5月31日(金)
「主は約束されたようにソロモンに知恵を賜わった」(列王紀上5:12)
神様の与えてくださった知恵は、人々を正しく治めるものだけではなく、周囲の国々との平和をもたらすものでもあった。ソロモンは自分の国が強くなっても無理矢理周りの国からぶんどりものをとろうとはしないで、身を低くして、周りの国々の協力を得ようとした。この「身を低くする」ということが大切な神様の知恵ではないだろうか?考えてみるならば、箴言にも「主を恐れることは知恵のはじめである」と書かれている。ソロモンが神に知恵を求めたのは、「自分には知恵がない。この人々を治めていく力がない」と認めたからだった。「身を低くするから神の知恵が与えられる」のか「神の知恵によって身を低くすることができる」のか、鶏と卵のような関係だが、身を低くする者、自分の弱さを認める者に神様は知恵と力を与えてくださる。そして、神の知恵は私達をますます謙遜な者に造りかえていく。主よ、今日も、傲慢にならないように僕を守ってください。僕をいさめてください。

「わたしはよい羊飼いであり、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」(ヨハネによる福音書10:14−15)
父なる神が子なる神を知っておられるのと同じような意味で、イエス様は私達を知っておられる。でも、本当に私達は、そのような深さでイエスを知っているだろうか?わたしはどうだろうか?いつもいつも「もっと祈りたい」「もっとイエス様のそばにいたい」という不全感のようなものがある。もっともっと、イエス様のことを知りたいし、イエス様と共にいたいし、イエス様の「そうだ、それでいいんだ」という肯定の言葉を聞きたいと思う。主よ、あなたと共に過ごす時間を与えてください。もっともっとそういう時間を持っていくことができますように。主よ、今助けてください。

5月30日(木)
「聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。」(列王紀上3:9)
知恵も神様が与えてくださるものか。今まで神様に求めたことがあっただろうか?この事に関しては自分の力を信じ、「神様に求めるべきものではない」と勝手に思いこんでいたのではなかっただろうか?知恵を求めよう。家庭を治めるための知恵、夫婦の幸せのための知恵、子供に対する愛を表すための知恵、教会の牧師として歩んでいくための知恵。神様が与えてくださる知恵を求めていこう。人間の小賢しい知恵ではなく、天地を造られ、わたし自身をも造られ、そして、歴史を見通しておられる方の知恵を求めていこう。主よ、あなたがわたしに知恵を与えてください。大体、自分の知恵くらいで満足しているから、神様がもっと用いようとされているのを、妨げているのかもしれない。貪欲に神様に求めていく者となろう。

「ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。」(ヨハネによる福音書9:25)
この人は難しいことはわからなかった。でも、わかることがあった。それは自分は見えなかったけれども、今は見えるようになった、ということだった。自分もそうだ、難しいことはわからないこともたくさんある。でも、わかることがある。イエスに出会うまでは自分は不自由だった。でも、イエスに出会って自由になった。解放された。イエスに出会うまでは、クリスチャンであることは「規制」であり、「堅苦しい」ことだった。でも、イエスに出会ったときに、クリスチャンであることが自由であり、喜びとなった。そのことだけ。そのことだけを大胆に語っていきたいと思う。主よ、この一点の故に感謝します。

5月29日(水)
「こうして国はソロモンの手に堅く立った。」(列王紀上2:46)
今日のところは、ダビデ王の跡継ぎの権力争いだ。神様はこれをどのようにごらんになったのだろうか?どのような思いで見ておられるのだろうか?神様はソロモンの味方なのだろうか?それともそれを超越して、超然としておられるのだろうか?今神様は、どのような目でこの時代の国際政治や、権力闘争を見ておられるのだろうか?誰かの味方をしておられるのだろうか?みんな、神様を自分の味方に取り入れようとする。でも、反対なのだと思う。神様が私達の味方をするかどうかではなく、私達が神様の導きに参加していくことが大切なのだと思う。ヨシュア記のエリコ攻撃を前に、天使が遣わされたとき、「私達の味方ですか?敵の味方ですか?」と聞いたヨシュアに対して、天使の答えが、「いや、わたしは神の軍勢の将として来たのだ」だったことを思い出す。主よ、いつもあなたのご計画、あなたの御心を求めていけますように。

「そして真理はあなた方に自由を得させるであろう。」(ヨハネによる福音書8:32)
自由。なんて魅力的な言葉なのだろうかと思う。信仰を持つことは不自由なのではないだろうか、と感じられることがあるかもしれない。ほかの人々がそう勘違いするだけではなく、クリスチャン自身、そうやって自分を追いつめているところがあるかもしれない。でも、イエスは言われる、「真理はあなたがたを自由にする!」私達が自由になるためにイエスは十字架につけられたのだ。だから、自由を得たいと思う。「こうあるべき」という制約や、「したいと思う善はしないで、したくないと思う悪はしている」というところから解放されて、神様に喜んで従っていけるような、御心を行っていけるような者となりたい。主よ、あなたのそばに、もっとそばにおらせてください。

5月28日(火)
「彼らはわたしにとって、あまりにも強かったからだ。」(サムエル記下22:18)
強い相手に対して、「無理だ」とあきらめるのではなくて、強いからこそ、神様が働いてくださる、神様が勝利を与えてくださることを信じて歩んでいくことの大切さを思わされた。伝道のこと、経済的なこと、教会堂のこと、問題が大きければ大きいほど、障害が大きければ大きいほど神様の働きを期待して、神様に求めて、祈って、勝利を得ることを楽しみにしていこう。最大の問題はやはり伝道のことだ。本当に人が救われることは「人にはできないが神にはできる」ということだと思う。救われる方々がどんどん起こされていきますように。

