11月30日(土)
「あなたは弱った者を強くせず、病んでいる者を癒さず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者をひき返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。」(エゼキエル34:4)
究極的には牧者はイエスだ。イエス様だ。でも、自分は牧師として、人々にこの牧者に目を留めるように、この牧者に従っていくようにと導いているだろうか?本当に「弱った者」「病んでいる者」「傷ついた者」「迷い出た者」「うせた者」を心にかけ、神さまに目を向けるように、大牧者であるイエスに従うように、大牧者に養って頂くようにと導いているだろうか?主よ、お助け下さい。あなたのしもべとして、使命をいただいて、この教会の牧師をしています。どうか、イエスが私達の大牧者であって下さるのですから、そこに人々を導く働きができますように。主よ、自分を養うのではなく、人々を養う者としてください。

「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(ヨハネ第一の手紙5:5)
世に勝つ者は、イエスを神の子と信じる者。イエスが言われた。「わたしは世に勝っている」と。私達には心配事があり、悩みがあり、戦いがある。でも、イエスは世に勝っている!だから、信じる者も世に勝つのだ。勝つのだ。だから、勇気を出して戦っていこう。勇気を出して語っていこう。イエスにこそ、救いがあるのだと。イエスにこそ勝利があるのだ、と。

11月29日(金)
「見よ、あなたは彼らには、美しい声で愛の歌を歌う者のように、また楽器をよく奏する者のように思われる。彼らはあなたの言葉は聞くが、それを行おうとしない。」(エゼキエル33:32)
神の御言葉は「愛の歌」のように聞かれてはならない。耳に優しい言葉ではない。聞き心地のいい言葉ではない。自分はどうだろうかと思う。説教者として、人の耳に心地よい言葉を語っていないだろうか?本当に主のメッセージを語っているだろうか?「この方による以外に救いはない」ということを本当にはっきりと語ることが大切だと思う。主よ、わたしを預言者としてください。預言者のなんたるかを教えてください。そして、あなたの語れと言われたことを大胆に語ることができますように。そして、人々の魂にそれが深く深く届きますように。チャレンジを与えますように、土台を揺り動かしますように。主よ、心地よい言葉ではなく、あなたのメッセージを語る者としてください。

「現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(ヨハネ第一の手紙4:20)
神を愛している、と言って、人を愛せないのはおかしい、と主は言われる。目に見えるものを愛せなくて、目に見えないものが愛せるだろうか、という。目に見えない神さまを結局の所、自分の理想の姿に形造って、神さまを自分の願いに合わせて造って、そして、それを愛しているだけなのではないだろうか?だから、目に見える者を愛しなさい、と言う。その時に、自分と合う人だけ、ではなく、敵対する人をも愛しなさい、と言う。神さまを愛することは、自分を捨てることなのかもしれない。自分が王様で、自分が主人で、そして、神さまが自分の理想で・・・そんなときには、その「神さま」を愛することができる。でも、本気で神さまを信じていくときに、自分が王様ではいられなくなる。神さまを神さまとして受け入れなければいけない。そのことの一つとして「人を愛する」ということが問われてくるのではないだろうか?主よ、人を愛する者としてください。

11月28日(木)
「あなたは『ナイル川はわたしのもの、わたしがこれを造った』と言っているゆえに・・・」(エゼキエル29:9)
ツロと同じだ。エジプトもナイル川を誇りとし、それを造られ、与えられた神を忘れてしまっていた。でも、ここで国よりも、一人一人の才能のことを今日は思わされた。神さまから与えられている才能。それを自分で造ったかのように思いこみ、そして、それを傲慢に語る。そのような私達に対して、「わたしが神だ。わたしが与える者だ」と言われている。主よ、あなたに感謝します。与えられているすべてについて。才能も、富も、時間も・・・すべてあなたに感謝します。あなたを忘れることがありませんように。そして、もっと与えてください。あなたのために。あなたのご栄光のために。それを自分のために用いるのではなく、あなたのために用いる者としてください。

「彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」(ヨハネ第一の手紙3:3)
1節を最近示されているのだが、今日は、どうしても3節が心に留まった。イエスが再び来られる「再臨」を待ち望んでいる私達は、それに備えて、イエスがきよいおかたであるように、自分自身もきよくされることを切に願う。主よ、きよめてください。心をあなたでいっぱいにしてください。あなたのことをいつもいつも第一にすることができますように。他のものがそれを妨げているならば、それを取り除いてください。主よ、きよくしてください。

