3月31日(日)
「あなたがたはわたしの命にそむき、あの水のかたわらで彼らの目の前にわたしの聖なることを現さなかったからである。」(民数記27:14)
結果は水が出た。人々の渇きは癒された。でも、それによって神の聖なることが現されなかった。人々は水を飲んで満たされた。でも、その時に、モーセが言ったのは「私達がこの岩から水を出さなければならないのか」ということだった。ここには「結果オーライ」ではない世界がある。主の栄光があらわされなければ、主のすばらしさがあがめられなければ、それは失敗だ。主よ、今日のイースター礼拝でも、主の栄光があらわされますように。わたし自身がほんの少しでも「自分がやっている」という思いを持つことがありませんように。自分が注目されたり、ほめられたりしたいという誘惑から守って下さいますように。徹底的に、今も生きておられるイエス様を指し示すことができますように。そう、みんな復活の主に会うために礼拝に来られる。その邪魔をすることがないように守って下さい。

3月30日(土)
「倒れ伏して、目の開かれた者」(民数記24:4)
異教の魔術師バラムが魔術で預言をしていた時には出てこなかった言葉が、「神の霊が臨んだ」時には出てきた。この不思議。倒れ伏した時に、本当のメッセージが与えられる。ただ論理的に考えて、こねくり回している時にはわからない本当のメッセージが「倒れ伏した」時に与えられる。主よ、わたしを打ち倒してください。メッセージが語れるように。イースターのメッセージが語れるように、わたしを打ち倒してください。主よ。あなたがわたしの主です。あなたが教会のリーダーです。だから、わたしを打ち倒し、あなたのメッセージを語らせてください。

「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者にしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25:40)
イエスに会うのはどこだろう。それは「仕える場」でもある。仕えるところに主が出会ってくださる。復活の主にわたしはどこで出会っているだろうか?主よ、わたしを遣わして下さい。自分の思い通りに生きるのではなく、人々との出会いの中に生かして下さい。自分の殻の中に、自分の城の中に閉じこもっていくのではなくて、人々との出会いの中に生かして下さい。

3月29日(金)
「すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。」(民数記21:9)
へびを仰げば救われる。そんなことはどうしてなのかわからなかっただろう。そして、これはイエスが十字架にかけられることの預言であった。へびを仰げば救われるというのに比べれば、イエスの十字架がわたしたちの罪の身代わりであったと信じれば救われるというのは何と信じやすいのであろうか?神様の愛を受け入れれば、それは自分のものになる、ということなのだから・・・今日はGood Friday。イエスが十字架にかかられた日。イエスの十字架を仰ぎながら一日を過ごしたい。主よ、あなたが語って下さい。あなたが教えて下さい。イエス様を通して示されたあなたの愛を。

「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」(マタイ24:12)
世の終わりには人々の愛が冷える・・・これは恐ろしいことだ。わたしたちは今、神様の愛と、多くの人の愛に支えられて生きている。しかし、世の終わりには、人の愛が冷えてしまう。神様ではなく人の愛を当てにしていたら生きていけない状況が襲ってくるのだという。神様、あなたの愛を当てにして、あなたの愛に生かされていくことができますように。主が、一歩一歩を守り、支えて下さいますように。私のために十字架にかかって下さったのはイエス様、あなただけです。あなたを信頼して歩んでいくことができますように。

3月28日(木)
「わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。」(民数記17:5)
主の選びははっきりとわたしたちの目に見えるものだと思う。主が特別な使命を与えられて立たせられる人には神様ははっきりとした徴を与えられる。主よ、そのことを見極める目を与えて下さい。主よ、見極める力を与えて下さい。牧師として、本当に大切な働きだと思います。人の意見や考えに振り回されるのではなく、あなたが芽を出される杖をはっきりと見ていくことができますように。あなたの導きを待ち望みます。教えて下さい。

「めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。」(マタイ23:37)
主の忍耐。主の愛。本当に神様は、イエス様は何と忍耐深いお方であろうか?自分を殺そうとする者たち、自分に害を与えようとする者たちに対して、このように招きを語り続けることは自分にはできるだろうか?自分自身、この神様の憐れみによって生かされているのかも知れない。「もっと奥に進みなさい」と招かれているのに、進もうとしない自分に対して、神様はいつもいつもその翼の下に招き続けているのかも知れない。主よ、お答えします。今朝、あなたの恵みの深みへと導いて下さい。祈りの中であなたのいのちに触れさせて下さい。

3月27日(水)
「レビの子たちよ、あなたがたこそ、分を越えている。」(民数記16:7)
モーセは本当に民を愛し、謙遜な者だったけれども、神様の選び、使命感、ということについては本当に厳しい人だった。ここで人々は「平等」の思想を身勝手に解釈して、自分たちの考えを押し通そうと思った。しかし、モーセは自分とアロンが神に選ばれて一つの使命を担っていることを主張して、そのことを神様も支持された。本当にこの厳しさは大切だと思う。モーセは「あなた方がそういうなら・・・」と無責任な態度は見せなかった。わたしたち一人一人もその強さが必要だと思う。その責任感が必要だと思う。対立することがあっても、はっきりとした態度で、責任ある態度で神様の使命を果たすことが大切だと思う。主よ、教えてください、あなたの導きを、あなたの与えてくださる使命を。