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」(ヨハネによる福音書7:38)
自分を省みるときに、自分から命の水が流れ出ていると言うよりは、みんなに支えられ、励まされて何とかやっているような感じがする。神様からの命にあふれて、それが周りの人々に流れ出るようなそんな者としてクリスチャンは招かれている。そういう者であるはずだ。命が枯れているとしたら、命の水がかれているとするならば、イエス様との関係がどこかおかしくなっているためだ。主よ、今日も命の水をください。命にあふれさせてください。体や心が弱さを感じるときも、主が支え、主からの命が力を与えてくださいますように。

5月27日(月)
「サウルとその家とに、血を流した罪がある。」(サムエル記下21:1)
結構理解に苦しむところだ。何か「呪われている」みたいな感じで・・・。でも、霊の世界ではこういうことが起こっているのだろう。恨みの力、憎しみの力の恐ろしさを感じる。今日の朝のニュースで少年犯罪によって殺された子供の親の姿を追った特集をやっていた。子供を殺された親の痛み、そして、痛みを越えた、「赦せない」「復讐したい」「同じような目にあってのたれ死んでもらいたい」という叫び。心が痛かった。そして、自分も、自分の子供たちも、ちょっとしたきっかけで、そのような事件に関わって、被害者か加害者になるかもしれない、という恐れも感じた。小さな出来事一つで、人は被害者にも加害者にもなる、ということを忘れないでいたい。そして、イエス様の十字架の力をもう一度覚えた。罪の呪いをも処分してくださったイエスの十字架の力を覚えた。主よ、私達を恨みや憎しみの力から解放して下さい。

「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである。」(ヨハネによる福音書6:29)
何をしたらいいんですか?と聞いた人々に対して、イエスは「信じることだ」と言われた。そんなかんたんなことでいいんか?と思うのだが、しかし、それはまた大変に難しいことでもある。信じること。やっぱり自分を信じるのが一番簡単だ。自分のやっていること、自分の力を信じることの方が、イエスを信じるよりずっと簡単だ。自分で走り回って、自分でいろいろ考えて、対策を練って、「ああ、うまくいった」という方が、神様を信頼して、本気で信頼して歩んでいくことよりもずっと簡単だ。だから、神様を信じる勇気、イエス様を信じる勇気がほしい。自然に・・・なんて言っていると、やっぱり人間は堕落する方に流れていくんだろうと思う。勇気を持って信じていく者となりたい。

5月26日(日)
「わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。」(サムエル記下18:33)
自分に敵して立ち上がったアブサロムの死を悼むダビデ王。今までこのダビデの気持ちがわからなかった。どうして、こんなにも嘆くのだろうか、と。自分に反逆した息子ではないか・・・と。でも、自分の息子が一人前に反抗をするようになってきて、このダビデ王の嘆きが少しわかってきたように思う。自分を責め、自分がもっとこういう親だったら、こんなことにはならなかったのに、とか、これからまた和解ができると思っていたのに・・・という思いが彼のうちに渦を巻いていたのではないだろうか?そして、またこれは背を向けた私達に神様が持っておられる思いなのではないだろうか、と思った。神様は反抗する者が反抗し続け、滅びることを喜ばれることはない。涙を流しておられる。主よ、今日も人々をあなたのもとにお招きすることができるように助けてください。あなたの御思いを伝えることができますように。

5月25日(土)
「わたしはここにおります。」(サムエル記下15:26)
なんという印象的な言葉だろうか?神様の恵みがあるなら帰ってくるし、主が喜ばないならば、神様が良いと思われることをしてください、と神様の御手を信じて、その中に自分の思いをゆだねてしまったのである。わたしもここにいます。神様の御手を信じて、神様がしてくださることを期待しています。主よ、あなたとの豊かな時間を過ごさせてください。あなたの御心を、わたしに教えてください。あのアブラハムに、エレミヤに、イザヤに御思いを伝えられた主よ、わたしにも教えてください。けれども、わたしはあなたの御手の中にあります。主が御心をなしてくださいますように。

「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」(ヨハネによる福音書5:24)
もう死から命に移されている。もうすでに。この地上で天国の歩みを歩ませて頂いている。でも、天国に行ったら、地上の天国なんて本当に全然たいしたことなかったんだなあ、なんて思うんだろうな。イエス様の御許で、先に召された仲間たちと共に礼拝を守り、賛美をささげ、そこには涙も悲しみもない、という。そのあちらの天国のすばらしさによって、こちらの天国のすばらしさがもっとすばらしいものとなっていく、そんな歩みをさせて頂きたいと思う。「私達の国籍は天にある」この地上ではいつも旅人だ。荷物は少ない方がいい。今日も、そんな歩みをさせてください。死から命に移されている歩みをさせてください。

5月24日(金)
「アブサロムはアムノンに良いことも悪いことも語ることをしなかった。」(サムエル記下13:22)
アブサロムはアムノンを憎んで恨んだが、何も言おうとはしなかった。そして、ダビデもアムノンにもアブサロムにも何も言ったようには書いていない。腹に一物もって、でも、それをはっきり言おうとしない。その結果が殺人事件であり、明日以降の反逆であった。そりゃ、一番悪いのはアムノンに決まっているし、彼に入れ知恵したヨナタブだったことは確かだ。でも、このアムノンがタマルを手込めにした後、彼女を憎むようになった・・・とは本当に興味深い叙述だ。まるで小説でも読んでいるかのような気分になる。聖書が人間心理の深いところまで語っているのはおもしろいと思った。話を戻すと、やはり本当のことを言うことの大切さを思う。今、スモールグループの学びをする中で、本当のことを言うことの大切さを感じさせられる。本当のことを言い、その中で本当の和解が与えられる、そういう経験をさせて頂きたいと思う。