11月27日(水)
「ツロよ、あなたは言った、『わたしの美は完全である』」(エゼキエル27:3)
そのころの商業都市、ツロの滅亡についてエゼキエルが預言した聖書の箇所である。このツロについて、ここでは、何も悪徳のようなこと、不道徳なことは言われていない。もちろんそういうこともあったであろう。でも、ここでは触れられていない。その中で、その最初にこのツロの言葉が記されていることが本当に印象的に心に留まった。「わたしの美は完全である」と。この高慢さ、この高ぶりを神は裁かれたのだ。「おごれる者も久しからず」と平家物語にあるように、その美しさもつかのまであった。ニューヨークのことを思わされる。テロで傷ついた町が、更に強く、更に美しくなろうとしている。しかし、それがこのツロのような傲慢さに陥ってしまわないであろうか?手を挙げて祈っていく必要を思わされる。まさに、破れ口に立つ使命が私達には与えられているのではないだろうか?聖書の視点から時代を見ていくときに見えてくるもの、それを大胆に語っていく使命を感じさせられる。主よ、社会を見るときに、あなたの視点を分かち合ってください。そして、そこから私達の使命をしっかりと見させてください。

「これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。」(ヨハネ第一の手紙2:1)
罪を犯さないようになる。自分は罪人だから、、自分の努力でりっぱになって、初めてクリスチャンであると言えるのではない。本当に神の憐れみによって救われて、十字架の一方的な恩寵で救われてたのだ。でも、そこにあぐらをかいて、「何をしてもいいんだ」と「何でも赦されるのだ」とうそぶいているならば、それは違う。罪を犯してしまっても、失敗をしてしまっても、人を憎んだり、恨んだりしても、少しも痛みを感じなくなったら、それはおかしい。私達はクリスチャンとして、愛されているのだから、赦されたのだから、救われたのだから、求めていこう。「罪を犯さないようになる」ということを。罪から解放され、自由になって、歩んでいきたい。主よ、きよめてください。

11月26日(火)
「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」(エゼキエル22:30)
主は、破れ口に立つ者を探しておられる。主よ、わたしがおります。わたしをそこに立たせてください。主よ、わたしを破れ口に立つ者にしてください。そのために愛にあふれた者にしてください。一人一人に対して愛を注ぐ者としてください。愛を満たしてください。一人一人の魂の状態に、霊的な状態に敏感な者としてください。そして、どこが破れ口なのか、それについても本当に敏感な者としてください。熱心に祈る者としてください。そして、祈って言葉と力とを与えられて、恐れないで、語る者としてください。

「わたしたちも光の中を歩くならば・・・」(ヨハネ第一の手紙1:7)
光の中を歩む・・・。これは主の前に隠し事をしないで・・・ということだろうか。続いて「もしも罪が無いというならばそれは自分を欺くこと」とあるように、罪を認めて、罪を隠し立てしないで・・・ということだろう。今、自分は主の前にすべての面で心を開いているだろうか?自分ではその平安の中にあると思う。でも、主よ、もし、自分が気がつかない内に、あなたの前に心を閉ざしている部分があるならば、そのことを教えてください。そして、主よ、その奥の間も開きますから、あなたの前に真実に歩む者としてください。

11月25日(月)
「わたしがあなたがたをもろもろの民の中から導き出し、かつてあなたがたを散らした国々から集める時、こうばしいかおりとして、あなたがたを喜んで受け入れる。そしてわたしは異邦人の前で、あなたがたの中に、わたしの聖なることをあらわす。」(エゼキエル20:41)
神さまのきよさは私達が神さまに受け入れられるときに、私達を、香ばしい香りとして受け入れられるときに、そのことがあらわされるという。私達を裁き、罪に定めるときではなく、私達を赦し、受け入れるときに、神さまの神さまであることがあらわされるという。何という幸い。何という恵み。自分の姿を見ると落ち込むばかりだ。しかし、そんな私達のことを、そんなわたし自身のことを、「こうばしい香り」として受け入れてくださるのだ。感謝。主よ、今日の一日の歩みの中にあなたの恵み深さをあらわしてくださいますように。

「ただ、一人も滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(ペテロ第二の手紙3:9)
すべての者が悔い改めるに至ることを望んでおられる神さま。すべての人が・・・。この事をいつも忘れないでいたい。「この人は導かれる」とか「この人は福音に心を開いている」とか、もちろんそれぞれに、「霊的に開かれる時」というのがあるだろうが、そうやって、自分で、人を分けてしまっていないだろうか?神さまはすべての者が悔い改めに至ることを願っておられて、そして、私達に対して、忍耐しておられるのだ。主よ、どうかあなたの思いをわたしにもお与え下さい。あなたの御思いをわたしにもシェアしてください。わたしも、出会う一人一人、一人残らず、そのイエスによる救いを待ち望んで祈って、語っていく者として下さい。

11月24日(日)
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。」(エゼキエル18:23)
主はすべての人が悔い改めるのを望んでおられる。悔い改めるのを。教会が大きくなるとか、たくさんの人が来るとか、そう言うことではなく、人々が、一人でも多くの人々が悔い改めて神を信じるようになることを望んでおられるのだ。主よ、救いの、赦しの福音を大胆に語る者にしてください。恐れから自由にし、福音を語らないで人が聞くことを求めるのではなく、人がその場ではすぐに聞かなかったとしても、ハッキリと福音を、救いの福音を語る者としてください。

