10月31日(木)
「わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのはどうしたことか。」(エレミヤ7:10)
これはイエスが神殿が「強盗の巣になっている」と言われたところの元の聖書の箇所だ。それは、神殿に集まりながら、救いを喜びながら、その陰で神の憎むことをしていた人々に対する裁きの言葉だ。けれども、それはまたわたしたち、今日のクリスチャンに対する警告でもあるのではないだろうか?イエスの十字架があるから大丈夫だ、と言いながら、本当の意味では悔い改めようとしないとするならば、それは教会を強盗の巣にすることではないだろうか?自分の罪深さを恥じ、どうしようもない自分の弱さに涙して、イエスの十字架を仰いで立ち上がっていくべきところで、自分の弱さにあぐらをかき、イエスの十字架をお守りくらいにしていないだろうか?「赦されるんだから何をしてもいい」とまではいかなくても、「赦し」を甘えの口実にしていないだろうか?自分はがんばってりっぱなクリスチャンになろうとして、偽善者にしかなれなくて、そんな自分の姿に失望して、でも、そのどん底で、「そんなわたしだからイエスは十字架にかからなければならなかった」ということを知って、感動して、感謝して歩み始めた。だから、自分の弱さ、醜さ、どうしようもなさは痛いほどわかっている、そして、そこに働く主の恵みを知っている。でも、またそれが「自分はどうせ弱い人間なんだ」と単なる甘えに変わってしまう危険をも感じる。主よ、悔い改めの意味をもっともっと深く教えてください。

「しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。」(ヘブル人への手紙5:14)
主よ、堅い食物が食べられる者としてください。そして、堅い食物をお与えください。あなたの恵みの深さ、あなたの愛の深さをもっともっと教えてください。それが痛みを伴うものであったとしても・・・。人間同士の信頼関係にひびが入るようなものであったとしても・・・。とにかくあなたの奥義を知るものとしてください。

10月30日(水)
「ああ、わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたしは苦しみにもだえる。ああ、わが心臓の壁よ、わたしの心臓は、はげしく鼓動する。わたしは沈黙を守ることができない、ラッパの声と、戦いの叫びを聞くからである。」(エレミヤ4:19)
エレミヤは厳しい預言をしたが、それはやはり自分の中での痛みを感じないではいられないものだった。それは決して、「人の顔がこわくて」ということではなくて、「人々が滅びるのに心が痛んで」ということであった。彼は裁きの預言をする時に、滅びる人々のことを思い、苦しむ人々のことを思い、心に激しい痛みを感じた。いや、はらわたに激しい痛みを感じないではいられなかった。わたしの中にその痛みがあるだろうか?どこかで、「神さまは最後は赦してくださるのではないだろうか?」という甘い考えがないだろうか?「最後の最後でチャンスを与えてくださって、それに多くの人々が応えて、赦されるのではないだろうか?」という甘い考えがないだろうか?それが自分の中での真剣な伝道の思いに水をさしてはいないだろうか?「あんまり熱心になって気味悪がられるのも・・・」なんて思っていないだろうか?エレミヤは嫌われようが、気味悪がられようが神さまのメッセージを語っていった。わたしも神さまの裁きに痛みを感じ、必死になって福音を語る者となりたい。主よ、悔い改めます。主よ、用いてください。

「わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。」(ヘブル人への手紙4:11)
昨日も語られたが、一人として脱落することなしに、神さまの救いに入れて頂こう。教会の一人一人が洗礼を受けただけではなく、救いを経験しただけではなく、最後の日までしっかりとその歩みを全うして、みんなで神さまの前に立てるように、イエス様の許の安息に迎え入れられるようにと祈って、励まし合って、歩んでいきたい。主よ、一人残らず、一人残らずです。そのためにあなたと共に働きたいと思います。あなたの与えられる使命を果たしたいと思います。主よ、お助けください。

10月29日(火)
「彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである。」(エレミヤ1:19)
エレミヤは生涯、人々に耳を傾けてもらえない預言者であった。人々に「いいお話だ」と言われるようなこともなかった。そんなことはどうでも良かった。自分の支持者が多く起こされなかった。それは彼が御言葉を真剣に語ったからにほかならない。そして、彼に対して、反対の声があがり、迫害が起こった。それでも彼は語り続けた。神さまに与えられたメッセージだけを。主よ、わたしもそのような者としてください。あなたからメッセージを受け取り、人々に受け入れられることを求めるのではなく、あなたからのメッセージを人々に伝えていく者としてください。預言者としてください。そのために御言葉をいつも与え続けてください。

「『きょう』といううちに、日々、互いに励まし合いなさい。」(ヘブル人への手紙3:13)
救われたら、それで終わりではない。それで「もう大丈夫」ではない。最初の確信を最後まで持ち続けることが大切だ。主よ、確信を持ち続けさせてください。確信に生かし続けてください。そして、自分だけではなく、周りの愛する一人一人が最初の確信にしっかり立っていくことができますように。