「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」(マタイ22:14)
みんなが招かれているのに、十字架という礼服を着なければ、そこで受け入れられることはない。つらいことだ。教会もたくさんの方を招き、受け入れても、ちゃんと十字架という礼服をお渡ししていなければ、それは本当に残念なことだ。主よ、たくさん招きます。イエス様が言われたように、出会った人は誰でも招きます。そして、ちゃんと十字架という礼服をお渡しします。主よ、どうかお助けください。集まった方々が喜んで礼服を受け取ってくれますように。主よ、どうか助けてださい。そして、みんなと共に天国での大パーティーをエンジョイすることができますように。主よ、遣わしてください。主よ、送ってください。

3月26日(火)
「ただ、主にそむいてはなりません。」(民数記14:9)
彼らにとって、攻めていかないことが、「主にそむく」ことだった。ある時には何もしないことが「主にそむく」ことになるということに心が留まった。何か悪いことをすることが神様にそむくことであるだけではなく、神様が進んでいくようにと命じておられるところに進まないで留まっていることも、また、神様にそむくことになることがあるのだ。主よ、あなたに従う者としてください。あなたに従っていく者としてください。恐れないで行動する者としてください。ただ慎重になろうとして、あなたの導きを見逃すことがありませんように。恐れに支配されることがありませんように。

「わたしの家は祈りの家ととなえられるべきである。」(マタイ21:13)
教会は祈りの家。教会は祈りの家。祈りの家。本当にそのようになるようにと願う。明日の朝、祈りに教会に集まる。主よ、祈りの霊を注ぎ、祈りの力を経験させてください。主が、真ん中にいて導いてください。主が祈りをお聞きください。主が聞いておられることをわたしたちが感じることができますように。本当にあなたと共にいることを味あわせてください。

3月25日(月)
「民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。」(民数記11:1)
主が救ってくださって、主が導いてくださっている道であるのに、それを「災難に会っているように」感じていた人々。客観的に見て言うのは簡単だが、自分もそういうことがあるのではないだろうか?本当は神様に導かれて歩んでいるのに、あたかも災難に遭っているかのようにつぶやくときがあるのではないだろうか?本当に神様の導きを信頼して歩んでいく者とされたい。主よ、困難の中でもあなたの御手を見させてください。

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える者となり・・・」(マタイ20:26)
いや、別に「偉くなりたい」なんて思わないよー、なんて思うのはひねくれているだろうか?とにかく、「仕える者になりなさい」ということなんだろう。家庭の中でも、「仕える」ことの難しさを思う。いや、一番甘えが出る、一番本音が出る家庭だからこそ、「仕える」ことの難しさを感じるのだろう。仕えることを教えてください。仕えることを経験させてください、主よ。

3月24日(日)
「第二年の二月二十日に雲があかしの幕屋を離れてのぼったので・・・」(民数記10:11)
雲がのぼるときがあるという。さあ、前に進みなさいと。今の教会の中でそれがあるだろうと思うのは会堂建築だ。雲がのぼるときの徴をちゃんと見ていかなければと思う。でも、もしかしたら、その徴は本当に誰にもわかるように与えられるのかもしれない。イスラエルの人々によくわかったように、私達にもよくわかる徴が与えられるのかもしれない。私達が主の臨在を振り回していくのではなく、主の臨在が私達を振り回していく、私達を導いていく。そこに従っていけることの幸いを思う。でも、一度座り込んだら立ち上がるのはまた大変だっただろうなあ、この時代も・・・。私達の教会もザイオン教会の使命感と好意と忍耐とでここに座り込んでしまって立ち上がるのが大変かもしれない。でも、そこは主の導きには何があっても従っていけるように、主よ、あなたが助けてください。

3月23日(土)
「さてモーセは主と語るために、会見の幕屋にはいって、あかしの箱の上の、贖罪所の上、二つのケルビムの間から自分に語られる声を聞いた。すなわち、主は彼に語られた。」(民数記7:89)
贖罪所から主が語られる。贖罪所は今日で言えばイエスの十字架だ。十字架から主が語られる。イエスの言葉、イエスの生き様、それはすべて神様からのメッセージだ。でも、十字架こそがその結晶だ。神を見たい?神の声を聞きたい?それは十字架のもとに行けばいい。明日は十字架のところから直接にメッセージをする。心が躍る。そこに神の愛があふれているから、神の力があふれているから。神様、どうか今日語ってください。わたしの心に語ってください。そして、主の力を満たし、明日の礼拝で十字架のすばらしさが、あなたのメッセージがお一人一人の心に届きますように。