11月23日(土)
「すなわち自分の心のままに預言する人々に向って、預言して言え『あなたがたは主の言葉を聞け』。主なる神はこう言われる、何も見ないで、自分の霊に従う愚かな預言者たちはわざわいだ。」(エゼキエル13:2−3)
主よ、いつもあなたから聞いて、あなたから語りかけをいただいて語る者としてください。主の言葉を聞く者としてください。自分の霊に従うのではなく、あなたの語りかけをいただいて語る者としてください。主よ。神さま、あなたに感謝します。あなたの警告を感謝します。祈らないで、御言葉を聞かないで、語りかけを受け取らないで講壇に立つことがないようにお守りください。主よ、あなたの語りかけを待ち望みます。

「彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。」(ペテロ第二の手紙2:20)
主よ、教会の一人一人をお守りください。主よ、救われた者たちが、救われた喜びにあふれ、神さまの恵みに捕らえられて歩むことができますように。決して「元の状態より悪い」というところに陥ることがありませんように。主よ、おたすけください。主よ、本当に今、一人一人のまわりに垣を作り、悪しき者の試みに会わせないでください。試みに会わせないでください。主よ、祈ります。助けてください、一人一人を守ってください。

11月22日(金)
「主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのための聖所となる。」(エゼキエル11:16)
神さまご自身がどこに私達が行こうとも共にいてくださる。そこで神さまご自身が共に歩んでくださり、神さまご自身が共に歩んでくださっていることを明らかにしてくださる。主が私達の聖所となってくださる。見捨てられることはない。忘れられることはない。私達が主を敬い、主を愛し、主に従うもっと前から、主は私達と共に歩んでくださっているのだ。そこに信頼して歩んでいこうと思う。そこに目を向けて、そこをしっかりと見つめながら歩んでいこうと思う。主よ、あなたの臨在を片時も忘れることがありませんように。

「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」(ペテロ第二の手紙1:5−6)
力の限りを尽くして・・・この事に私達は本気で取り組んでいるだろうか?「赦された」ということに安住して、赦されたことの喜びにあふれて力をつくしているだろうか?徳と、知識と、節制と、忍耐と、信心と、兄弟愛と、愛を求めているだろうか?生ぬるいところに浸っていないだろうか?熱心になって、神さまを求め、熱心になって成長を求め、熱心になって愛することを学んでいきたいと思う。主よ、今日も、そのような経験をさせてください。愛を、忍耐を、節制を学べるような「学校」に導いてください。そのような一日としてください。

11月21日(木)
「主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた」(エゼキエル8:12)
エルサレムの宗教的指導者たちのこの言葉。だから、他の神々に祈る、という姿。本当に心が痛む。今、そのような声を聞くことがある。こんなつらいことがあるから、こんないやなことが自分に起こったから、自分にこんな災難が降りかかってきたから、神を信じない、信じられない、という声を。でも、それは神さまが私達を悔い改めに導こうとして、語ってくださっていること。本当に神さまが私達に対して招いてくださっていること。悔い改めを迫っておられること。本当に畏れを感じる。今、私達がこのような不安の時代の中にあって、本当に神さまに目を向けて、悔い改めて従っていくことが大切だと思う。主よ、あなたはこの地を捨ててはおられません。そのことに感謝します。どうか、この主のメッセージを語っていく者としてください。

「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。」(ペテロ第一の手紙5:2)
主よ、これをあなたからわたしへの語りかけとして聞きました。主よ、あなたがゆだねてくださった羊の群れを卜することができますように。主よ、これがあなたからの使命としてお受け致します。そのことに心を配ることができますように。そのことに集中させてくださいますように。そのことにもっと力を入れさせてくださいますように。主よ、あなたの羊の牧者として歩ませてください。あなたがその使命を与えてくださったのですから、あなたご自身がその力を与えてください。あなたの御業を見させてください。

11月20日(水)
「主なる神はこう言われる、わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。エルサレムは他の国々よりも悪しく、わたしのおきてにそむき、そのまわりの国々よりもわたしの定めにそむいた。すなわち彼らはわたしのおきてを捨て、わたしの定めに歩まなかった。」(エゼキエル4:6)
私達も、この地域の中に置かれ、神さまのことを証すべき存在としておかれている。神さまがどんなに憐れみ深く、イエスの十字架がどれほどに大きなものであるかを証すべき存在として・・・。でも、私達はそれを十分に証しているだろうか?本当にそのことを大胆に、そのことをハッキリと証しているだろうか?イスラエルの人々がまわりの国々の文化に影響されて、そして、彼らよりももっと悪くなってしまったその姿が、私達に対する警告であると思う。本当にイエスによって救われたのだから、イエスを大胆に証していこう。主よ、あなたを証させてください。あなたの証人として、預言者として生かしてください。

「愛は多くの罪をおおうものである。」(ペテロ第一の手紙4:8)
ここの「愛」は神さまの愛ではなくて、私達お互いの愛をさしている。互いの愛が罪をおおう。私達互いの愛が罪をおおう。これは、決して罪をいい加減にして、罪を覆い隠す、と言うことではないだろう。罪を犯している者たちが悔い改めに導かれて、罪から離れて、神さまによって赦されて、生かされていく、そして、罪を犯していたことがもはや取り上げられたり、いつまでも攻められ続けられるのではない、ということだろう。愛を与えてください、本当に人が造りかえられるような愛を与えてください。人が悔い改めに導かれるような愛を与えてください。人の罪を心に思い続けなくてもいいような愛を与えてください。

