラブルを恐れて、人々に対して、あのヤマアラシのように近すぎず、遠すぎず、という関係に逃げていないだろうか?「兄弟が和合して共にいる」というのはもっと親しい、もっと心を許した、もっと心のふれあうような関係ではないだろうかと思う。共に祈る中に、共に与えられた御言葉を分かち合う中に、与えられた恵みを証しし合う中に、神さまを中心として、そのような「麗しく楽しい」一時が持てたら、と思う。どこかのCMではないが「とろけるような」恵みを経験したいと思う。主よ、わたしたちの交わりをもっと豊かな、もっと親しい、もっとお互いの徳を高めるようなものへと導いてください。
「しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。」(ガラテヤ人への手紙3:25)
そう、本物が現れたのだから、本物が与えられているのだから、そこに集中していけばいいんだ。十字架の福音が与えられているのだから、他の周辺的なことにこだわっていなくていい。本当に十字架を語ろう、福音を語ろう。福音の圧倒的な力を語っていこう。主よ、今日も出会う方々に福音を語る者としてください。せっかく本物を与えられているのに、中心的なメッセ0時を与えられているのに、周辺的なことでうろうろすることがありませんように。御言葉の剣の力を経験させてください。
9月9日(月)
「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力のおよばない大いなる事とくすしきみわざとに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」(詩篇131:1−2)
自分の選べないこと、自分が変えることのできないもの、それを神さまの御手に委ねよう。神さまの御手に委ねよう。そして、赤ん坊のように神さまの御手の中で安らいでいこう。主よ、あなたに期待します。あなたに委ねます。あなたがわたしの歩みを支えてくださいますように。主よ、わたしの心にこの詩人と同じような平安を与えてください。
「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ人への手紙2:20)
これだ!キリストがわたしのうちに生きている、というような生き方、それが与えられているのだ。恐れるな、おじけるな、人の顔色を見るな。キリストがわたしのうちに生きているか、どうか、それが問われているのだ。それがわたしたちの生きることの喜びなんだ。それが生き生きとしたクリスチャンの歩みなんだ。主よ、キリストがわたしのうちに生きておられる、そのような生涯を送らせてください。そのような一日を送らせてください。
9月8日(日)
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:5−6)
これだと思う。わたしの使命として与えられているのは。涙と共に種をまくこと。それが本当に涙なしにできないことであったとしても、とにかく種をまいていくこと。それでいいと思う。それが大切だと思う。うけのいい話ではなくていい。あのフィニーが説教をした時に、人々は本当に怒って帰っていったという。でも、またその後で、悔い改めて帰ってきたという。それでいいと思う。人々が「聞きたい!」と思っている話ではなくてもいい。つまらない話をしようとは思わない。エキサイティングは聖書のメッセージを、退屈な話にしてはいけない。でも、何よりも聖書をストレートに語るような、福音をストレートに語るようなそんな説教者として立っていきたいと思う。
9月7日(土)
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121:1−2)
今日、あれから一年を前にして、この言葉が本当に意味を持ってくる。苦しみがある時に、悩みがある時に、不安がある時に聖書のことばはものすごい意味を持ってくる。わたしの助けは、わたしの力の源は、神さまから来る。天地を造られたお方。この世界を今も支配しておられるお方、その方から助けが来る。主よ、今日も私の助けになってください。今日もあなたを待ち望みます。あなたがわたしの生きる理由であり、あなたがわたしの生きがいであり、あなたがわたしの力の源です。
「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」(ガラテヤ人への手紙1:10)
この言葉は読む度に心に留まる。自分はいったい神さまの喜ばれようとしているのか、それとも人に喜ばれようとしているのか?主よ、今もう一度自分の心を探ってみます。主よ、人を恐れることがありませんように。あなたを恐れて歩む者としてください。あなたの喜ばれることを探っていくことができますように。人が理解してくれなかったとしても、人に拒絶されたとしても、あのエレミヤのようにあなたの導かれることを、あなたが喜ばれることを語る者としてくださいますように。
9月6日(金)