「人にはそれはできないが、神には何でもできないことはない。」(マタイ19:26)
神には何でもできないことはない。この言葉は人がどうしたら救われるだろうか、という話の中で出てきた言葉だ。確かに人が救われるのは奇跡だ。人がイエスの十字架を私達の罪のためだったと信じる、ということは本当に奇跡だ。だから、主よ、あなたに期待いたします。あなたを待ち望みます。主が働いてください。わたしはただあなたの証人です。あなたのことを指し示すだけです。その人のうちに働き、イエス様のものとするのは、あなたです。主よ、イエスの十字架にとらえられ、造りかえられる者たちを主よ、あなたが起こしてください。次々と。主よ、時間が限られています。あなたの働きに参加させてください。

3月22日(金)
「願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。」(民数記6:25)
神のみ顔に照らされる・・・。神様に微笑んで頂くということなのだろうか?主に見守って頂く、ということなのだろうか?み顔に照らされる。昨日、「祈るときに神様についてどんなイメージを持ちますか」という質問を受けたが、神様のみ顔はどんなんだろうか?あのイザヤが神を見たときに、それは足許だけだった。それでもう打ちのめされてしまった。だから、神様のみ顔なんて想像もできない。でも、イエスがこの世に来られて、人として歩まれた。そして、福音書が書かれた。それはわたしたちにとって大きな助けだ。神様がどんな表情でわたしたちのことを御覧になっているのか・・・。神様の前に立ち、神様と共に歩めることは大きな喜びだ。主よ、今日も、み顔の輝きを見させてください。人との出会いの中に、そして、あなたが作られた自然の大きさの中に、見せてください。あなたのみ顔の輝きを。

「もし心から兄弟をゆるさないならば・・・」(マタイ18:35)
心からゆるさないならば・・・。これはまた考えさせられる。心から赦すって難しいと思う。「あれだけ言われて、忘れられない」ということがある。心がずきずき痛むことがある。痛くて痛くてたまらなくて、考えるだけで逃げ出したくなることがある。心から赦すって、神様の奇跡だと思う。赦したい、と思うことが第一歩なんだろう。赦すことを教えてください。そして、その赦すことによる平安を与えてください。でも、「赦さなければ・・・」とこだわっているときは、自分が赦してもらった一万タラントより、自分が貸している百デナリの方が心を占めている、ってことなんだろうなあ。主よ、あなたが赦してくださったことに目を向けることができますように。そのことで心をいっぱいにしてください。

3月21日(木)
「彼らは主の命により、モーセによって任じられ、おのおのその働きにつき、かつその運ぶところを受け持った。」(民数記4:49)
任命の尊さを感じさせられる。一つの奉仕に任じられるとはこのように尊いことなのだ。誰でも彼でも・・・というものではない。主が命じられる。そして、それは本当に尊いことなのだ。幸いなことなのだ。主よ、わたし自身もあなたから一つの職に任じられました。主が召してくださったことについて忠実であらせてください。主が与えてくださった働きに熱心であらせてください。小さいことに忠実であるものは大きなものを任されると、あるように。一つ一つのことについて忠実な者としてください。

「あなたがたの信仰が足りないからである。」(マタイ17:20)
これは本当にチャレンジを与える言葉だ。自分は願いがあるときに、もしかするとパウロのように何度も必死に祈る前に、「神様の御心だ」と逃げていないだろうか?この子供が直らなかったときに、イエスは不信仰の故だ!と言った。本当は神様はわたしたちの祈りを待っているのに、祈りもしないで「委ねました」なんて物わかりのいいふりをしていないだろうか?弟子たちと同じように祈ろう「わたしたちの信仰を増してください」と。もっと祈らせてください。そして、もっとあなたの奇跡を見させてください。もし、祈りがわたしたちの願い通りには答えられないときにも、もっと「ああ、これは御心の中に許されたことなんだ」という心からの納得と平安とを与えてください。信仰を増してください。

3月20日(水)
「イスラエルの人々はその部隊に従って、おのおのその宿営に、おのおのその旗のもとにその天幕を張らなければならない。しかし、レビびとは、あかしの幕屋のまわりに宿営しなければならない。」(民数記1:52−53)
それぞれの部族がそれぞれの旗のもとに集まっている中で、レビ人は幕屋のまわりに集まることを命じられた。幕屋自体、つまり神様の臨在の象徴自体が彼らの旗印だったんだなあ、と思わされた。自分の旗が欲しいと思った。アメリカの人々が星条旗を誇りにしているようには、日本人は日の丸を誇りにしてはいない。自分の旗が欲しいと思った。誇りにできる旗が欲しいと思った。アメリカにいるんだから星条旗を誇りにしたらいい、と思う部分もあるが、何かここで生まれ育った人々とは少し違うのだろう。それに国家というものを超えたものが欲しい。やはり「わたしたちの国籍は天にある」のだ。今日神の臨在の象徴は十字架だ。十字架の旗のもとに集う。十字架のもとに集まろう。もっと十字架を誇りとしよう。いや、十字架だけを誇りとしよう。「わたしにとってはイエス・キリストの十字架以外に誇りとするものは断じてあってはならない。」