「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」(ヨハネによる福音書4:34)
おなかがすいていたであろうイエス様に食べ物を買ってきた弟子たちに向かってイエスが言われたのがこの言葉だった。弟子たちに失礼じゃないか、なんて思ったりするが、この時に大切なレッスンを与えられたのだと思う。それはイエスの力の源は、神の御心を行い、伝道することなんだ、ということ。これはまた私達にとってもそうだと思う。伝道すればするほど力が湧いてくる。そして、人が救われるのを見ると元気が出てくる。ほんとだなあ、と思う。そして、もう畑は色づいて刈入れを待っている、という。ぼやぼやしていてはいけないなあ、と思う。主よ、わたしに教えてください。祈らせてください。出て行かせてください。

5月23日(木)
「あなたがその人です。」(サムエル記下12:7)
人の話を聞いて、「ひどい話だ」「そんなやつは死刑だ!」と怒ったダビデに、ナタンは恐れずに「あなたがその人です」と言った。ダビデのストーリーだが、どきっとする言葉だ。私達は人の言葉に怒ったり、傷ついたりするが、それは自分の姿ではないだろうか?自分が同じことをしていても気がつかないことが多いのではないだろうか?気がつかないことの恐ろしさを感じる。ダビデにはこのように直言してくれるナタンという預言者がいたが、自分にもそういう存在が必要だと思う。神様、あなたがわたしに罪を示してください。そして、わたしにも直言してくれる預言者を与えてください。また自分がその預言者の働きをしなければならないときに、恐れずにその預言をすることができますように。

「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。」(ヨハネによる福音書3:27)
神様が与えてくださることを語ることができる。神様が与えてくださった使命だから果たすことができる。バプテスマのヨハネは本気でその自分の使命に立っていた。神様が与えてくださった使命だから。揺れないのは本当にそれが使命だと知っていたから。それを神様が与えてくださったと知っていたから。自分の使命は何だろうか?ここで福音を伝えていくこと。イエス様の福音を、救いを大胆に語っていくこと・・・。それである以上、そこにしっかりと立っていきたい。そこにかけていきたい。主よ、今日も上からの力に満たし、天からの命に満たし、あなたからの御言葉を語らせてください。あなたの御言葉をお与えください。

5月22日(水)
「ダビデが慰める者をあなたのもとにつかわしたのは彼があなたの父を尊ぶためだと思いますか。」(サムエル記下10:3)
うーん、複雑な思いになる。最近、自分は人にだまされやすいタイプなのだろうかと、馬鹿を見るタイプなのだろうかと、思わされることが続いた。人を信じることが怖くなるような・・・。でも、ここには国際政治の場で、「信じない」ということが悲惨な結果を招いた例を見ることができる。神様、信じていいんですか?人は罪人。それは忘れてはならない。だから、究極的に信じるのは神様なんだろうけれども、できるだけ人を信じていきたいと思う。馬鹿を見ることがあるかもしれない。でも、信じていきたいと思う。信じないことによって壊れていくもの、このハヌンとダビデの関係を見ていくときに、それは大きいと思う。

「あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました。」(ヨハネによる福音書2:10)
神様が準備される葡萄酒が最高の葡萄酒だ。神様が与えてくださるものこそ、最高のものだ。ことしのJOYJOYキャンプに対する不安があった。大丈夫だろうかと。でも、自分で準備した葡萄酒が尽きてしまったときにこそ、神様の葡萄酒の味を知るときだ。元々、あのキャンプは本当に祈って祈っていろんな不安を乗り越えて祈ってやってきたのに、だんだん慣れてきた中で、神様に本気で頼ることがなくなっていたのかもしれない。神様は本気で頼るチャンスを私達に与えてくださっているのではないだろうか?自分で準備した葡萄酒がなくなってしまったときに・・・。

5月21日(火)
「主はまた『あなたのために家を造る』と仰せられる。」(サムエル記下7:11)
「献堂」という言葉がある。会堂を神様にささげる、ということだろう。ダビデはそのようなことを思い立って、神殿建設に立ち上がろうとした。そのとき、神様は別の計画をお持ちで、「わたしがあなたの家を建てる」と言われた。私達が神様に会堂をささげるのか、それとも神様が私達に会堂を与えてくださるのか?わたしは、この聖書の箇所を読んで、はっきりと確信した。神様が私達に会堂を与えてくださるのだ。私達が神様にささげたような気持ちになってはいけないと思う。私達が神様に献金するものは、私達が神様のために恵んであげるものではなくて、神様が私達に管理を託し、正しいことのために使うように、神様から与えられたものなのだ。私達が神様のために家を建てるのではない。神様が私達のために与えてくださる。そのことを忘れないでいたい。そして、主に期待していこう。

「その人こそは、御霊によってバプテスマを授ける方である。」(ヨハネによる福音書1:33)
イエス様は御霊によってバプテスマを授ける。それはイエス様の大切な働きである。決して、周辺的な、どうでもいい働きではない。道備えをしたヨハネが言った、本当に大切な言葉である。4つの福音書全部に出てくる言葉である。御霊によってバプテスマを授けてください。主よ、あなたが約束してくださったとおりに、あふれるばかりの御霊の注ぎを与えてください。主よ、待ち望みます。ペンテコステの日だけではなく、ずっと求め続けよう。主よ、満たしてください。