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩篇119:71)
苦しみの中ではこんな言葉はなかなか出てこない。でも、本当にそうなんだと思う。今までの歩みで自分の出会った苦しみはそんなに大きなものではなかったように思う。でも、それでも一つ一つの苦しみの中では「この苦しみさえ過ぎ去ってくれれば・・・」と思い、「どうしてこんなことになってしまったんだ」と思い過ごしてきたと思う。でも、振り返れば、それぞれの苦しみは意味があったと思う。「苦しみにあったことはわたしにとって良いことでした」と言えるか、と言うならば、やっぱりそうだと思う。あれがなかったら自分はどうなっていただろうかと・・・。おそらく、自分がこれから出会うであろう苦しみは、今まで出会ってきた苦しみより大きいだろう。だから、主よ、お助けください。この詩人のようにいつも言えるように、主がその中で立ち上がる力を与えてください。
「わたしたちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ、それを喜ぶ。わたしたちが特に祈るのは、あなたがたが完全に良くなってくれることである。」(コリント第二の手紙13:9)
これは本当にそうだと思う。自分がどう思われようと、自分がどう判断されようと、一人一人のメンバーが神さまによって取り扱われて、神さまによって強くされ完全なものへと造りかえられていってくれれば、それが最高だと思う。自分が弱いから、それで人々が奮起して、「頼ってられない」と言って、神さまから直接力をいただいて、神さまから直接答えをいただいて、そして、歩んでいってくださるなら、それは最高のことだ。主よ、そうです。本当に教会の一人一人が神さまあなたから直接答えをいただいて、喜んで歩んでいけるように主よ、どうか、扱ってください。主よ、一人一人に「御言葉が与えられる」という経験を与えてください。
9月5日(木)
「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。これは主のなされたことでわれらの目には驚くべきことである。」(詩篇118:22−23)
これは究極的にはイエス様のことを預言した言葉であろうが、わたしたちの歩みの中でこの事は主がしばしばなされることではないだろうか?主がわたしたちの目には見逃されてしまうようなものを用いて大きなわざをなされる。本当にこれは大きな励ましであると思う。主はわたしたちの目に留まらないようなものをも豊かに用いられる。慰めだ。自分も人に注目されなくてもいいと思う。主が用いてくだされば。驚かれるような者となりたい。「どうしてこんな人を神さまが用いられるのだろうか?」と。本気でそのことを求めていきたい。そうです。主よ、奇跡が見たいんです。誰が見ても、自分自身が見ても、「これは奇跡だ!」というような神さまの御業を見たいのです。主よ、あなたの御手で用いてください。
「そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。」(コリント第二の手紙12:15)
このパウロの姿はすごいと思う。伝道者魂だなあ。「雇われ牧師」という言葉を聞いたことがあるが、そういう根性になってしまってはいけないなあ、と思う。最初は愛に燃え、主と人とに仕えることに喜びを感じて歩んでいたけれども、いつのまにか「雇われ牧師根性」が忍び込んでいないか?時間と仕事量で「義務」を果たして、それでやれやれ、ということをしていないだろうか?「お仕事」ではなく、本当に愛にあふれて歩んでいきたい。そうじゃないと自分もダメになる、教会もダメになる。イエス様があの十字架の上でわたしたちの罪を背負ってくださったのだから、そのことを覚えながら、感謝して歩んでいきたい。主よ、自分の中に「雇われ牧師根性」が忍び込んできているなら、あなたがそれを徹底的に燃やし尽くしてください。教えてください。
9月4日(水)
「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。」(詩篇115:1)
これが礼拝でとても大切なことだと思う。主にのみ栄光を帰して、神さまにだけ栄光を帰して、人に栄光が帰されない事が大切だと思う。主よ、私をそのような説教者に、礼拝指導者にしてください。神さまを人々が注目し、「神さまってなんてすばらしいんだろう」と人々が思わないではいられないような礼拝を与えてください。主よ、人々が直接あなたとの深い関係を持っていくことができるようなそういう礼拝へと導いてください。そして、日々の歩みの中でも、一人一人が神さまからメッセージをいただいて歩んでいけますように。主よ、今日もお一人一人に語ってください。
「彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、私は彼ら以上にそうである。」(コリント第二の手紙11:23)