「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)
神のことを思わないで人のことを思うときに、わたしたちは神様の邪魔をしている。この言葉は直接には十字架の苦しみをさけさせようとする者のに対してイエスが言われた言葉だが、また普遍的な真理である。神のことを思わないで人のことを思うときに神様の邪魔をしている・・・。主よ、あなたのことを思わせてください。あなたの御心を求めさせてください。あなたの願いを教えてください。あなたの考えておられるように考えることができますように。主よ、あなたの御思いに近くあらせてください。

3月19日(火)
「わたしはあなたがたの誇りとする力を砕き・・・」(レビ記26:19)
神様はわたしたちが誇るときに、その誇りとしている力を砕かれる。それによって神様を頼ることへと招かれる。でも、それは本当に痛みを伴うことだと思う。それが誇りとなり、支えとなっているものであるならば、それが取り去られるときに、それはどれほどの痛みを伴うことだろう?しかし、それによって神様をもっと知ることができる。それによって神様の恵みを知ることができる。主よ、砕いてください、あなたをもっと深く知ることができるために・・・。主よ、ささげます。あなたよりも大切にしているものがあったらそれをあなたにおささげする勇気を与えてください。

「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。」(マタイ15:28)
この女のように熱心だろうか?もちろん、熱心さがわたしたちを救うわけではない。自分はイエス様の恵みによって救われた。でも、この女のようなハングリーな切実さがあるだろうか?このように朝祈るときにも、他のことに時間を奪われ、一番大切なことが後回しになり、いのちを失ってはいないだろうか?主よ、この女がイエス様の恵みを受けるのにハングリーであったように、わたし自身もハングリーにあなたのいのちを、あなたの御言葉を、求める者としてください。わたしたちが毎日毎日「神の口から出る一つ一つの言葉によって」生きる者であることを経験させてください。主よ、朝早く目を覚ましてください。そして、その時にまず、あなたの前に出ることを喜びとさせてください。

3月18日(月)
「絶えずともしびをともさせなさい。」(レビ記24:1)
ともしびを絶えずともす。これはどんなことを意味しているのだろうか?神様がわたしたちにいつも光であってくださることを忘れないようにということなのだろうか?それとも、わたしたちも神様のことをあかしする灯火なのだ、ということを忘れないように、ということなのだろうか?いつも油が必要だ。いつも神様から油をもらって、いつも神様からいのちをもらって生かされているのだ。聖霊様に満たされて、生かされているのだ。主よ、あなたを待ち望みます。今日もあなたがわたしに油を注ぎ続けてくださいますように。出会うお一人お一人にイエス様の光をお伝えすることができますように。

「ヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。」(マタイ14:5)
ヘロデがヨハネを殺さなかった理由は、彼自身がそれがいやだったとか、彼自身が悩んでいたからではなくて、人々を恐れていたからだったのだ。今まで、何か、ヘロデ自身がヨハネの中に殺してはいけない何かを感じていたのかと思っていたが、ただ、人々を恐れていただけだったのだ。だから、ヘロデヤの娘がヨハネの首を要求したときに、ヘロデが困ったのは、人と人との板挟みになっただけだったのだ。人と人との板挟み、それに振り回されることがどんなに多いだろうか。けれども、そこで神様という存在を知っているのはどれほど大きなことだろうか?主よ、人の顔を恐れて、板挟みになることがないように。もし、そうなったときに、主よ、あなたを求め、あなたの導きに従っていくことができますように。

3月17日(日)
「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。」(レビ記19:18)
「憎んではならない」「あだを返してはならない」「恨みをいだいてはならない」と続く中でのこの言葉。「えっ、あの人もですか?」と問いかけるときに、「わたしは主である」と語られる。この「わたしは主である」という言葉の重さを感じる。わたしは主である。聖書の言葉の前にひれ伏さざるを得ない。自分が聖書を研究し、聖書の中で気に入ること、信じられること、自分が思っていたとおりだったこと、そして、できることをやっていく、のではなく、聖書の言葉の前にひれ伏して、自分が思いもよらなかったメッセージによって震われて、裁かれて、砕かれて、悔い改めさせられていく・・・。「わたしは主である」という言葉、今日は本当に心に留まった。主よ、あなたの主権を受け入れます。隣人を愛する者としてください。憎んだり、恨んだりしたくなるような隣人を愛することを教えてください。愛する経験を与えてください。弱い者です。恐れないで愛する心を与えてください。