5月20日(月)
「その時、主があなたの前に出て、ペリシテびとの軍勢を撃たれるからである」(サムエル記下5:24)
戦いの時に、主が私達の前に出てくださる。共にいて力を与えてくださる、励ましてくださる、みたいなイメージがどこかにある。戦うのは自分で、自分が神様に従っているときには、自分に神様が力を与えてくださる、みたいな。でも、ここを読むと、そうではなく、神様が先に立って、戦ってくださる、そこに進んでいくことができる、ということを言っているように思う。夏のキャンプのことも申し込みを受け付けてみると、恐れが生まれてくる。トラブルはないだろうか?楽しいキャンプになるだろうか・・・、と。主よ、あなたが先頭に立ってこの戦いを戦ってください。主が勝利を与えてください。あなたを待ち望みます。あなたの戦いに参加させてください。

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。」(ルカによる福音書24:5)
生きた方。イエスは今も生きた方。ただ、懐かしみ、その生き方を心に覚え、そこから学んで生きていく、そういう対象ではなく、今も生きて、私達を支え、私達と共にいてくださり、導いてくださり、語ってくださり、共に喜んでくださり、共に泣いてくださり、叱咤激励してくださり、しかってくださり、一緒に歩いてくださる方。それがイエスなのだ。心が燃えた。と弟子たちは言っているが、まさにそのようなものだ。生きている。生きている。これは本当にありがたいことだ。「生きた神様がおられるのが教会だ」と言った方がおられたが、本当にそのことを一つ一つ経験していきたいと思う。生きた方を死人の中に探しても見つかるわけがない。生きた方として求めていこう。

5月19日(日)
「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか。」(サムエル記下1:14)
ダビデの、この「主に油を注がれた者」に対する考えは徹底していた。それは単にサムエル記上の24,26章に出てくるように、自分が手を下さない、ということに留まらず、手を下す人を赦すことをしない、という徹底ぶりだった。私達は、自分はこういう信念を持っているけれども、それを人には要求しない、というのが普通だろう。けれども、ほかの人には要求しない、ということの中に、自分の信念に対する自信のなさや、人に対する無関心があるのではないだろうか?このダビデの姿勢は主が油を注がれたのだ、ということを心から真剣に受け止めたことの結果だと思う。自分はどうだろうか?神の選びを真剣に受け止めているだろうか?今、その真剣さが自分には必要だと思う。

5月18日(土)
「ダビデはその神、主によって自分を力づけた。」(サムエル記上30:6)
金曜日の夜の「NJゼロ集会」で、「私達は何によって元気を与えられるか」ということを考えてみた。そして、この聖書の箇所で、「主によって自分を力づける」ということが出てくる。神様はタイムリーな方だと思う。自分を元気づけるもの、「人との出会い」「心のふれあい」「音楽」「ちゃんと休むこと」・・・いろいろあるだろう。でも、この「神様によって自分を力づける」ってこの秘訣は、本当に身につけていたいと思う。神様によって力をいただいて、神様から力をもらって・・・。いつか、夢にイエス様が出てきたことがあった。うれしかったなあ。でも、どんな夢だったか覚えていない。それがちょっと残念。でも、夢に出てきて下さらなかったとしても、聖書を開いて、御言葉を読んで、祈って、賛美して力をもらって歩んでいくこと、本当に大切だと思う。主よ、きょうの力をありがとうございます。

「その声が勝った。」(ルカによる福音書23:23)
この一つの言葉は本当に印象に残る言葉だ。イエスの無罪を信じるピラト。それに対して、イエスを十字架につけるようにと要求する人々。結果は人々の声が勝った。でも、これは間違っていた、ということを否定することはできない。たとえ一つの声が勝ったからといって、それが正しいとは限らない。自分も、人の声に負けてはいけないと思う。主が何を望んでおられるのか、何が正しく、何が神様に従っていることなのか、それをしっかりと見据えていかなければならないと思う。主よ、助けてください。主が道を示してください。人の声に負けるのではなく、人と共にあなたの声を聞いていくことができますように。

5月17日(金)
「主が彼を撃たれるであろう。」(サムエル記上26:10)
主が彼を撃たれる。ダビデはそう思って自分で手を下さなかった。周りから見たら、「何をしているのだろう」と思われるかもしれない。実際、ダビデの部下たちは、ダビデのしていることがわからなかった。「神様がくださったチャンスを生かさなかった」と批判する人々もいた。アビシャイも「神はきょう敵をあなたの手に渡されました」と言った。クリスチャンが「神の手にゆだねて」というのを批判する人たちもいる。神を信じていても、そういう人がいる。でも、それを恐れる必要はない。神様を恐れること、「主が彼を撃たれる」ということを信じて行くことが大切だと思う。ダビデの信仰をわたしにください。あなたの裁きを信じ、あなたの恵みの力を信じる者としてください。

「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」(ルカによる福音書22:32)
今も、イエス様がわたしのために祈っていてくださる。わたしのためにとりなしをしていてくださる。弱いわたしのために。だから、わたしも祈ろう。一人一人の信仰がなくならないように。「わたしは大丈夫です」とペテロも言っていた。けれども、その彼がイエスを3度も知らないと言った。そんな私達の存在。そんな私達の弱さ。最近、「聖職者」と言われる人々の罪がたくさん明らかになっている。人を傷つけ、それも習慣的にそこにはまっていた彼ら。どれだけ彼らのために祈られてきたか、と思う。だから、祈ろう、一人一人のために。祈りが必要ない人は一人もいない。一人もいない。主よ、お助けください。一人一人の信仰がなくならないように祈ります。