10月28日(月)
「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる。」(イザヤ66:24)
イザヤ書の最後の言葉だから、もう少し救いの希望を与えてくれるような言葉を期待するのだが、神さまがわたしたちに与えられる言葉は必ずしもわたしたちの期待に応えるようなものではない。ここでも、罪の結末、神にそむいた生き方の結末が語られる。罪の恐ろしさ、悲惨さを思わされる。だから、もっと大胆にこの事を、そして、救いのすばらしさを語らなければならないと思う。「いい人」はたくさんいる。その「いい人」たちもキリストによらなければ、神にそむいていたら、このような結末になるということは恐ろしいことだと思う。本気で、イエス様の事を伝えていこう。

「今もなお万物が彼に服従ている事実を、わたしたちは見ていない。」(ヘブル人への手紙2:8)
だから、福音を伝えていこう。万物の中で、一番神さまに服従すべきで、一番神さまに服従していないのが、人間だ。だから、福音を伝えていこう。イエスがわたしたちのためにどんなことをしてくださったのか、という愛の福音を。恐れではなく、愛に支配されて・・・。

10月27日(日)
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。もろもろの民の中に、わたしと事を共にする者はなかった。わたしは怒りによって彼らを踏み、憤りによって彼らを踏みにじったので、彼らの血がわが衣にふりかかり、わが装いをことごとく汚した。」(イザヤ63:3)
最近、このような裁きのところが示されるし、それらの言葉をストレートに受け止めることができるようになった。今まで神さまの厳しさにちょっと腰が引けていたが、神さまがどれほど罪を嫌われ、罪を憎まれるかを示されているように感じる。神さまが憎まれる罪を、わたしも憎むことができるように、神さまが怒られる罪について、わたしも怒りを感じる者となるように、そのように願う。鈍くなって、眠ってしまっていて、神さまの嘆かれている嘆きに鈍感になることがないように、そのように願う。そして、自分自身がその罪から救われていることのすばらしさを知ることができるように。

10月26日(土)
「ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」(イザヤ59:2)
罪の恐ろしさ、罪の深刻さを思い知らされる。神さまがどれほど罪を嫌われるか、そのことを軽く考えてしまうことはないだろうか?「赦されている」ということのゆえにかえって、その深刻さ、その大きさを見間違えてしまうことはないだろうか?その「赦される」ためにどれほどの犠牲が払われ、どれほど大きな愛が注がれてきたかを忘れてしまっていないだろうか?罪はわたしたちと神さまとの間の隔てとなり、罪は主の顔を覆ってしまうのだ。主よ、本当にあなたが罪を憎まれるように、罪を憎む者としてください。罪から離れる力を与えてください。

「そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」(ヘブル人への手紙1:3)
今もイエスは神の右の座におられる。何のために?わたしたちのためにとりなしの祈りを捧げるために。今もとりなしておられる。今もわたしたちのために。今もイエス様の血潮がなければ、わたしたちはひとたまりもない。イザヤ書にあるように、神さまはわたしたちの罪のゆえに顔を背けなければならない。ただ、イエス様の十字架の血潮によるあがないだけだ。それだけが、わたしたちに平安を与え、赦しを与え、力を与えてくださる。この事を大胆に語っていく者とされたい。

10月25日(金)
「このようにわが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」(イザヤ55:11)
神さまのみことばはむなしく終わる事はない。神さまの語られた事は必ず実を結ぶ。それがすぐに見えなかったとしても・・・。みことばを信じよう。そして、説教の語られた事についても神さまを信頼しよう。そこで目に見えた反応がなかったとしても、「神さまの喜ぶ事をなす」のだ。必ずしも自分の喜ぶ事ではないかもしれない。牧師の喜ぶ事ではないかもしれない。でも、神さまの喜ばれる事をして、みことばは決して地に落ちない。そこに立っていける事、信じていける事は何とすばらしい事であろうか?本気で神さまを信頼しよう。みことばは決してむなしく地に落ちる事はない。必ず実を結ぶ。

「彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めておくためであったかもしれない。」(ピレモンへの手紙15)
神さまは最善のために、「どうして?」とわたしたちに思える事をされる。どうして?とわからなくなる時がある。でも、それは神さまのもっと大きな働きのためではないだろうか?神さまがわたしたちにもっとすばらしい事をしてくださるために、もっとわたしたちを訓練して大きな御業を見せるために「どうして?」という事を与えられるのではないだろうか?ピレモンにとって、オネシモのした事によって受けた傷は本当に大きかっただろうと思う。しかし、パウロは愛を持って、「彼を赦してくれ、受け入れてくれ」と言っている。でも、それはオネシモのためである、というよりも、ピレモンのためだったのではないだろうか?主よ、わたしにあなたが与えてくださっているチャレンジを真っ正面から受け止める者としてください。ピレモンに迫ったパウロのように、わたしに迫ってください。そして、それがあなたの愛から来ていることを知ることができますように。

10月24日(木)
「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」(イザヤ53:11)
イザヤ書53章はイエスの受難の預言だ。その預言の最後の部分で、イエスがわたしたちの救いを喜びとして見てくださっている、という。私自身は何を喜びとしているだろうか?「一粒の麦が地に落ちて・・・」ということを思い出す。自分はそういう生き方ができるだろうかと思う。そのように与えることができるだろうかと思う。人が救われ、造りかえられ、人が新しくされ、それを光として、それで満足していくこと、そのような命に生きたいと思う。主がわたしたちの救いをを喜びとしてくださったのだから・・・。