3月16日(土)
「すべて肉の命は、その血と一つだからである。」(レビ記17:14)
肉と霊とをつなぐものとしての「血」があるのだ。だから聖書では「血」が重んじられているのだ。命と血とは一つであって、イエスの血が・・・と言われるときに、それは魔術的な血ではなくて、イエス様の命、ということなのだ。命を与えてくださったお方。明日の礼拝では、イエスが「よみがえりであり、命である」というところを読む。それは命をも支配しておられる、ということだけではなくて、命を与えてくださったから命なのだ、ということでもある。主よ、今日、祈りの中で、御言葉を語ってください。主よ、わたしの心を奮い動かし、神様に語られた恵みを喜んで語ることができますように。

「喜びのあまり・・・」(マタイ13:44)
喜びのあまり・・・だ。周りに勧められて・・・とか、牧師がうるさいから・・・、説得されて・・・ではなく、本当に喜んですべてを投げ出していく価値が福音にはあるのだ。主よ、福音の価値を信頼します。人の声や、人の目に振り回されるのではなく、福音の価値を信頼します。聖霊様によってイエスを主として告白し、喜んで従っていく方々が起こされますように。主よ、あなたに感謝します。福音の価値をもっともっと自分自身知っていくことができますように。

3月15日(金)
「『汚れた者』『汚れた者』と呼ばわらなければならない。」(レビ記13:45)
本当はわたしも、そのように呼ばわらなければならない者だ。自分の汚れを、人々に呼ばわらなければならない者だ。そのことを思うときに、またイエス様の十字架による赦しの福音のものすごさを感じる。ものすごい神様の愛を感じる。それと同時にイエスに遠くから「あわれんでください」と叫んだ病者の痛みをも思わされる。ああ、本当はわたしもこのような者なのだ。

「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」(マタイ12:50)
クリスチャンは神の家族だという。そのことをもっともっと経験していきたい。本当に一部が痛むときに全体が痛み、一部が喜ぶときに全体が喜ぶような、そんなことを経験したい。主よ、導いてくださいJCCNJをそのような群れにしてください。完全ではない人間の集まりである教会が、完全なる神様あなたの愛を表すものとして用いられますように。

3月14日(木)
「これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを滅ぼし・・・」(レビ記10:1−2)
この厳しさ、それを決して忘れてはいけないと思う。本当に一つ一つのことを真剣にさせて頂きたいと思う。本当は主の火がわたしを滅ぼしてもおかしくない、そんな中で、イエスが十字架でわたしの身代わりとして苦しんでくださった。それで今あること、今生かされていること、そのことを感謝して歩んでいきたい。主がわたしのために十字架で死んでくださったこと、そのことのものすごさ、その痛み、その苦しみ、悩み、見えてくるのではないだろうか?主よ、一つ一つの集会の中で、あなたの聖さを見させてください。感じさせてください。

「あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
自分の生活の中で、神様の前に立つことは「戦い」であるかのように思うことがある。いや、いつも思っているのだろうか?祈りも、あのヤコブと神との格闘のように、戦っているかのように思うことがある。しかし、それと共に、イエス様のところで休らうこと、イエス様のところで、ほっとすること。それが魂のリフレッシュなんだ。休暇取って、温泉にでも入って・・・というのではなく、イエス様のところでほっとする。そんな祈りのときを与えてください。主よ、ありがとうございます。イエス様のところでほっとする。

3月13日(水)
「主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした。」(レビ記9:24)
今、必要なのはこの火だ。主の前から出て、祭壇の上のものを焼き尽くしてしまう聖霊の炎。それが今わたしの生活にも、そして、教会にもこの火が必要だ。主よ、あなたの御名を賛美させてください。あなたの御業を見させてください。あのペンテコステまでの弟子たちが聖霊の炎を待ち望んだように、祈って祈って待ち望んだように、主よ、あなたの火を待ち望みます。主よ、そのような御業を見させてください。主よ、あなたの火を送ってください。祈って待ち望みます。

「語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」(マタイ10:20)
父の霊が私達のうちにあって語る。主が語ってくださる。主よ、それはものすごいことです。自分で語ろうとするとあなたの働きを妨げることになります。主よ、いつもあなたが語ろうとすることを語ってください。あなたが語ろうとすることを教えてください。聖書の御言葉をストレートに語らせてください。主がメッセンジャーであってください。そのためにいつも祈り、御言葉を聞いていけるように、私の生活を整理してください。

3月12日(火)
「人がもし罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならぬことの一つをしたときは、たといそれを知らなくても、彼は罪を得、そのとがを負わなければならない。」(レビ記5:17)
知らなくても・・・という言葉。ものすごいことだ。知らなくても犯している罪。知らなくても傷つけている人。知っていてそれをすることも恐ろしいことだが、自分の罪を知らないこともまた恐ろしいことだと思う。それを思うと、本当に申し訳ない気になる。気づかせてください。という祈りをするのもまた、怖い。それくらい罪深い者だと思う。善意の罪はどうなんだろうか?善意でしたことが人を傷つけてしまう。何の悪気もないのに、人を痛めつけてしまう。そんなのも神様の前にも、人の前にも申し訳ないような気がする。主よ、守ってください。主が守ってください。主が癒してください。