5月16日(木)
「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。」(サムエル記上24:24)
ダビデは自分も油注がれた者だったから、主の任命、主の召命を重く見ていた。だから、自分の命を追っているサウル王に手を下さなかった。自分が王となるのも、権力や人望ではなく、軍事力ではなく、神様の召命によるのだということを本当にはっきりと理解していた。だから、自分と同じように神様の召命を受けて王となったサウルに自分から手を下すことを控えたのである。そして、神様が自分を王としようとされているなら、ここでサウルに手を下さなかったとしても、自分は王になる、という確信があったのではないだろうか?権力闘争をする必要がない、一人の人の姿を見る。主が導かれたところに行く。私達が神様のご計画にぴったりとはまり、その使命を果たしていくならば、それは何という幸いであろうか?

「言葉と知恵とを、わたしが授けるから。」(ルカによる福音書21:15)
言葉を使うことを仕事にしていると、この言葉が本当にうれしく思う。言葉と知恵とが与えられるから、心配するな・・・と。これは迫害の中での神様からの励ましだが、これはいつでもそうなのだと思う。主が言葉を与えてくださる。私達が心配する前に、私達が心配する以上に神様が心配してくださって、言葉を与えてくださる。主よ、あなたを待ち望みます。今日出会う人々にぴったりのみ言葉を、今日出会う人々に最高の御言葉を主が与えてくださいますように。主がわたしに語るべきことを与えてくださいますように。知恵も与えてください。正しい判断力をも与えてください。

5月15日(水)
「神によって彼を力づけた。」(サムエル記上23:16)
神によって力づける・・・。これはどんな感じなのだろうか?人間の愛情だけではない。友情だけではない。神様の臨在を覚え、神様が支えてくださることを信じて励ます、という励まし方だろうか?わたしもこのようなことをする者でありたいと思う。彼は神によって人を励ました、と形容されるような励まし方。主よ、教えてください。まず、あなたご自身がわたしを励ましてくださって、その励ましをもって、人々を励ますことができますように。主よ、あなたがわたしの励ましとなってくださいますように。

「神のものは神に返しなさい」(ルカによる福音書20:25)
神のもので神に返していないものはないだろうか?神に返さなければいけないものはないだろうか?主よ、あなたにお返しすべきものを示してください。魂。この魂には神のかたちが刻まれている、という。だから、神のものは神に返さなければいけない。神様のもの。それから時間。これは神様のものだから、神様にお返ししよう。そして、人々。人々を神様の許にお連れしよう。主よ、ペンテコステまであと4日。主よ、祈りの中で整えてください。自分自身をあなたの許にお返しします。

5月14日(火)
「主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた。」(サムエル記上18:12)
このあたりのダビデとサウルの姿を見ていると、三国志か何かの権力者たちの駆け引きのようなものも感じる。でも、ダビデの場合は、自分から天下取りの願いがあったわけではなく、神様によって導かれてそこに置かれた、という感じである。サウルの場合は何とか自分の王位を守っていこうということで精一杯のようである。神の御心の中に身を置いて、そこに安心して生きている者と、自分の力で自分の持っているものを守っていこうとする者との、対照的な姿を見る。自分はどうだろうかと思う。ダビデのように、神様の置かれるところに安心して従っていく者となりたい。そこに安心して歩んでいきたい。主よ、一歩一歩一緒にいてください。

「主がお入り用なのです」(ルカによる福音書19:34)
主がお入り用なのです・・・。それだけで十分だ。この飼い主にとっても、それだけで十分だった。わたしにとってもそれが一番大切なこと。主が必要としているところに・・・、誰かがではなく、主が必要としているところに、自分の持っているものも、そして、自分自身も与えていきたいと思う。今日の一日も、今日主がわたしを必要としているところに遣わしてください。人々が、ではなく、神様が必要としているところに送ってください。

5月13日(月)
「わたしが見るところは人とは異なる。」(サムエル記上16:7)
サムエルほどの人でも、サムエルのようにいつも神様の声を聞いていた人でも、直感的にわかったわけではなかった。彼はエリアブを見て、「あ、この人だ」と思った。でも、それは神様の目とは違った。霊的な感性のある人は、神様の御心が直感的にわかるかというならば、そうではない。だから、祈りが大切だ。だからいつもいつも聖書を読み、神様に御心を問い、求めていくことが大切だと思う。主よ、自分の直感に頼ることがなく、あなたの御心を祈り求めながら歩んでいく者としてください。注意深く求める者としてください。

「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです。」「この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。」(サムエル記上17:33,47)
ゴリアテに立ち向かったダビデ。それはまるで、NYに立ち向かう私たちのようだ。まるで役者が違う。まるで大きさが違う。おまえに何ができる?と言われそうだ。だから、私たちは神様により頼む。神様を待ち望む。神様の力によって、多くの方々が導かれますように。そのように願う。主よ。助けてください。主よ、あなたの力を見せてください。

「失望せずに常に祈る」(ルカによる福音書18:1)
失望せずに・・・というか、私たちは、自分を守るために祈ることをやめてしまうことがいかに多いことか?「聞かれない」「願い通りにならない」ことを恐れて、なんだかんだ理由をつけて合理化していないだろうか?裏切られるのが怖くて、そのときに思い通りにならないことにショックを受けるのがこわくて、「どうせ神様の御心はほかのところにあるのでしょう」なんて勝手の決めつけて、期待することさえ、祈ることさえ怠っていないだろうか?祈り続ける者になろう。このやもめのように神様から「あいつはうるさい」と思われるくらいに・・・。そのくらい求めることを神様は待っておられる、とイエスは言いたかったのではないだろうか?