「聖霊によって新たにされて・・・」(テトスへの手紙3:5)
救われてもかわらない・・・赦された罪人にすぎない・・・ということを良く聞く。それは「赦された罪人」であることは確かだ。でも、それだけではない。それよりも大切なことは、わたしたちは赦されただけではなく、聖霊様によって新しくされていることだ。新しくされていることだ。それを日々求めていく、クリスチャンの一人一人にそれがはっきりと見えるように祈っていく、それが本当に大切なことだと思う。主よ、聖書のことばを感謝します。神学ではなく、聖書のことばを感謝します。聖霊によって私自身を新しくしてください。そして、教会の一人一人を今日も新しくしてください。

10月23日(水)
「しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打ち石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか。」(イザヤ50:8)
「顔が火打ち石のようにされる」というのはどういうことだろうかと思う。どんな事があっても堅く立っていく、ということだろうが、「火打ち石のような顔」。どんな石にも割れない、火花を散らす強さを持っている、ということだろう。主が共におられるから、主がわたしを義とされるから。人々ではなく、人々ではなく神がわたしを義とされるから・・・。そのことを忘れないでいよう。恐れるな、顔色をうかがうな、主が与えられるaffirmationを信頼して歩め。そこに堅く立て。

「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」(テトスへの手紙2:14)
イエス様の十字架は、わたしたちが良いわざに熱心な民となるためだという。「もうあの十字架で赦されているから関係ない」という生き方ではなく、本当に良いわざに熱心になるようにと召されているのだ。主よ、熱心にならせてください。主のわざに、あなたと共に働くことに、あなたのご計画に生きていくことに熱心にならせてください。今日の一日もあなたのわざに熱心でいられますように。

10月22日(火)
「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46:4)
主はわたしを造られた。だからわたしを運んでくださる。負って下さる。主よ、感謝します。そう、主が運んでくださる。

「また岩を裂かれると、水がほとばしり出た。」(イザヤ48:21)
主が水を出されるのは岩からだ。岩のような固いところからだ。岩のように固いところから主は水を出される。わたしたちの常識を越えている。まさかここからは出ないだろう、という岩を裂いて水を出してくださる。主はなんてすごい方だろうか?主よ、あなたは今どこから水を出そうとされているのですか? また、この岩はイエスだ、という言葉もある。イエスのもとに泉がある。イエスのもとに水があふれている。主よ、あなたのもとで飲みます。イエス様から飲んで飲んで、いっぱいにしてください。「わたしの杯はあふれます」という経験に導いてください。

「彼が健全な教えによって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘する事ができるためである。」(テトスへの手紙1:9)
誤りを指摘するためにはしっかりとした正しい、「健全な教え」に生きていないといけない。「ああ、そういう考えもありますねえ」ではいけないのだ。もっともっと正しい教えを学び、正しい教えに生きて、誤りを指摘できる者となりたい。主よ、助けてください。わたしをきよめてください。わたしの生活の一つ一つの側面を主がきよめ正してください。今日も一つ、気づかせてください。あなたの喜ばれる歩みがどんなものであるかを。

10月21日(月)
「あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」(イザヤ45:19)
これはペルシャの王クロスに対する預言だ。クロス王が「主」なる神を知らなかったとしても、神であられて、クロスに力を与え、クロスを用いなさる。神さまはそういうお方だ。ならば、神を知っているわたしたちにとって、どんなに恵み深く、力強いお方であろうかと思う。主がわたしたちの味方であるならば、わたしたちはどうして恐れるだろうか?神さまが知らない者たちをも用いて御業をなされるなら、知っていて用いられるなんて、なんとすばらしい事だろうか?もっともっと神さまに用いられたい。神さまに用いられている実感が欲しい。主よ、あなたが日々教えてください、あなたの目的を、あなたがどのように導いておられるのか、何をしようとしておられるのか、あのアブラハムになそうとする事をお分かちになったように、わたしにも分かち合ってください。

「わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方する者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。」(テモテへの第二の手紙4:16)
パウロがキリストの事をはっきりと証した時に、誰も彼の味方はいなかったという。自分はどうだろうかと思う。本当にそのような状況に耐えられるであろうかと思う。誰も味方をしてくれないような状況の中で神の証がはっきりとできるだろうか?ルターもそうだ、またナチス時代の告白教会もそうだ、信仰の先輩たちは本当に人々が耳を貸さないような状況の中で、自分が苦しむ事がわかっていながら、自分が信じていた人々から捨てられる事もわかっていながら、信仰の姿勢を曲げなかった。そのために、そのために、主よ、あなたとの本当に深い親しい関係を与えてください。どのような状況の中でも、人々が味方をしなかったとしてもイエスの福音にしっかりと立っていく事ができるように。

10月20日(日)
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ43:19)
神さまのなさる新しい事、それは直接的にはイエス・キリストによる救いの事を言っている。それによって荒野には道ができ、砂漠には川が流れる。そしてそれが一人一人の人生に当てはめられる時に、わたしたちの人生の荒野に、人生の砂漠に川が流れ、道が開かれていく。砂漠だからこそ川が流れる、荒野だからこそ道が開かれる。人々の中にある渇きはリバイバルの前兆だという。普段は自分が渇いている事にさえ気がつかない。そこで満足してしまっている。そして、他のものによってかわきをごまかしてしまっている。主よ、もっともっとあなたに対する渇きを与えてください。そして、砂漠に川を流れさせてください。