「人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。」(マタイ9:2)
イエス様のところに連れて行くのに「寝かせたまま」でいいんだ。「寝かせたまま」がいいんだ。イエス様のところに人々を連れて行くのに、無理矢理起こして、無理矢理着替えさせて、こぎれいな格好をさせて、それでやっとイエス様にお会いしてもらう、みたいなことをさせていないだろうか?寝かせたままでイエス様のところにお連れすればいいんだ、イエス様がしてくださるから。イエス様が語ってくださるから。ちゃんと身なりをきちっとさせ、「失礼のないように」なんてしなくていいんだ。床に寝たままで、イエス様が会ってくださって、立たせてくださるのだ。何か、ちゃんとしたクリスチャンとして立ち上がるまでがんばって導かなければ、と肩に力が入っていたように思う。でも、立たせてくださるのはイエス様なんですね。ああ、感謝。教えてくださってありがとうございます。

3月11日(月)
「こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。」(レビ記1:9)
「すべてを焼いて」とある。燔祭はすべてを焼き尽くさなければならなかった。すべてを。無駄だ。何という無駄だろうかと思う。その牛を食べたら、どんなに栄養があっただろうか?それも完全な牛。食用には適さない牛ではなく、もうお払い箱の牛ではなく、完全な牛。なんという無駄だろうか?でも、無駄、というと思い出すことがある。あのマリヤがイエスに注いだ香油。ユダが、弟子たちが「もったいない」「何という無駄なことをするのか」「これを売って貧しい人々に施せば・・・」と言ったその言葉。そして、イエスの十字架自体が「何という無駄」ということではないだろうか?それに比べて、自分はイエスのためにどんな無駄をしてきただろうか?いや、本当は決して無駄ではないことを、自分の「損得勘定」で「無駄」と切り捨てて来ただろうか?主よ、あなたのために「無駄」と思えることを喜んでできる愛を与えてください。そして、人のためにも、そのようにさせてください。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者よ。」(マタイ8:26)
日曜日に読んだところで心に留まっている。この言葉は本当にきつい言葉であるようにも思える。イエス様のところに助けを求めただけいいじゃないかと思う。でも、この言葉はまた大きな励ましであると思う。「大丈夫なんだ!」とイエスが今も言われている。イエスのところに助けを求める者たちに、主はこの言葉を語ってくださる。これは語りかけなのだ。恐れやすい私たちに対する語りかけなのだ。ああ、怖がらなくてもよいのですね。主よ。あなたを信頼していきます。

3月10日(日)
「雲が会見の幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。」(出エジプト40:36)
新しいところに進んでいくべき時に、雲がのぼる。雲がのぼる時に、そこに従っていけばよい。雲がのぼるまではそこにいていいのではないだろうか?いや、いていいのではなく、留まるべきなのだ。主の臨在がすべてだ。そして、自分の行くところに神様を引き回すのではなく、神様が導かれるところに進んでいくことなのだ。主よ、そうします。だから、あなたの雲がのぼるのを見分ける力を与えてください。そして、はっきりとした形で雲がのぼるのを見させてください。そこに従っていきます。聖霊よ、今日も教会で声をかけるべき方、ゆっくりお話しすべき方を教えてください。主が私をリードしてください。

3月9日(土)
「聖所のもろもろの工作に用いたすべての金、すなわちささげ物なる金は・・・。」(出エジプト38:24)
聖所の金はすべてがささげ物だったという、いや、すべての材料がささげ物だった。ささげ物で造られた贖罪所。ささげ物が主のために役に立つ。主が用いてくださる。端から見ると「贅沢じゃないの?」という感じかもしれない。でも、それはささげ物だったのだ、喜んでささげるささげ物だったのだ、だから、主が用いてくださるのは、ささげた者たちにとっての喜びだったのだ。このような喜びを経験していきたいと思う。

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」(マタイ7:15)
偽預言者を警戒せよ、と神様からの警告だ。今まで、こういう問題には甘かったかもしれない。けれども、これを見分ける責任は特に牧師にあることを忘れてはいけないと思った。もちろん、牧師も間違うことはある。謙虚でなければいけないと思う。でも、それを言い訳にして、偽預言者が入ってくることの責任逃れをしてはいけないし、それが入ってくることがないように、いつもいつも警戒していなければいけない。主よ、教えてください。そのようなことがあった時に、鋭く見抜く力を与えてください。霊を見分ける力を与えてください。主よ、助けてください。