5月12日(日)
「たとい、自分では小さいと思っていても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされました。」(サムエル記上15:17)
主に選ばれた者の責任。私たちはみんな主から選ばれて、家庭の中で、職場の中で、学校の中で、また地域社会の中で、クリスチャンとして歩んでいる。だから、どんなに自分が小さい者であると思っていたとしても、神様に選ばれた者としての責任があるのだ。神様に従っていく責任であり、世の光として歩んでいく責任である。また人々に罪の結果とイエスの救いを語る責任がある。私には牧師としての責任があり、夫としての責任があり、父親としての責任がある。自分では小さい者であると思っている。でも、神様の置いてくださったところにおいて、神様の与えてくださった責任があるのだ。そして、最近思わされるのは、あの使徒行伝で使徒たちが言っている「祈りと御言葉のご用」についての責任である。祈ること、一人一人のために祈ることを責任として与えられているのだ。主よ、祈らせてください。

5月11日(土)
「わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、決してしないであろう。」(サムエル記上12:23)
祈ることをやめない。祈ることをやめることは罪だ、という。ああ、自分はどれほどたくさんのことについて祈ることをやめてしまっただろうか?どれほど多くの罪を、どれほど大きな罪を犯してきただろうか、と思う。主よ、悔い改めます。弱い、罪深いわたしを赦してください。主よ、祈る者としてください。祈り続ける者としてください。あのイエスのたとえに出てくる女性のように、しつこく、祈り続ける者としてください。祈り続ける者としてください。今日、また招いてくださったことを感謝します。

「わたしたちの信仰を増してください。」(ルカによる福音書17:5)
これはわたしたちの願いでもある。そのわたしたちに、主は、「量じゃないんだよ」と言うかのようだ。ほんのからし種一粒ほどの信仰でいい。と言われているのだ。ただ、神様に目を向けること。神様に口を開けること。神様に向かって叫ぶこと。主はそれを待っておられるのだ。主よ、わたしにからし種一粒ほどの信仰を与えてください。

5月10日(金)
「いいえ、われわれを治める王がなければならない。」(サムエル記上8:19)
人々が王を求めた理由は、神に従うためではなくて、周りの国々と戦争をして勝つためだった。そのために人々は指導者を求めた。何と安易な、何と単純な求めだろうか?神はサムエルを通して、その大変さを示し、彼らの甘さを責めたが、それでも人々は聞こうとはしなかった。王様を求めながら、王様に従うことは考えていなかった。自分たちの言うことを聞いてくれる、自分たちの期待に応えてくれる王様を求めていた。これは今日に至るまで、同じだ。政治家を自分たちで選んでおきながら、求めておきながら、結局人々は自分の願い通りの指導者を求めている。従うことなど考えてはいない。神様だってそうだ。自分の役に立つ神様、自分の願いを聞いてくれる神様を求めているんだ。主よ、あなたに従うことがどういうことなのか教えてください。あなたを私の思い通りに動かそうとするところから解放してください。

「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。」(ルカによる福音書16:8)
このたとえ話は、何がなんだかわからない。どうして、不正な富を用いてでも友達を作るべきなのだろう???でも、8節まではわかる。この家令がこれくらい真剣なのと同じように、いや負けないように、天国に対して真剣でありなさい、ということだろうと思う。その真剣さが利口な方法を思いつかせた。でも、「不正をしてでも・・・」みたいな感じになってしまうとイエスの言いたいこととは違うのではないだろうか?「この世の富について、この世の人たちが真剣なように、それに負けないくらい、永遠の命について真剣でありなさい」ということなのだろう。その真剣さ、神様に対する、永遠の命に対する真剣さ、そして、人々の永遠の命に対する真剣さを持っていきたい。もっともっと、真剣でありたい。

5月9日(木)
「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことをやめないでください。」(サムエル記上7:8)
聖書を開くたびにこの事を示される。とりなしの祈りの必要性。大切さ。本当に教会のお一人一人のために祈っていくことの大切さ。祈りによって守られ、祈りによって勝利を得ると言うことを忘れてはならない。主よ、祈らせてください。もっともっと祈る喜びを満たしてください。そして、それが聞かれたという経験を更に与えてください。祈りの手を挙げ続けることができますように。それがわたしの使命だ。それが牧師として召された私にとって一番大切な仕事だ。

「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」(ルカによる福音書15:20)
今日は、「放蕩息子」のストーリーの中で、このお父さんの姿に心が留まった。神様はこんなにしてくださるんだ。神様はこんなにも私のことを心に留めていてくださって、こんなに喜んでくださるんだ、ということ。ありがたいなあ、と思う。そんなにも思われているのに、そんなにも思われているのに、そんなにも思われているのに、自分は神様に冷たい態度を取っていないだろうか。さめていないだろうか。神様、ありがとうございます。あなたがどれだけ私のことを思っていてくださって、今も見ていてくださるかを感じさせてくださって・・・。今日、本当に思いました。あなたに大切に思われていること・・・。