10月19日(土)
「貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、その舌がかわいて焼けているとき、主なるわたしは彼らに答える、イスラエルの神なるわたしは彼らを捨てることがない。」(イザヤ41:17)
渇くときに、主は応えてくださる。わたしたちが渇きを訴えるときに、主はわたしたちをそのままにはしておかれない。わたしたちを見捨てられない。わたしたちの心に語り、悔い改めを迫り、そして、主の喜びで満たしてくださる。主の命で満たしてくださる。本当にそうだなあ、と思う。問題はわたしたちが神さまに求めるかどうかだと・・・。地上の水に答えを求めて行くのでなく、主に求めていくかどうかだと・・・。

「それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」(テモテへの第二の手紙3:17)
聖書を読むときに、聖書に教えられていくときに、ただ「恵みがわかる」だけではなくて、わたしたちがととのえられて、良いわざを行うことができるように整えられていく・・・という。そう、わたしたちはよい行いをするようにと造られて準備された者であるのに、いつの間にか、「それは罪深いわたしたちには無理だ」というところに安住していないだろうか?「罪深い」ということが言い訳のようになって、逃げていないだろうか?主よ、みことばによって、良いわざを行う者としてください。整えられた者としてください。聖霊によってきよめ、内側からそれを喜びとする生涯を送らせてください。

10月18日(金)
「彼らは、わたしの家にある物を皆見ました。倉庫のうちには、彼らに見せなかった物は一つもありません。」(イザヤ39:4)
このころ、バビロンは地方の小国だった。そのころの脅威はアッシリアであり、そのアッシリアに対して対抗勢力となるバビロンはユダにとっては応援したい国であったであろう。でも、そのバビロンがエルサレムを滅亡させる、ということをイザヤは預言の中に示された。ここを見ると、ヒゼキヤ王の無邪気さが愚かに見える。死を宣告されるところから祈りが聞かれて奇跡的に癒された、その浮かれた状態のまま、バビロンの使者を迎え、無邪気に自分の持ち物を自慢する。しかし、そのバビロンによってエルサレムが滅ぼされてしまうことが彼には見えなかった。いや、自分自身も歴史を振り返る立場で見るからそのようにわかるだけで、実際にこのようにしていることが多いのではないだろうか?主よ、「永遠を見る目」を研ぎすまさせてください。霊的な鋭さを与えてください。そして、永遠を見ておられるあなたのみ思いに近くあらせてください。

「兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。」(テモテ人への第二の手紙2:4)
そう、今自分は戦時下にいる。霊的な戦いのまっただ中にいる。主が召集された戦いのまっただ中にいる。日常生活のことに心が奪われてしまっているとしたら、自分の欲に支配されているとしたらそれはおかしい。主よ、今日の霊的戦いの中にあっても、主よ、あなたにある勝利を与えてください。

10月17日(木)
「あなたはアッスリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったゆえ・・・」(イザヤ37:21)
あなたが祈ったから・・・と神は言われた。祈らなかったらどうなったんだろうか?と思わされた。この部分をまっすぐ読むと、祈らなかったら、この神の奇跡は起こらなかったのだと思う。たとい、神は元々イスラエルを救おうとされていたとしても、もし祈らなかったら、イスラエルの人々は「自分たちの力で勝ったのだ」と傲慢になっていたであろう。そうでなくても「ラッキーだった」と浮かれていただけであろう。いずれにせよ、今日は祈ることの大切さを教えられた。私が神に祈るのを神は待っておられる。主よ、今日の祈りを導いてください。主よ、祈ることの喜びを経験させてください。祈る課題を与えてください。祈り続けさせてください。

「またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守ってくださることができると、確信しているからである。」(テモテへの第二の手紙1:12)
神が私に委ねられているものを守ってくださる。神さまに対する信頼、安心感、そこに生きているパウロの姿を見る。恵みに対する信頼。牧会をするのは私ではない。神さまが一人一人に働いてくださって、御業をなしてくださる。私はその僕だ。神さまの導きのままに使われる僕だ。だから、「優しさ」で牧会をしないように気をつけよう。一人一人の心を神さまに向けさせていただくような牧会をしていこう。主よ、あなたが導いてください。

10月16日(水)
「これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。」(イザヤ34:16)
34章は諸国の裁きの預言で、読んでいて決してcomfortableではない。恐ろしい情景がイザヤの前に幻のように見せられたのだろうか?これをもし今日、絵にしたら、聖書の絵ではないように思えるだろう。でも、これが神さまが命じられ、イザヤに見せられたことだったのだ。いつの間にか、自分の中で、「神さまはこういう方だ」というのが自分勝手に決められてしまい、それに合わない聖書のことばは読み飛ばしたくなってしまう。でも、これが神がどれほど罪を嫌われるかを書いた幻だ。これが最後の日の神の裁きの幻だ。そして、その裁きをイエスが受けてくださったこと、それ故に今自分もこうして祈れることも思う。神さまの言葉を真っ正面から受け止める者となろう。そして、神の言葉を大胆に語る者になろう。