3月8日(金)
「あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。」(出エジプト35:5)
自分の物の中から・・・。この言葉が今日は心に刺さった。子供の頃から、十分の一を主にささげる物として取っておく習慣で、最初から計算に入れない習慣が身に付いていた。小遣いは必ず九の倍数のような気がしていた。三百円だったら、そのうち三十円は献金だから、結局二百七十円。二百七十円が小遣いのような気分だった。それはそれでありがたい習慣なのだが、そう考えることで逆に痛みがなくなってしまったかもしれない。最初から分けておくことで、自分の持ち物のうちからささげるのだ、という思いがなくなってしまっている。最初から「あきらめる」ことで自分を守っているのかもしれない。それは信仰とは違う。神様がすべての必要を満たしてくださることを信じて、思い切ってささげていく、痛みを伴うささげ物を喜んでしていく、そのような思いでささげたい。自分の大切にしている物をささげる、そういうささげ物ができますように。

「あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:21)
自分の宝は何だろうか?宝を主にささげよう。そうすれば、天国に行くのが楽しみになる。いつも天国のことで心がいっぱいになる。そうすればこちら側の生活も楽しくなる。天国に宝をささげよう。自分の宝は何だろう?神様があのアブラハムにイサクをささげなさいと言われたように、神様よりも大事な物ができてしまうと、神様が見えなくなる。家族、友人、教会の仲間・・・。主よ、あなたにささげます。あなたの御手に委ねます。主よ、あなたがお一人お一人を導いてください。あなたが養って、生かしてください。御言葉をお与えください。

3月7日(木)
「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。」(出エジプト33:11)「モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。」(同34:29)
これはものすごい言葉だ。主と語り合ったゆえに、顔の皮が光を放つなど。ああ、これが欲しい。主と語り合ったゆえに満たされていく生活。祈ったゆえに、聖書を読んで祈ったゆえに、顔が輝くような日々。主よ、あなたとの時をさらに深くしてください。さらに深みへと導いてください。祈る喜び、聖書から御言葉を語られて、動かされて、新しくされて、輝きを与えられて、そんな歩みを歩ませていただきたいと思う。主よ、あなたを愛しています。主よ、感謝します。あなたのきょうの招きを感謝します。時間を取っていただいてありがとうございます。そう、自分が神様のために時を取っているような気がしていたけれども、本当は主の方が時を取って待っていてくださるんだ。ああ、傲慢だった。馬鹿だった。こんなことに気がつかなかったなんて。主よ、あなたと歩む一日としてください。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対して、偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたはさいわいである。」(マタイ5:11)
自分はいったい、神様のために、イエス様のために、このような目にあったことがあるだろうか?イエス様のために、こんな苦しい目にあったことがあるだろうか?誤解されたり、迫害されたり、偽りを言われたり、そんなことがあっただろうか?それも「イエス様のために」・・・。それは神様が守ってくださるからなのだろうか、それともイエス様のことをもっともっと伝えていないからだろうか?主よ、伝えるチャンスを与えてください。伝えるべき人を示してください。いつもいつも「今がその時だ」と語ってください。教えてください。その結果に一喜一憂しないで、大胆に語らせてください。主が御業をなしてくださるのを信頼していくことができますように。

3月6日(水)
「しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください。」(出エジプト32:32)
破れ口に立つモーセ。こんなしょうもない民のために、自分の永遠の命をかけて神の前に立つなんて・・・。ただの罪ではない、ちょっとした罪ではない、自分が神の前に立って断食し祈っている時に、偶像礼拝をしているような民のためにモーセは神の前に立った。そして、自分の永遠の命を差し出した。そして、彼らの赦しを乞うた。自分は何もしていないのに・・・。このような愛を、このような情熱を、もって牧会していきたい。今、自分がその破れ口に立つべき人は誰であろうか?主よ、そこに立たせてください。そこに立って歩ませてください。そこに立っていきますから、そこがどこであるか教えてください。

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」(マタイ4:4)
神の言葉によって生きる!本当にそうだ。だから、神様からいつもいつも御言葉を聞いていないと生きていくことはできない。本当に命にあふれていくことができない。主よ、今年一年、養ってください。あなたの言葉によって養ってください。主よ、わたしの心もあなたの命が必要です。あなたの満たしが必要です。主が与えてください。主が満たしてください。主があふれてください。あなたを待ち望みます。あなたがわたしの喜びであってください。あなたがわたしの力の源です。主よ、わたしの生活を支配してください。明け渡します。お委ねします。

3月5日(火)
「またこの割合をもって、これと等しいものを造ってはならない。これは聖なるものであるから、あなたがたにとっても聖なる物でなければならない。」(出エジプト30:32)
「聖なる物」に対する考え方の厳しさが聖書の中では何回も説かれる。神様のための特別な物、ほかの物とは取り分けられた、区別された物。それが他のことに用いられることは許されない。どうして教会堂で卓球大会をしてはいけないのか、どうして、教会の高壇には気軽に上ってはいけないのか、疑問に思っていたことがあった。日曜日以外にあまり使わないスペースを取っておくのは、効率が悪いのではないか、なんて考えたこともある。でも、「聖堂」・・・神様への礼拝のためだけに用いられる会堂。多目的ホールではない。「聖日」・・・神様への礼拝のために取り分けられた日。祈りの時も、献金もそうなのだ。主ために「無駄」と思えるようなことをする。時間も、お金も、効率を第一にしていくのではなく、私たちのために「無駄」と思えるようなことをしてくださった神様のためだけに用いる物を持っている。それが大切なことなのではないだろうか?