5月8日(水)
「サムエルはその幻のことをエリに語るのを恐れた。」(サムエル記上3:15)
主が語られることは、しばしば厳しいことだ。そのことをしっかり語ることを恐れることがある。特にサムエルにとってエリは先生だった。指導者だった。そのエリの誤りを指摘して、神の裁きを宣言することはどんなに大きな恐れだっただろうか?サムエルは恐れた。しかし、語った。何も隠さなかった。その毅然とした態度がわたしたちにも必要だと思う。人に対して厳しいことを言わなければいけない時に、人の顔を恐れて言えなくなってしまうことがないように。そのためには、本当に神様に聞いていくこと。このサムエルのように「しもべは聞きます。主よお語り下さい」という態度で神様にいつもいつも聞いていくことが大切だ。主よ、わたしの祈りの生活を祝福して下さい。祈りの中であなたに聞いていくことができますように。あなたの語りかけにいつもいつもチューニングをあわせ、あなたのみ声を聞き分けることができますように。

「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いていた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。」(ルカによる福音書14:16−18)
これは直接的にはユダヤ人のイエスに対する態度をたとえ話でされたのだが、この人々の姿が、神様の前に祈る時の自分の姿にだぶった。神様は毎朝、毎朝、楽しみに待っていて下さるのに、豊かなお料理を準備して待っていておられるのに、自分の方が、いろいろな事情で、その時を後回しにしていないだろうか、と思わされたのだ。「今日はどうしてもこれがあるから・・・」「今は時間がとれないから・・・」「人が来るから・・・」と後回しにしていないだろうか?ある宗教改革者が「わたしは忙しいから、最低?時間は祈らなければ仕事に取りかかることができない」と言った、という言葉を思い出す。忙しいからこそ、大切な仕事があるからこそ、祈って、神様から豊かな恵みをいただいて、ぶつかっていきたい。主よ、お助け下さい。

5月7日(火)
「またなにゆえ、わたしよりも自分の子らを尊び・・・」(サムエル記上2:29)
このエリの姿を見ていて、大変だろうなあ、と思った。そして、子供がこのようになったら自分はどうするだろうか、と思った。あのブルックリン・タバナクルのジム・シンバラの娘も大変だったと本に書かれている。脅したりなだめたり、すかしたり、いろいろしたが、すべては悪い方に向いていったという。彼女は祈りによって、造りかえられて、帰ってきたが、自分の子供たちがそのようになったらどうだろうか?神様を第一として、神様に信頼して、歩んでいく者となりたい。どんなことにも軸足を動かすことなく、神様を見上げて、子供たちを愛していこう。まだ、起こっていないことを心配するのは「明日のことを思い煩うな」ということだろうが、子供たちのどのように受け取られようと、神様を第一にしている姿をはっきりと示していきたい。

「しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かなければならない」(ルカによる福音書13:33)
イエス様の歩まれた道を歩む。イエス様に従っていく。それは簡単なことではない。迫害や、困難や、危険があったとしても、そこに進んでいかなければならない。どれほどわたしたちは人の顔色を見ながら、うまく世渡りをしていることだろうか?もっともっと本気でイエス様の歩まれた道を歩んでいきたい。ヘロデに命をねらわれようと、人々の批判を浴びようとも、まっすぐ歩まれたイエス様の道を歩む者となりたい。主よ、今日も、そのような場面に、はっきりとした態度を取ることができるように、主がこの言葉を思い出させて下さい。

5月6日(月)
「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに・・・」(ルツ記4:14)
1章では、ナオミは「私を楽しみと呼ばないで、苦しみと呼んで下さい。全能者が私を苦しめたからです」と言っている。本当に彼女の置かれた場所を考えるならば、そう言わないではおれなかっただろう。しかし、そのナオミを神は決して見捨てられなかった。見捨てられてなんかいなかった。彼女の存在が、ルツをダビデ王の、また、イエスの祖先に組み入れ、神様の世界に対する愛のメッセージを語る器となった。わたしたちの歩みの中で、本当にルツ記1章に置かれるような時がある。その時には4章までは見ることができないで、苦しみ悩み、怒り、どうしていいのかわからなくなる。しかし、神様は4章までご存じだ。4章を見る前に、神様を信頼して賛美をできる者となりたいと思う。

「あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。」(ルカによる福音書12:56)
これは自分にぴったりの言葉だ。時代を見分ける、か。時代を見分ける鋭い目。時代に飲まれてしまうのではなく、時代に振り回されてしまうのではなく、時代を見分けていく。今の時代はどんな時代なのだろうか?黙示録に記された世の終わりが近づいていることは確かだろう。でも、そんな漠然としたものではなく、神様が時代を通して語ろうとしておられることをしっかりと聞き取っていきたい。読みとっていきたい。偽キリストや反キリストにだまされるのではなく、それを見抜いていく鋭い目を持っていきたい。そして、人ではなく、人ではなく、イエス様に従っていく者として歩んでいこう。

5月5日(日)
「彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分に来た。」(ルツ記2:3)
はからずも・・・。彼女が神様に従い、人を愛して行こうとした時に、神様は彼女の意図を超えて、ボアズの畑に彼女を導いた。神様のなさることは不思議だと思う。人生には偶然はない。神様の導きで歩んでいるのだ。「はからずも」ということがある。わたしたちの意図を超えて神様が導かれることがある。振り返って、「この事もそうだった」「あのこともそうだった」と感謝する者となりたい。そのことに気づく敏感さを持っていきたい。主よ、今日も、わたしたちの思いを超えて働いてください。