11月19日(火)
「しかし、わたしがあなたと語るときは、あなたの口を開く。あなたが彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。聞く者は聞くがよい、拒む者は拒むがよい。」(エゼキエル3:27)
私達が語ることは、神さまが語れることを語らなければならない。それが自分にとって語りやすいことではなかったとしても語らなければならない。乱暴なようだが、そこで聞くか聞かないかはその人の責任なのである。そこに立って語らなければならないのだ。人の顔色を見て、人の反応に左右されて、「まあ、そんなに気にしないでください」なんてごまかしてはいけないのだ。神さまはその血の責任を私達に要求される、という。神さまの語りかけに敏感に、神さまの命令に敏感に応える者となりたい。主よ、あなたがわたしの口を開くときに、そこに従う者としてください。

「かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえにきわめて尊いものである。」(ペテロ第一の手紙3:4)
これは主に女性に向って言われたことだが、自分自身のこととして示された。外側ではなく、内側に飾りを身につけること。それが大切だと思う。男性だとこれは何だろうか?女性の飾りに相当するもの、それは名誉とか、地位とかそういうものだろう。そういうものを求めるのではなく、内側に形作られる、神さまの品性を求めていこう。主が更にわたしの品性を磨いてくださいますように。

11月18日(月)
「われわれは天にいます神にむかって、手と共に心もあげよう。」(哀歌3:41)
手を挙げるのには勇気がいる。自分一人で手を挙げて祈るのはできる。でも、人々の中で手を挙げて祈るのは祝祷でもない限り、むずかしい。何だろうなあ、と思う。やっぱり神さまよりも人目を気にしているのだろうか?それは心を神さまに向ってあげているかどうかも問われてくることだろうと思った。手を挙げるかどうかより、心を神さまに向けているかどうか?本当に問われている。その結果として、手が上がることもあるだろうし、こうべをたれることもあるだろう。いずれにせよ、本当に昨日の所のように神さまに向って真剣に両手を挙げて祈るものとなりたい。心を神さまに向けて、神さまだけを見て、祈る者となりたい。主よ、わたしを祈りの学校に導いてください。

「しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。」(ペテロ第一の手紙2:20−21)
そうかあ、そのために召されたのか。何か、最近、キリストにある自由がはき違えられているように、いや、自分自身がはき違えてきたのではないだろうか、と感じさせられる。善を行っても、苦しむことがある。実は私達はそのためにキリストを信じる者とされ、キリストによって生きる者とされているのだ。この事を忘れてはならないし、この事を語らなくてはならない。私達の信仰は、決して安住の道ではない。自己実現の道ではない。苦しむことをも使命として与えられているのだ。大胆に、思い切って、この道のすばらしさを語っていこう。恐れることはない。これがあるからと、たじろぐ者は神の国にふさわしくない。教会の敷居は低くなければならないが、キリストに従う者の標準が引き下げられてはならない。胸を張って、苦しみをも負っていく者とされたい。

11月17日(日)
「夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼子の命のために、主にむかって両手をあげよ。」(哀歌2:19)
今まさに滅びようとしている者たちのために祈れ!自分はどうだろうか?痛みを覚えるよりも自分がその問題から逃げたり、忘れようとする力が働いていることを感じる。自分は本当に神さまに預けられた方々一人一人のために、その方々が神に背を向けようとする時に痛みを感じ、神さまに向って両手を挙げているだろうか?そう言う問題に真っ正面に取り組んでいないように、ずるく逃げているように感じた。主よ、お赦しください。あなたに任され、出会った一人一人のために、その救いを祈り続ける者としてください。主よ、愛を増してください。自分だけを愛するのではなく、自分に良くしてくれる人だけを愛するのではなく、あなたがわたしに託してくださった、出会わせてくださった、一人一人を愛する者としてください。

11月16日(土)
「おまえはわたしの鎚であり、戦いの武器である。」(エレミヤ書51:20)
神に背を向けたユダを裁くために道具として用いられたバビロンが、自分の強さに誇り、高ぶった時に、神に裁かれる者となった。神さまの道具なのに、神さまの道具として用いられる存在なのに、いつの間にかそれが自分のものであるかのように、高ぶり、自分の栄光を求めるわたしたち。ただただ、神さまのご目的のために用いられているのに・・・。徹底的に神さまの道具になりたい。神さまの御目的のために存在することを喜びとして、主に用いられることを喜びとして、歩んでいきたいと思う。主よ、今日も明日のためにあなたの御手の中に陥らせてください。