「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)
「聖霊と火によるバプテスマ」。今、これが私たちに必要だ。神様によって裁かれ、清められ、燃やされていくようなバプテスマが必要だ。主よ、これを与えてください。生ぬるい状況の中にいる自分を、教会を清め、さばき、燃やしてください。本当に主のために狂ったように従っていく、御業を見ていく、そのような者にしてください。「罪」がはっきりと「罪」として示され、悔い改めさせられ、清め尽くされる、そのような御業を見させてください。

3月4日(月)
「こうしてアロンは主の前に常にイスラエルの子らのさばきを、その胸に置かなければならない。」(出エジプト28:30)
この「さばきの胸当て」について考えさせられる。祭司たちに与えられた責任というだろう。彼らに対する神様の御思いを知る立場にあり、そこでその御思いをしっかりと受け止め、彼らに伝え、また取りなしをすることではないだろうか?旧約聖書の祭司はイエス様において完全な姿が成就されるのだが、また私たち一人一人が祭司として、神様の前に立ち、私たちの周りの人々に語るべきことを語り、また彼らのために取りなすことを期待されている。主よ、あなたは今日も待っておられる。わたしが祈り、あなたにとりなすことを、周りの人々に対してとりなしの祈りを捧げることを待っておられる。主よ、祈らせてください。

「行って、その幼子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ、わたしも拝みに行くから。」(マタイ2:8)
これは腹黒いヘロデ王様の言葉だと思っていた。まさに「自分には関係がない」「こんなこと言って、腹の中では殺そうとしたんだ」と思っていた。ヘロデ王を見下していた。ヘロデ王を軽蔑していた。でも、今日、初めて、「これはまた自分の姿ではないだろうか」と思わされた。「わたしも拝みに行くから」「わたしもイエスを王とするから」と口で言いながら、結局のところ、自分の「王座」をイエスに明け渡すつもりなどない、この王様の姿はまさに自分の姿ではないだろうかと・・・。聖霊よ、わたしの姿を照らしてくださったことを感謝します。主よ、あなたを王とすることの意味を教えてください。本当にあなたの前にひれ伏し、拝させてください。

3月3日(日)
「すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。」(出エジプト25:2)
教会の会計を祝福してください、と祈る。でも、「心から喜んでする者から・・・受け取りなさい」ということはほんとうに大切な原則だと思う。お断りすることは大変なことだ。これはどう考えても受け取るべきではない、という物であっても、なかなかそこではっきりとお断りすることはとても難しいことだと思う。また、自分自身の弱さで、何でもいいから収入があればうれしい、ということもあるかもしれない。でも、これは本当に大切なことだと思う。心から喜んでささげる物を受け取ることの大切さ、そして、そのようなお勧めをすることの大切さ、そして、そうではないささげ物をお断りする態度の大切さを思わされる。主よ、今日、大切なことを教えてくださってありがとうございます。

「ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。」(マタイ1:24)
眠りからさめたときに、御言葉が語られたときにヨセフはすぐに行動を起こした。これだ。自分自身に欠けているもの。主が語られたら、すぐにそれに従って行動すること。何と行動力がないのだろうかと思う。主が語られたのだから、それに従えばいいのに、周りの人々の同意が欲しくて、周りの人々の理解が欲しくて、時間ばっかり使って、結局タイミングを逃してしまったりする。恐れているのか?人の顔色を恐れているのか?神様を恐れる者としてください。主を恐れ、主の語られることに従っていく者としてください。

3月2日(土)
「神はイスラエルの指導者たちを手にかけられなかったので・・・」(出エジプト24:11)
今年はこういう言葉が心に留まる。私たちは本当は神様の前に立てるような存在ではないんだ、ということ。何か、「神様が愛だ」ということが軽くなってしまって、薄っぺらになってしまって、本当の神様の愛を知らないでいるような気がする。ただ神様の憐れみによって、イエスの十字架によって神様の前に立つことができるということ、その幸いを思わされる。言葉だけではなく、言葉だけではなく、主よ、あなたの前に立つことの特権を味わうことができますように。

3月1日(金)
「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである。」(出エジプト20:20)
2月28日のところにも書いたが、私たちは神様の御前にある恐れを忘れてはならないと思う。神様が何でも「いいよ、いいよ」と赦すことのできるお方ではないことを忘れないでいたいと思う。どんな大きな罪も、どんな小さな罪もイエス様の十字架でしか赦されないことを忘れないでいたいと思う。そこまで私たちの罪は深刻で、そこまで神様は聖いお方であることを忘れないでいたいと思う。そして、そのことを単に頭で忘れないようにがんばるのではなく、経験の中で知っていきたいと思う。主よ、あなたがあなたの聖さを教えてください。