「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(テモテへの第一の手紙6:8)
いつの間にこんなに贅沢になってしまったのだろうか?リメンバー・サンディエゴ。サンディエゴでの歩みを思い出せ。衣食があって足りていたではないか。神さま、あなたを楽しみとし、あなたと共にいることでわたしの心を満たしてください。あなたに満たされていないと、他のもので心を満たしたいと思うようになります。これが欲しい、あれが欲しい・・・と。だから、あなた自身が欲しいです。今日、本当に心からそう思えることを感謝します。時間の使い方、導いてください。お金の使い方、導いてください。主よ、あなたがわたしの心をあなた自身で満たしてください。

10月15日(火)
「かのエジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまずき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる。」(イザヤ31:3)
イザヤがこれを言うのにはどんな内的な戦いがあったかと思う。アッスリヤが攻めてくる、というときに、戦術的にはエジプトと同盟を結んだらいい、というのは当然の話だっただろう。そして、挙国一致が当たり前のようなときに、一人異を唱えて、「そうじゃない、神に立ち返るのだ、悔い改めて、そして落ち着いていよう、信頼していよう」というのは、なんと大変なことだったか、それは9・11を経験したときに、本当によくわかった。イザヤはそれを叫んだ。そして、イザヤが正しかった。主よ、わたしを預言者にしてください。イザヤの時代の偽預言者のように、エレミヤの時代の偽預言者のように、人々が喜ぶことを語ることがないように。見せかけ平和、見せかけの信仰にだまされることがないように。

「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように、年とった女には母親に対するように、若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい。」(テモテへの第一の手紙5:1−2)
家族のように・・・ということ。父親、母親、兄弟、姉妹、として見ていくこと。お互いをそのように見ていくこと、そのように愛していくこと、そのように生きていくこと。主よ、わたしは牧師です。主よ、そのような牧会をさせてください。いままで、この事を見逃していました。主よ、教えてくださったことに感謝します。

10月14日(月)
「主は言われた、『この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される。」(イザヤ29:13−14)
本当にこの「驚くべきこと」を待ち望んでいます。自分自身、いつの間にか、「主の祈り」も「使徒信条」も祈りの言葉も、聖書のことばも「そらで覚えた人の戒め」になってしまっているように思います。主よ、驚くべきわざが今欲しいのです。知恵や知識とはレベルの違う、いや、知恵や知識がくすんでしまうような、驚くべきわざが必要なのです。主よ、飢え渇き、待ち望んでいます。主よ、始めてください。わたしの中から。

「むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範となりなさい。」(テモテへの第一の手紙4:12)
自分がこの場所で使われている「若い」という言葉に当てはまるのがあとわずかになっていく中で、いままで、いつも、この前の部分、「あなたは、年が若いため人に軽んじられてはならない」という部分にばかり目がいって、年に関係なく、神さまの権威を・・・という風に読んでいたように思う。でも、今日は、そうではなく、自分の責任、信者の模範になるということの大切さを語られた。自分が「わたしは弱い者ですから・・・」と言い訳をして、神さまの働きを妨げていなかっただろうか、サウルに対してサムエルが言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされました。」という言葉を思い出させられた。主よ、わたしの言葉をきよめてください。口に門守をおいてください。行いをきよめてください。愛を与えてください。信仰を与えてください。純潔を守らせてください。主よ、お願いします。

10月13日(日)
「われわれの神、主よ、あなた以外のもろもろの主がわれわれを治めた。しかし、われわれはただ、あなたの名のみをあがめる。」(イザヤ26:13)
自分の周りを支配しているのは商業主義だと思う。それが自分の中にまで忍び込んでいて、振り回されて、いつの間にかそれに支配されているのではないか、と示された。物欲も、それをほしいままにしていたら、どんどんふくらんでいくものだということを思わされる。富は神さまから管理を任されて、それは「自分の勝手に使っていいはずだ」というものではなくて、責任がある。管理責任がある。周りの人に対して説明責任はないとしても、神さまに対しては説明責任がある。本当に神さまを主とすることが、自分の場合はお金と時間の使い方の中に問われていることを感じさせられる。主よ、わたしを自由にしてください。わたしを捕らえているこだわり、欲から解放して、あなたに説明できないようなお金の使い方、あなたに説明できないような時間の使い方から解放してください。あなたを主とします。

10月12日(土)
「これがその起源も古い町、自分の足で移り、遠くにまで移住した町、あなたがたの喜び誇る町なのか。」(イザヤ23:7)
神がツロをさばかれる宣告の言葉だ。ツロはこの時代の商業の中心だった。その商業の中心を神さまがさばかれる。これもまた神が彼らの高慢をさばかれることだという。自分の繁栄を誇り、おごっていた人々に対して、おごっていた町に対して、神さまが裁きを下された。いつもへりくだって歩みたいと思う。繁栄さえも神さまの許しなしにはあり得ないことを忘れないでいたいと思う。主よ、あなたが今日もあなたの御力を表してください。わたしの、わたしたちの能力や努力ではなく、あなたの御力を拝させてください。今日からの修養会でも、神さまの御力を見ていくような時としてください。

「彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかもしれない。」(テモテへの第一の手紙3:6)
これは監督、今日の教会で言えば牧師のことを言っている。牧師は高慢になりやすいという警告だ。自分自身を顧みても、高慢になりやすい者だと思う。ここ最近、イザヤ書を通して、「傲慢の悔い改め」について語られてきているのも神さまの特別な語りかけだと思う。主よ、わたしの心を探ってください。わたしがあなたの前に本当に深いところまで取り扱われて、神さまの前に、また人の前に真実に歩むことのできる者としてください。主よ、探ってください。