「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召してくださった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。」(ペテロ第一の手紙1:14−15)
救われたから何をしてもいい、聖書はそんなことは全然言っていない。救われたのだから、聖なる者となりなさい、と言っている。神さまの御前にある恐れの心を持って、イエス様の後を歩んでいくのがわたしたちの使命だ。そう、イエス様の生き方はわたしたちの模範だ。WWJD(What would Jesus Do?)は日本の若者たちの間ではやっているらしいが、本当に私達が心に留めて、歩んでいくべきことなんだと思う。今日も、イエス様の歩まれた足跡を歩んでいく者となりたい。イエス様だったらどうなさるか、そのことを思って歩んでいこう。

11月15日(金)
「彼らをあがなう者は強く、その名は万軍の主といわれる。」(エレミヤ書50:34)
どんなにバビロンが強くても、どんなに強硬姿勢を貫いても、神さまがあがなってくださる、神さまが救ってくださるならば、道は開かれる。道は開かれる。世界の歴史は神さまの力を視野に入れないと、単なる軍事力のバランス、経済力のバランスで成り立っていると感じるかもしれないが、このような預言者の言葉を読むと、そうではない、神さまの御手の中にあるのだ、と思わされる。そう思うと世界観が全く変わってしまう。主よ、あなたの御手の中に入れられていることを感謝します。

「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。」(ヤコブの手紙5:16)
義人となりたいと思う。祈りを聞いて頂ける義人となりたいと思う。エリヤの例がここに挙げられているが、そのように神さまの御手を動かす祈りをささげるものとなりたいと思う。でも、昨日の所にあったように、その動機が問題だと思う。成功したいから、注目されたいから・・・ではなく、神さまの導きに従っていく者として、祈りの力を経験したいと思う。主よ、お助けください。わたしを祈りの勇者にしてください。今日も祈ることを教えてください。そのためにわたしの内にあるあなたに喜ばれないものを全く焼き尽くし、きよめてください。

11月14日(木)
「万軍の主という名の王は言われる。」(エレミヤ書46:18)
日本語の語感なのだろうか、「神」よりも「王」の方が力があり、従わなければいけないような感じがする。神はお願いをして聞いてもらうもの、王はそこに従う者、という感じがある。だから、「主こそ王である」という言葉には本当にそうだ!と襟を正される思いがする。主が王である。主に従う者としてわたしたちはここに生かされている。主よ、今日も、あなたに従わせてください。あなたを本当の意味で王とすることができますように。あなたを召使いやアクセサリーにしてしまうことがありませんように。

「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブの手紙4:3)
祈り求める時に、いつも自分のためではなく、神の栄光のために求めること、そのことの大切さを思わされる。自分の欲求のために求めるのではなく、神さまがわたしに必要であると思っておられるか、それを求めながら祈ることだ。今、ほしいものも、本当に神さまが必要だったら与えてくださる。そう信じる。だから焦らなくてもいい。主が必要な時に与えてくださるから・・・。

11月13日(水)
「見よ、わたしは使者をつかわして、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを招く。・・・彼は来てエジプトの地を撃ち・・・」(エレミヤ書43:10−11)
結局の所、神を頼るのか、エジプトを頼るのか、という問いになるのだ。彼らが安穏な生活を求めてエジプトに逃れたけれども、神はエジプトをもバビロンによって裁かれた。結局、エジプトという大きな安泰の国を頼って、そこに平和があると信じて出ていった人々はそこで滅ぼされてしまう。わたしは結局の所、何を信じて、何を信頼しているのだろうか、と問われていると思う。アメリカの軍事力や、イラクや北朝鮮の良心や、世界の軍事的バランスやそんなものを信頼しているのではないか?本気で神さまを信頼しよう。神さまが本当に守ってくださる、支えてくださる、わたしが一番ふさわしい所に生きるように導いてくださる、それを本気で信じていこう。

「そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。」(ヤコブの手紙3:15)
党派心やねたみのある知恵は悪魔的なものである、という。本当に注意しなければならないと思う。自分自身の心にそのようなものが忍び込んでくることがないようにと気をつけなければいけないと思うし、また教会の中にそのようなものが忍び込み、大手を振って歩いてはならないということだ。主よ、お助けください。党派心やねたみが忍び込んでこないようにお守りください。それが忍び込んできた時に、あなたがそれを示してくださり、ハッキリと見きわめ、そして正しい態度をとることができるますように。

11月12日(火)
「いいえ、われわれはあの戦争を見ず、ラッパの声を聞かず、食物も乏しくないエジプトの地に行って、あそこに住まおう」(エレミヤ書42:14)
神さまが「ここにいなさい」と言うところよりも、戦争のない、飢饉のない所に住みたい、そう言う気持ちはよくわかる。戦争に巻き込まれるかもしれないこの時代の中で、どこか戦争のない平和な所に行きたい、とふと思うことがある。子供の時から戦争の恐ろしさを親やテレビから、そして空襲や原爆の話から聞いてきたので、アメリカの若者たちが考えるようなのとは全然違うイメージを戦争に対して持っている。そして、そのような所に巻き込まれたくない、という思いが強い。だから、この聖書の言葉はとてもよくわかる。でも、ここでは、それは神様の御心の道ではなかった。神さまの願われている道ではなかった。どのような状況に置かれても、自分で平和とか、安穏とした生活とか、それを求めて動き回るのではなく、どこまでも神さまの願われる、示される道を歩んでいきたい。