5月4日(土)
「そこで夕暮れまで神の前に座し、声をあげて激しく泣いて・・・」(士師記21:2)
気の滅入るような数章が続いた。何が正しくて、何が罪なのか。19章で旅人を守った人も、「ここに私の娘と、この人の妾がいます。今、出しますから、辱めてください。この人には何もしないでください」と言っている。どうして、彼は自分の身をかけてもこの人や自分の家族を守ろうとしなかったのだろうか?そこまで女性が物のように扱われていたのだろうか?しかし、そんな中で、イスラエルの人々は、ベニヤミンの罪をそのままにはしなかった。そして、戦いを終えた時、彼らは泣いた。そこに何か少しほっとするものを感じた。その解決法もまた「人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うところを行った」という感じなのだが、それはともかく、自分たちの手で、彼らを裁かなければならなかったことに痛みを感じ、戦いに勝利しても、泣いた。神様もそうなのではないだろうか、と思った。神様もどうしても人を裁かれる時があるだろう。しかし、それは神様にとっては痛みであり、悲しみなのだと。主よ、私にもそのような愛を与えてください。「何をしてもいいよ」といういい加減な無関心ではなく、罪に怒る愛を与えてください。

「なおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」(ルカによる福音書11:13)
ペンテコステまで後2週間。聖霊様が与えられることを求めていこう。求める者には与えられるのだから。あの弟子たちも求めて求めて求め続けたのだから。そして、自分だけではなく、教会全体で求めていきたい。祈りによって造られる教会。祈りによって建て上げられる教会。主よ、そこに進ませてください。今あなたを求めます。主よ、与えてください。

5月3日(金)
「その頃イスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。」(士師記17:6)
今日のところもまたいろいろ考えさせられる。自分で勝手に偶像と神殿を造り、自分で勝手にその資格もない人を祭司として雇ったところで、「ああ、主が私を恵んでくださっているんだ」などと感じ、また、その雇われた祭司が、「あなたは一人の人の祭司であるのと、一つの部族の祭司であるのとどっちがいいのですか?」と言われて、喜んで一つの部族の祭司になってしまう。神様の導きを求めないで、聖書の言葉にも従わないで、それで、自分の願ったとおりになると、「神様が恵んでくださったんだ」などと口にする。でも、これはまたわたしたちの陥りやすいところなのかも知れない。本当に神様の導きを求めて、神様に祈って、進んでいくことが大切なのではないだろうか?主よ、あなたの御前にひれ伏して歩みたく思います。主が導いてくださいますように。

「御言葉に聞き入っていた。」(ルカによる福音書10:39)
ここでも、主に聞く、言うことが心に響いてきた。今の自分に神様が必要だと言うことで語ってくださっているのだろう。主よ、あなたに聞きます。あなたに聞いていきます。主よ、あなたがお語りください。語られて、語られて、喜びにあふれて歩んでいく者としてください。語られた喜びで説教をする者としてください。主よ、あなたを待ち望みます。

5月2日(木)
「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。」(士師記16:28)
サムソンの女性に対する弱さ。デリラの「あなたはわたしに心をあかしてくれない」といいながら、自分も自分の心を明かそうとしない身勝手さ。気が滅入ってくる。サムソンは結局、自分のことを愛してもくれない女、お金のために自分を売るような女を愛し、そして、信じてしまったのだ。なんて馬鹿なんだろうと思う。でも、なんて馬鹿なんだろうということをしてしまうのが人間なんだろうなあ、と思う。その馬鹿なサムソンの最後の祈りは、「神様、わたしを覚えてください」だった。あのマリヤの受胎告知の時の賛美も「神様はわたしを心にかけてくださった」だったし、あの強盗が十字架の上でイエスに言った言葉も「わたしを思い出してください」だった。弱い人間の神様への精一杯の言葉なのではないだろうか?神様、わたしを覚えてください。

「これに聞け。」(ルカによる福音書9:35)
主よ、あなたはあの何を言っているかわからずにいろんなことを語り出すペテロに、「これに聞け」と言われました。イエス様に聞くこと。自分から話しすぎる私に対する神様、あなたの語りかけだと思いました。主よ、あなたにもっと聞いていくことができますように。主よ、あなたに聞く時を聖別して、聞くことによって語ることができますように。主よ、お語りください。聖書を開く時に、主よ、あなたがお語りください。

5月1日(水)
「父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。」(士師記14:4)
この時代、ペリシテ人に支配されていたのはイスラエルの人々が神から離れていたからだったという。(13:1)そこに神がサムソンを起こされて、彼を指導者として立てた。しかし、14章のいざこざを見ると、どうも神の導きとは思えなかったのだが、そんな感覚は聖書から否定されてしまった。サムソンの女性に対する弱さからこんな問題が起こってしまったかのように思っていたのだが、聖書は、それが神から出たものであることをはっきりと宣言する。神様がペリシテの人々の手からイスラエルの人々を救うために、この事も起こされた。今パレスチナで起こっていることも、神様はどのように見ておられ、どのように働いておられるのだろうか?イスラエルの人々がなかなかイエス様の許に帰らないから、パレスチナの人々を用いて、悔い改めに導こうとされているのだろうか?主よ、この時代の中で、イエスによる救いを、イスラエルの人々も、パレスチナの人々も経験することができますように。後でもいいですから、「この事が主から出たものであることを知らなかった」と知ることができますように。

「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」(ルカによる福音書8:25)
どこにあるんでしょうねえ。本当にそう思う。イエス様にそう言われると、本当にそうだなあと思う。嵐がやってくると、大騒ぎをして、走り回る。本当に信仰がないなあ、と思う。信じます。不信仰なわたしをお赦しください。嵐の中でも、あなたを信頼することができますように。嵐の中だからこそ、あなたを信頼することができますように。主よ、お助けください。