10月11日(金)
「その日、万軍の神、主は、泣き悲しみ、頭をかぶろにし、荒布をまとうことを命じられたが、見よ、あなたがたは喜び楽しみ、牛をほふり、羊を殺し、肉を食い、酒を飲んで言う、『われわれは食い、かつ飲もう、明日は死ぬのだから。』」(イザヤ22:13)
苦しみの中で、神さまが求めるのは「悔い改め」ではないだろうか?自分の強さを強調したり、することではなくて、心を低くして神の前に出ることではないだろうか?悔い改めて神の前に出る。本当に今、わたしたち、いや、わたし自身がその必要を感じる。あのユダとイスラエルの国難の中にあって、悔い改めることを神は求められた。人々が「わたしたちは勝てる」と叫ぶ中で、悔い改めを勧めるのは本当に勇気がいったであろう。でも、イザヤも、エレミヤも、本当の預言者たちは、恐れないで悔い改めを説いた。今日もそうなのではないだろうか?危機の中で普通は「諸国との同盟を求める」「人々の心を鼓舞する」のだろう。しかし、今、必要なのは、「そんなのが何になる?」と言われても、愚直に福音を語り、悔い改めを説く預言者ではないだろうか?

「神はすべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」(テモテへの第一の手紙2:4)
アーメン。わたしもこのために召されている。聖書の中にはっきりとこの事が記され、神さまの言葉として記されていることに喜びを覚える。それと共に責任を感じさせられる。主よ、金太郎飴のように、キリストの姿が生活の一つ一つの側面で見えてくるような者にしてください。主のことをいつもいつも語っていけるような者としてください。ちょっとうっとうしく思われるほど、キリスト気違いにしてください。

10月10日(木)
「その日、イスラエルはエジプトとアッスリヤと共に三つ相並び、全地のうちで祝福を受ける者となる。」(イザヤ19:24)
中東は今火種のもとだ。しかし、この言葉を100年前、まだ、イスラエルが再建国されていなかった頃の人々はどんな風に読んでいたのだろうか?今見ると、エジプトはエジプト、アッスリヤはバビロンと共に、イスラム諸国、特にイラクを思わされる。イスラエルとその周辺の国々が共に神に仕える時が来る、という。信じられないことだ。でも、100年前の人々には「イスラエル」という国が再建国されること自体が「信じられないこと」だった。いずれにせよ、祈りたい。イスラム諸国の人々も神に仕える者となるように・・・。かの地でリバイバルの御業が起こり、たくさんの人々がイエスのもとに来ることができるようにと・・・。「そんなことはあり得ない」と人は言うかもしれない。しかし、みことばは必ず成る。

「わたしは、その罪人のかしらなのである。」(テモテへの第一の手紙1:15)
これは本当にわたしもそう思う。自分自身、「罪人のかしら」だと思う。人を殺したよりも、詐欺を働いたよりも、不倫の罪を犯したよりも、自分自身は、罪深い者であることを思わされる。なぜなら、わたしは偽善という罪を持っていた者だから・・・。イエス様が一番嫌われた、イエス様が一番非難された、そして、わたし自身一番「こういうタイプの人間にはなりたくない」と思っていた偽善者になっていたから・・・。罪深い者だと思う。そのわたしをも十字架にかかるほどまでしてあがなってくださったイエスの愛。それがうれしい。今日も、本当にそのことを思う。主がしてくださったこと、主がしてくださった最高のこと・・・。それを感謝しつつ歩んでいこう。ハレルヤ!

10月9日(水)
「われわれはモアブの高ぶりのことを聞いた。」(イザヤ16:6)
この先を読んでいくと、モアブが一生懸命祈っても、その祈りは聞かれない、と続く。どうして聞かれないかというと、それは「モアブの高ぶり」のせいだという。祈りが聞かれないというのは本当につらいことだと思う。その原因がどこにあるのか、いろんな可能性があるだろう(御心ではない、訓練を与えておられる・・・など)が、この場合は「人々の高ぶり」が原因だったという。本当にへりくだり、悔い改め、神さまの前に出よう。高慢な心を持ったまま、自分の都合で「神さま助けてください」と祈り、それが聞かれないので、「どうして・・・」なんて思うことがある。本当に自分を振り返り、へりくだった心で神さまの前に出よう。神さま、どうかわたしの心を探ってください。どうかわたしに祈りの秘訣を、祈りの秘密を教えてください。

「しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい。どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えてくださるように。」(テサロニケ人への第二の手紙3:15−16)
神の言葉に従わないクリスチャンたちをも敵と思わないで兄弟として・・・とは、本当に大切なことだと思う。そして、それに続いて、平和の主が平和を与えてくださるように、という祈りが続いている。本当に神さまが平和の神さまであり、神の言葉に従わないクリスチャンに対してはっきりとした態度を取りながらも、兄弟として受け入れていく・・・。平和の主。内的平和が外的平和に先立つ。普通は反対かもしれない。周りの人とうまくいっている時に、心の中の平和が保たれていく・・・と。でも、神さまは先ずわたしたちのうちに、内側に平和を与えてくださっている。それが周りの人との平和を作り出していく。主よ、あなたが平和の神であられるなら、どうか、わたしの心に平和を与えてください。平和な心を与えてください。そして、人とのすばらしい平和を与えてください。