「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。」(ヤコブの手紙2:5)
貧しさ。この世においての貧しさ。そこにも神は働いて信仰に富ませてくださるという。貧しい時には逆にお金のことばかり考えて、まさに「何を食べようか、何を着ようか」とか、どうしたらこの先生活できるだろうか、と考えて、神さまのことさえも考えることができなくなることもあるのではないかと思う。だから、何事にも少しゆとりが出て、お金のことなんか何も心配しなくて良い方が神さまのことを考えるようになるのではないか、と感じる時もある。でも、その貧しさの中にも働いて、信仰に富むものにしてくださる、という。お金があるからお金の心配をしなくてよくて、神さまのことを考える余裕がある、というのなら、やはり神さまはアクセサリーで、お金を頼りにしている、ということなんだろう。富んでいる時にも貧しい時にも与えてくださるのは神さまなんだという平安に満たされて、「信仰に富む者」になりたいと思う。

11月11日(月)
「もしあなたがバビロンの王のつかさたちに降伏するならば、あなたの命は助かり、またこの町は火で焼かれることなく、あなたも、あなたの家の者も生きながらえることができる。」(エレミヤ書38:17)
これは神さまからの裁きだから・・・と降伏を勧めるエレミヤの言葉、しかし、ゼデキヤ王はそれに従おうとはしなかった。どうしてだろうか?やはり「徹底抗戦」の声が強かったのだろうか?「神さまは必ず勝利を与えられる」という偽預言者たちの声の方が「信仰的」に聞こえたのだろうか?わたしたちはどうだろうかと思う。神さまの裁きを裁きとして受け止め、悔い改めて神さまの御心を求めていく姿勢が大切なのではないだろうか?「勝利」「平安」と本当はそうではないのに、そんなふりをする者たちの声に惑わされてはならないと思う。神さまの前にへりくだって歩みたい。

「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。」(ヤコブの手紙1:21)
人を救うのは神さまの御言葉だ。わたしたちの迫り方や、語り方や、そう言うものではなく、神さまの御言葉だ。だから、恐れずに聖霊様の働きを信じて、神さまの言葉を語ろう。テクニックを考えるのではなく、上手な言葉を考えるのではなく、神さまの言葉、聖書の言葉が一人一人に働くことを期待して、待ち望んで、信じて、語っていこう。御言葉には力があるから。御言葉自体が力だから。

11月10日(日)
「主は彼らを隠された。」(エレミヤ書36:26)
世界は戦争に巻き込まれていくのだろうか?いや、もうすでに巻き込まれているのかもしれない。それに気がついていなかっただけで、1年前にそれに気づかされただけなのかもしれない。でも、あれ以来、戦争が身近に感じるようになった。もちろん、こんなものではないのだろうけれども・・・。その中で時々、ふと、恐れが湧いてくることがある。自分や家族が巻き込まれるのではないだろうか・・・と。でも、このエレミヤの危難の中で、戦争と迫害とがいっぺんに起こってくるような中で、エレミヤはハッキリと神の言葉を語った。そして、それで身に危険が起こったが、「主は彼らを隠された」という。主の許しなくしては何者もわたしたちに危害を与えることはできない。反対を言えば、わたしたちに危害が及ぶ時は、主がそれを許された、ということ。主の御手の中に許されたことなんだ、ということを思わされ、平安をいただいた。感謝します。あなたの御手の中にあることを感謝します。

11月9日(土)
「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える。」(エレミヤ書32:41)
この言葉はすごい。聖書に「心をつくし、思いをつくし、精神をつくし、力をつくして主なるあなたの神を愛せよ」という言葉があるが、その前に神さまの方がわたしたちのために心をつくし、精神をつくして愛を示してくださっていた。そして、神さまにとってはわたしたちに恵みを施すことが喜びなんだ、神さまはそれを喜びとしてくださっているんだ、ということを本当に恵みとして感じさせられた。神さまにはそれは無理なことでも、嫌々のことでもなく、喜びなんだ。感謝。主が喜んでくださっていることに感謝。

「わたしたちには一つの祭壇がある。」(ヘブル人への手紙13:10)
わたしたちの祭壇、それはイエス・キリストだ。イエス・キリストの十字架だ。ここにしっかりと立っていこう。愚かだと言われようとも、ワンパターンだと言われようとも、イエス・キリストの十字架こそが「わたしたちの祭壇」だ。この十字架の恵みを、十字架の救いを明日も、大胆に語っていきたい。今日の教師研修会の中でも、そのことに注目していきたい。わたしたちの寄って立つところの祭壇は十字架なんだ。

11月8日(金)
「その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈りを聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」(エレミヤ書29:12−14)
主は今わたしを祈りに招いていてくださる。祈ることに招いていてくださる。主よ、祈ります。祈ることを教えてください。祈らせてください。祈りのうちを歩ませてください。一心に求め、一心に神を尋ね求める時に、主はわたしに出会ってくださるという。主よ、もっともっと祈ることを教えてください。そして、あなたにお会いした喜びに生かしてくださいますように。そのような喜びに生きた日を送ることができますように。