自分もパウロと同じように気が狂ったように言おう。「私はキリストの僕だ!」「私の誇りはキリストだ!」「私が誇りにするものはキリストの十字架以外にはない!」と。これはなんの迷いもなく、なんの曇りもなく言えることだ。自分の何かではない。イエスが私のために死んでくださった、そして、今もこの私を受け入れ、支え、守ってくださっている、今も救いの感動に動かされて生きている。これは本当に誇りを持って言うことができる。私は主の僕だ!主よ、感謝します。あなたの僕とされていることを感謝します。こんな喜びをもってそれを言うことができることを感謝します。もっともっとあなたの僕とされていることの意味、僕として生きることの意味を教えてください。
9月3日(火)
「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。」(詩篇112:7)
悪いおとずれに恐れず、心がゆるがないなんて、どういう事だろうか?神さまの特別な助けだろうか?何年か前に病気になった牧師が、検査結果を聞く数日前にこの言葉を与えられて、検査結果を受け入れることができた、検査結果を聞くために神さまが前もって、この言葉で彼の心を整えてくださった、という話を読んだ。本当にそれはすごいことだと思う。神さまはそういう特別な時に、特別な助けをわたしたちに与えてくださる。主よ、あなたが私の人生に「悪いおとずれ」がやってくるときに、特別な助けをお与えください。主よ、あなたがこのみ言葉通りに「その心は主に信頼してゆるがない」ということを経験させてください。
「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。」(コリント第二の手紙10:4)
わたしたちの武器は本当にものすごいものだ。だから、胸を張って神さまの証をしていこう。恐れる必要はない。人々がどんな反応をするかを心配しなくていい。主が語ってくださる、主が要塞を破壊してくださる。大丈夫だ。だから、語る時に恐れないで語る伝道者でいたい。思いっきり語る伝道者でいたい。人の顔色を見て、何か機嫌取りのような事をするのではなく、イエス様のメッセージを思いっきり語るものでありたい。主よ、今日も強めてください。あなたの証し人としてください。
9月2日(月)
「彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた。」(詩篇105:19)
み言葉がヨセフを試みた、とある。創世記を見るならば、彼はいろいろな出来事に苦しんでいる。誤解されたり、忘れられたり・・・。誤解も悲しいが、忘れられるのはもっと悲しい。けれども、聖書はそれを「み言葉が彼を試みた」と言っている。やっぱり人を見て、「何であの人はこんなことをするのだろうか」「何であの人はわかってくれないのだろうか」「みんな私のことを忘れてしまった」と人のする事に傷ついてしまいやすい。でも、神さまに目を向けていくならば、「み言葉が私を試みている」と見ていくことができるのではないだろうか?主よ、試みの中で、困難の中で、あなたに目を向けていくことのできる者としてください。あなたに希望を持っていきます。あなたご自身が私の希望です。
「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」(コリント第二の手紙9:6)
豊かに与える。豊かにささげる。自分にとって豊かに与えるとはどういう事なのか考えさせられる。一般論としてではなく、自分にとって・・・。自分は豊かに与えているだろうか。豊かにささげているだろうか?しばしば思わされるけれども、守りの姿勢で、最低限の義務を神さまにささげて、自分のなすべき事をはたして満足していないだろうか?豊かにまく者となりたい。守りの姿勢ではなく、神さまが必ず必要は満たしてくださるという信仰に立って、豊かにまく者となりたい。
9月1日(日)
「あなたは泉を谷にわき出させ、それを山々の間に流れさせ、野のもろもろの獣に飲ませられる。野のろばもそのかわきをいやす。」(詩篇104:10−11)
泉は谷に湧く。泉はいつも谷に湧いている。尾根に湧く泉などない。わたしたちの人生でも谷のようなところにこそ、泉が湧くのだ。今、自分は谷にいる、というところではない。でも、谷のようなところに来たときに、この事を覚えていたい。谷間にこそ、水が湧くのだ。今、自分自身は谷間にいるわけではない。だから言えるのかもしれないが、主の恵みは谷間にこそ湧く。だから、谷間にいる人々に、そんなこと考える余裕もないような谷間にいる人々に「泉は谷間に湧く」ということを語っていく使命があるのではないだろうか?今日も、礼拝で語る使命が与えられている。あの、どこかの牧師の言葉を思い出す。「自分は病気になるまでは、できるだけ多くの方々に伝わるメッセージをしたいと思っていた。でも、自分が病気になってからは、一人でいい、神さまのメッセージを必要としている人に届いてほしい、と思うようになった。」本当に今日、谷間にいる一人に届くメッセージを語らせてください。神さまご自身が谷間に泉が湧くのだということを示してください。