10月8日(火)
「あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、滅びが全能者から来るからだ。」(イザヤ13:6)
自分は泣いているだろうかと思った。主を信じようとしない人々のことを思い、その裁きを思い、泣いているだろうかと思った。神さまの裁きを甘く見ていないだろうか?いつの間にか神さまをなめてしまっていないだろうか?本当に神さまの大きさ、神さまの厳しさ、神さまの恐ろしさを甘く見ていないだろうか?裁きが甘く見られてしまうときに、十字架の恵みも甘く見られてしまう。主よ、今日、そのことを教えてくださってありがとうございます。主よ、裁きの恐ろしさ、厳しさの前に、泣く者としてください。主よ、滅び行く人々のために泣く者としてください。無関心から解放してください。罪の恐ろしさを軽く見ることがないように・・・。

「この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。」(テサロニケ人への第二の手紙2:8)
イエス様の来臨の輝き、イエスの口の息、それの力の大きさを感じさせられる。「不法の者」に人々が惑わされてしまう時が来るというのだが、その不法の者も、イエスの輝きによって滅ぼされるのだ。イエスの栄光、イエスの輝き、そのものすごさ、その力強さ、それを待ち望もう。主よ、その栄光を垣間見せてください。その栄光を少しでも表してください。それによって人々が罪を示され、打ちのめされるようなご栄光を表してください。主よ、あなたを待ち望みます。

10月7日(月)
「彼は主を恐れることを楽しみとし・・・」(イザヤ11:3)
主を恐れることが「楽しみ」なのだという。主を恐れること、それは厳粛で、背筋を伸ばさせられ、襟を正させられるものであるかのようなイメージがある。でも、それはまたわたしたちにとって楽しみだという。考えてみれば、確かにそうだと思う。本当に神さまの前に歩んで、神さまが語ってくださって、神さまと共に歩んでいる時に、それは本当に楽しい歩みだと思う。何かおもしろおかしいことはなくてもいい。ただ、真剣に神さまの前に立って、神さまからみことばをいただいて、神さまの奇跡を見せて頂いて、歩んでいくとは何という幸いだろうかと思う。それが自分の喜びであり、楽しみだ。主よ、今度の修養会で、本当にそのような楽しみを経験させてください。

「あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばき・・・」(テサロニケ人への第二の手紙1:5)
神さまは今もわたしのことを神の国にふさわしい者にしようとされている。そのためにさばかれることがある、そのうちに苦しみを感じたりすることもある。でも、何よりも「神の国にふさわしい者」にされることがすばらしい。それを待ち望む。それが楽しみだ。主よ、ためらわないでください。わたしを神の国にふさわしい者にするための最高の、最善の訓練を与えてください。それが痛みを伴うものであったとしても・・・。主よ、あなたに近くあることを求めます。あなたに更に更に近づけられることを求めます。

10月6日(日)
「万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ9:7)
主の熱心。自分がもっと熱心でなければ、もっと熱心でなければ、と焦る気持ちがある。いつの間にか肩に力が入っていた。でも、今日、神さまの方がわたしたちに対して熱心でいてくださっている、ということを教えられた。神さまの方が先ずわたしたちに対して熱い思いを持っていてくださっている。一人子を与えるほどまで熱い思いを持っていてくださる。神さまがわたしの人生に、わたしの生涯に、NJの教会に熱い思いを持っておられる。本当にそのことに感謝して喜びにあふれて歩んでいきたいと思う。

10月5日(土)
「主はみずから強いみ手ををもって、わたしを捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、さとして言われた。」(イザヤ8:11)
人に振り回されやすい自分。周りに影響されやすい者。家族の中で一人信仰を持つ方々も多い中で、わたし自身本当に自分と神さまとの関係がしっかりとしていくことが、牧会者としてどれほど大切なことだろうかと思わされる。人がどうだではなく、自分が神さまからどのように導かれ、どのように教えられ、どのように歩まされているか、そこをしっかり持っていく者でありたい。アメリカの国にいると「クリスチャンであること」が楽であるかもしれない。だから「みんながクリスチャンであることは、みんながクリスチャンでないことだ」と言ったキルケゴールの言葉を思わされる。神さまに頼って神さまから教えられて歩んでいきたい。今日は、土曜日です。わたしの歩みを守り、明日のためにあなたが与えてくださる感動で満たしてください。

「だれも悪をもって悪に報いないようにこころがけ、お互いに、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。」(テサロニケ人への第一の手紙5:15)
悪に対して悪をもって報いるな。でも、自分が悪意をもって接せられたときに、これができるだろうかと思う。悪意のあることをされたときに、いったいできるだろうかと思う。でも、普通はできないことだから聖書に書かれているのだと思う。本当に聖書のことばが意味を持ってくるのは、そのような状況に追い込まれたときだ。いつも善を求めていく者となろう。いつも善を求めて行こう。どんなに悪意を感じたとしても、それに振り回されないようにしよう。主よ、お助けください。いつも善を追い求めていく者としてください。本当にみことばのように生きていける者としてください。