「また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」(ヘブル人への手紙12:15)
この「苦い根」は、よく「人に対する苦々しい思い」と理解される。今日も、そのようなことを思わされた。それが自分を苦しめ、人を悩ませてしまう。主よ、わたしの心を探ってください。主よ、あなたがわたしの心を守り、支え、平和で、平安で満たしてください。主よ、恐れから解放し、愛で満たしてください。人々に対する愛で満たしてください。「完全な愛は恐れを取り除く」。主よ、あなたの愛で満たしてください。

11月7日(木)
「あなたは木のくびきを砕いたが、わたしはそれに替えて鉄のくびきを作ろう。」(エレミヤ書28:13)
神さまが与えるくびきを人は自分の力で砕こうとする。でも、それは更に厳しいくびきになっていくのだ。神さまに反抗することは更に大きな痛みを負うことなのだ。神の支配の大きさを思う。それに対しての自分の反抗の愚かさ、小ささを思わされる。主よ、あなたの御心を求めていく者、みこころに従っていく者としてください。それが人に不人気なことであっても、人々の反対があったとしても・・・。預言者にしてください。

「地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(ヘブル人への手紙11:13)
わたしもこの地上では旅人だ。寄留者だ。いつの間にか荷物が増えてしまっていないだろうか?旅人は荷物が少ない方がいい。旅をしているところにいつまでもいるつもりはない。そして天のふるさとを目指している。でも、旅の最中はその旅自体を楽しむ。でも、そこに縛られてはいない。旅人だ。主よ、きよめてください。地上のものに目を奪われて大切なものが見えなくなってしまうことがないように。大切なものをしっかり見据えて歩むことができるように。荷物を増やしすぎることがないようにしてください。

11月6日(水)
「しかし、わたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない。」(エレミヤ書23:28)
誠実に神の言葉を語る・・・。何度も思わされることだが、エレミヤの状況、エレミヤが語っても人々は聞かない、ということがわかっている中で、誠実に御言葉を語ることはどんなにむずかしかっただろうかと思う。「自分が語っていることにどんな意味があるだろうか?」とむなしくなることもあったかもしれない。でも、その中でも、エレミヤは語った。エレミヤは誠実に神の言葉を語った。主よ、わたしもいつもいつもそのように語る者としてください。そのためにいつもいつも御言葉による確信を与えてください。神さまはこの事を語るように導かれている、という確信をいつもいつも与えてください。あなたの言葉を与えてください。

「さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」(ヘブル人への手紙10:22−23)
イエスによってきよめられた者は、「良心のとがめを去る」という。クリスチャンの成長は「自分の罪深さを更に深く知っていく」ということだと思っている。でも、ここでは、もう一つ違うレベルの恵みがある、ことを思わされる。もう、良心のとがめを後にして進むことができるということだ。主よ、きよめてください。わたしの心を、すべて、魂の奥底まできよめ、あなたのみこころに反することを思うことから解放してください。誘惑がおそってきても勝利に継ぐ勝利を与えてください。自己中心的な考え方から解放してください。主よ。赦され、愛されている喜びにあふれて歩む者としてください。キリスト気違いににしてください。

11月5日(火)
「主はこう仰せられる、見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く。」(エレミヤ書21:8)
主が置かれる道は、命の道と死の道・・・中間はない。そして、エレミヤのこの預言の時は命の道=降伏で、死の道=徹底抗戦だった。今の世界情勢を見ると、「厳しい、ハッキリとした態度をとろう」という論調が一般的で、おそらく、この時のユダの国もそうで、人々は「徹底抗戦」を叫んでいたであろう。そして、「神さまがこっちに味方だから、奇跡が起こるはずだ」という声が強かった。そんな中で、「降伏こそが命への道」というエレミヤの言葉は決して人気はなかったと思う。でも、それが神さまの道だった。世の中の風潮に支配されない神の言葉を持つ者の強さを見る。きっと、もう一度、御言葉に従う者たちが人々から批判される日が来ると思う。だから、平和な時代から御言葉を正しく聞き、御言葉にハッキリと従っていく、そのような歩みをしよう。

「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」(ヘブル人への手紙9:14)
「奥義」「堅い食物」「幕の内」「更にまさった契約」とは、この事だった!動物の血は、「赦し」までだった。また「儀式的なきよめ」までだった。「洗いごとと悔い改め」はそこまでだ。「初歩の教え」はそこまでだ。でも、イエスの十字架の血潮はそこで終わらないで、良心をきよめて死んだわざを取り除く、という。でも、ここを見るならば、イエスの十字架の血潮はわたしたちの心をきよめるところまでしてくださるという。これを本気で求めて歩んでいきたいと思う。昨日の、「心の中に律法が書き記される」と言うこともそうではないか。今まで、ずっとヘブル人への手紙を読んでいてすっきりしないことが、今日、ハッキリした。神さま、あなたに感謝します。あなたがわたしを単に「罪のゆるし」というところで満足するのではなく、「良心をきよめて死んだわざを取り除く」イエス様の血潮に目を向ける者としてくださったことに、感謝します。

11月4日(月)
「もしわたしが、『主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない』と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。」(エレミヤ書20:9)
御言葉が燃える。御言葉が燃えて押えることができない。このエレミヤの思い、わかる。御言葉が燃えて、語らないではいられない。日々、そのような思いに満たして頂きたいと思う。特別な時だけではなく、特別な日だけではなく、日々の歩みの中で、そのような思いの中で証をする者でありたいと思う。エレミヤのように、たとい人はその言葉を喜ばないとしても・・・。たとい人が聞いてくれないとしても・・・ただ、忠実に主のみ言葉を語ることができるように、日々、御言葉によって燃やされていきたいと思う。

「ところがキリストははるかにすぐれた務めを得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。」(ヘブル人への手紙8:6)
さらにまさった約束、さらにまさった契約、それは何だろうか?それは単に罪がゆるされる、ということだけではないようだ。ここに引用されたエレミヤの言葉によると、それは、「魂に律法が書き記される」という恵みだ。「魂に律法が書き記される」人に教えられて、神さまに従うのではなく、心の内側から神さまに従うことができるようになる、と言うことだろうか?すべてが義務ではなく、喜びになる、と言うことだろうか?主よ、どうかその恵みをください。主よ、心から喜んであなたに従っていける者としてください。

11月3日(日)
「それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ書17:13)
主が私達の、わたし自身の、そして、教会に連なる一人一人の生ける水の源です。そこから離れる事がありませんように。主よ、お助けください。今日の日曜日もすべての方々が御言葉によって養われ、御言葉によって力を与えられて、進んでいける者としてください。あなたがわたしの生ける水の源です。一人として、この生ける水の源であるあなたを捨てる者が起こりませんように。その時にその魂に起こる悲惨な事を見たくないのです。主よ、お助けください。

11月2日(土)
「われわれは平安を望んだが、良い事はこなかった。いやされる時を望んだが、かえって恐怖が来た。」(エレミヤ書14:19)
私達は平和を望む、平安を望む。国単位であろうと、周囲の人間関係であろうと、また家庭の中であろうと・・・。でも、それを望んでも、違うものが与えられる事がある。エレミヤの時代のユダの国もそうだった。平和が来るように、平安が来るように、敵が攻めてきても、神さまが守ってくださるように・・・そのように人々は求め、期待していた。しかし、与えられたものはそうではなかった。私達も、与えられたものが望んでいたようなものではないときに、神からのメッセージをしっかりと聞くものとなりたい。ただ「平和を望む」というレベルではなく、悔い改めるべき所は悔い改め、神に従っていく、神の御心を求めていく、そのような者でありたいと思う。主よ、平和を求めます。けれども、あなたが違うものを与えられる時に、そこに込められたあなたのメッセージをしっかりと聞き取る事のできる者としてください。

「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」(ヘブル人への手紙7:25)
イエスは今も私達のためにとりなしをしてくださっている。イエスは私達のために今も父なる神の右でとりなしておられる。だから、いつでも、人を救うことができる。いつでも、私達は人の救いを特別な機会に限定しがちだ。特別なゲストが来て話をしてくださる時とか、伝道集会とか・・・。でも、イエスはいつでも救うことができる。いつでも・・・。いつでも、人を救いに導くことができるように、そのような者となりたい。そのような霊的な鋭さ、霊的な感性を持たせて頂きたいと思う。主よ、あなたがわたしを用いてください。あなたのことをハッキリと伝えていく者としてください。いつでもイエスの十字架をさししめして、救いに導くことのできる者としてください。

11月1日(金)
「主よ、わたしは知っています、人の道は自分自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。」(エレミヤ書10:23)
自分の進んでいく道、どのように導かれていくのだろうか?人々の思惑ではなく、また自分の願いでもなく、あなたの御心を求めていくことができますように。自己実現ではなく、人々の期待に応えるのでもなく、神よ、あなたの栄光を喜びとしていくことができますように。あなたの願い、あなたの喜びを求めていくことができますように。主よ、お助けください。主よ、わたしをきよめ、あなたの喜ばれること、あなたの願われること、あなたが用いようとされているところに導いてください。主よ、あなただけを見つめていくことができますように。

「わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目指して進もうではないか。」(ヘブル人への手紙6:1)
完成を目指して進む、ということはどういうことだろうか?もっと自分の罪深さを知らされて、もう一度十字架の恵みの深さを知らされるということ以上に「完成を目指して進む」ということがあるのだろうか?悔い改めと信仰、洗礼と按手、世の終わりの復活と裁き、ということを後にして進んでいくべき、「奥義」というものは何だろうか?もう一度、そのことを求めながら、このヘブル人への手紙を読み進んでいきたい。主よ、教えてください。「堅い食物」「奥義」「幕の内」の世界を経験させてください。これから一週間読み進むうちに、主よ、そのことのなんたるかをはっきりと示してください。