10月4日(金)
「見よ、万軍の主はエルサレムとユダからささえとなり、頼みとなるもの・・・すべてささえとなるパン、すべてささえとなる水・・・を取り去られる。」(イザヤ3:1)
自分はいったい何を支えとして生きているだろうか?日常生活の中で自分の支えは何だろうか?主が本当の意味で支えとなっているだろうか?お金ではなく、定職ではなく、教会の人々ではなく、家族でさえなく(もちろん、これらは神さまからいただいた大切なプレゼントだが・・・)、神さまご自身が支えになっているだろうか?神さま、もし、わたしがあなた以上に大切にしているもの、あてにしているものがあるならば、どうかそれを取り去ってください。そして、あなたを頼りにすることの意味を教えてください。

「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。」(テサロニケ人への第一の手紙4:3)
そうです、主よ、あなたのみこころはわたしたちが「赦された」と喜んでいるだけではなく、「清くなる」ことです。本当にきよさを求めていきます。主よ、清い歩みを与えてください。本当にそれが無理ではなく、本当に喜びに満たされてそのような歩みができるように、わたしの心をいつも守ってください。主よ、いつも満たしてください。心にあふれるばかりの命の泉を与えてください。わき上がらせてください。きよめてください。主よ、わたしをきよめてください。

10月3日(木)
「主は言われる、さあ、われわれは互いに論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」(イザヤ1:18)
主がわたしたちと論じるように、罪の赦しの徹底性を語ってくださる。罪の赦しだけではなく、品性のきよめの徹底性を語ってくださる。今、自分の姿を見るときに落ち込む。自分が以下に弱く、自分勝手な、愛のない者であるかを思い知らされる。でも、それでも、神さまはわたしを白くしてくださる。神さまの愛に満たし、愛のある者としてくださる。そのように約束してくださっているのだ。主よ、どうかわたしの心をきよめ、あなたのきよさとあなたの愛を身につけさせてください。主よ、あなたが「論じよう」とまで言って約束してくださったのですから、そうしてください。

「わたしたちは患難に会うように定められているのである。」(テサロニケ人への第一の手紙3:3)
今わたしたちが平和をいただき、クリスチャンとして、それほど大きな戦いを感じないのはやはり特別なことなのだろう。本当はわたしたちは患難に会うように定められているという。そのように定められているという。だから、今からそのつもりで準備をしていよう。クリスチャンとしてはっきりと証ができるように。そのためには何もない今から、平常の時から証ができていないとダメだ。平和なときに証のできない者が、危機に出会って証ができるだろうか?主よ、助けてください。平和なときに、与えられている「患難のない時」に、あなたのことをお証しすることができますように。

10月2日(水)
「愛のおのずから起こるときまでは、ことさらに呼び起こすことも、さますこともしないように。」(雅歌8:4)
愛は湧いてくるもの。おのずから起こってくるもの。それを呼び起こしたり、さましたりしてはいけない。神さまに対する愛も、「愛しなさい」と言われる一方で、愛が起こってくるまでは本当に愛せない。神さまに対する愛。昨日の、神さまを慕う心。もっともっと持つことができれば・・・と思う。主よ、燃やしてください。主よ、燃やしてください。新しく新しく、燃える思いを与えてください。わたしのうちに・・・。もっともっと近く、もっともっと熱く、もっともっと、主よ、あなたを教えてください。

「この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」(テサロニケ人への第一の手紙2:13)
みことばが信じる者たちのうちに働いている。これは何というすばらしいことだろうか?今も、神の言葉が人々のうちに働いている。自分の言葉ではなく、聖書のことばが働いて、人々を立たせ、戒め、慰め、導いている。本当にそのことのすばらしさを思う。そこに信頼していく者となろう。自分で人を導こうとすると、導かれる方も、人に頼るようになる。でも、神の言葉が人を導いていくんだと信じていくと、人々もみことばによって導かれることを待ち望むようになる。主よ、本当にみことばによって人々が導かれていく、そんな教会としてください。そんなわたしたちとしてください。

10月1日(火)
「わたしの知らないうちに、わたしの思いは、わたしを車の中のわが君のかたわらにおらせた。」(雅歌6:12)
この愛、この慕う心。それを神さまに対して持たせて頂きたい、これがわたしたちと神さまとの関係だと、イエス様との関係だと、そう教会は受け取ってきた。このような思いを神さまに対して、イエス様に対して持っていく。いつのいつの間にか神さまのことで、イエス様のことで心がいっぱい、と言うような・・・。そのようなsweetな関係に招かれているんだ。主よ、どうかあなたとの深い関係にわたしを導いてください。あなたと共に歩む者としてください。あなたを恋いこがれ、あなたのことで心がいっぱいのような・・・。もっともっとあなたの素敵さを教えてください。

「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったのである。」(テサロニケ人への第一の手紙1:5)
言葉だけではない福音。力と聖霊と強い確信を伴った福音。それが今必要だと思う。それが今教会にあふれるようにと祈る。主が本当に働いてくださって、罪の悔い改めと、救いの喜びがあふれるような、そのような教会に導いてください。そのようなわたしとしてください。罪に対する徹底的な悔い改めと、救いのすばらしさを心から喜んで証しする人々が起こされるように、主が大いなる御業を起こしてください。あなたの力を見させてください。