6月30日(日)
「祭司たちは雲のゆえに立って勤めをすることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」「主の栄光が主の宮に満ちたので、祭司たちは主の宮に、入ることができなかった。」(歴代志下5:14,7:2)
主の栄光があふれる時に、わたしたちは「ああすごい」と感激するだろうが、それと共に、ここを見ると、「奉仕ができなくなってしまう」くらいだという。自分が神様に仕えるとか、そんなこともできなくなってしまうほど、神様の栄光があふれる、ということは圧倒されることだという。主の栄光。本当にそれに圧倒されて歩んでいくそのような礼拝をささげよう。「今日の賛美は良かった」とか結局自分たちの姿勢に目が向くのではなくて、神様のすばらしさにわたしたちが圧倒されるような礼拝を経験したい。主よ、あなたの働き、それを拝する者としてください。

6月29日(土)
「達人ヒラム」(歴代志下4:16)
こういうところでは、本当に小さな言葉が心に留まる。神殿を造った人は、「達人」だった。神様の神殿だから、最高のものをおささげしようという態度がここにもあらわれていると思う。「達人」とはよく聞く言葉だけれども、それを、一生懸命訓練を受けて手にした技術を、そして、天性の技術を神様のために使う。神様のお役に立てるために使う。それが大切なことだと思う。素朴な「神様のためにこの技術を・・・」それが教会を支えると思う。実際、今もそれが教会を支えていると思う。本当に素朴な「神様に仕えよう」という姿勢が・・・。主よ、感謝します。このような「達人」教会に備え、それぞれの分野で用いてくださっていることに感謝します。

「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない。」(使徒行伝14:22)
平和すぎる、というよりは、「平和だ!と思いこみすぎている」ということか。この時代のクリスチャンたちの姿。福音を語るだけで迫害を受け、悪意を抱かれ、石で撃ち殺されそうになるなんて・・・。何かのほほんと過ごしてしまっている自分。危機感を持たなければいけないと思う。危機感を忘れないでいなければならないと思う。明日もわからぬ身であることを忘れないででいたいと思う。一日一日が神様から与えられた大切な日であり、二度と来ない、大切な日であることをわすれないでいたいと思う。今日でなければ手遅れになることもあるのだ、ということも覚えていたいと思う。

6月28日(金)
「すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。」(歴代志上29:14)
神様にささげる物は、神様から与えられた物。何も誇るべきものはない。誇る者は主を誇れ!前日のヘロデ王の記事で思わされたことと同じことをもう一度思わされた。主が与えてくださったものを主にささげているのだから、お返ししているのだから、それをささげることは本当に感謝すべきことであって、誇ったり、それが心に「功績」として残ったりしてはならないことなのだ。時間だってそう。主に時間をささげるのも、主が与えてくださった時間、管理を任せてくださった時間。その中で、「主がお入り用なのです」という時間を神様にささげていくこと。元々「自分の時間」なんて無いのだ。神様の方が「休みなさい」と時間を与えてくださっているのだ。

「あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまった。」(使徒行伝13:46)
神様の招きを退けることの怖さ、悲惨さを見させられる。そして、自分を自分で追い込んで、「永遠の命にふさわしくない者」にしてしまう。神様から提示されたオファーを喜んで受けることが大切なのだ。そこには日本的な遠慮や、自分が納得しない、という頑固な思いもあってはならない。神様の差し出されるプレゼント。神様の招きを、素直に受け取る、この素直さ。大人になって人の心の裏を見せられたりしてくる中で素直に甘えることがだんだん難しくなって、それで、それがまた神様に対してもそんな気持ちになってしまったり・・・。本当に心から神様の与えてくださるものを感謝して、受け取る者となりたい。主よ、プライドを砕き、人を恐れる恐れを取り除き、あなたの胸に飛び込ませてください。

6月27日(木)
「彼らおよび主に歌うことのために訓練され、すべて熟練した兄弟たちの数は288人であった。」(歴代志上25:7)
この主の宮での奉仕者のプロ意識。それも288人!ものすごいコーラスだっただろうなあと思う。賛美は心が大切なのは当然だ。でも、だからこそ、このような熟練した熱心に準備され、訓練を受けた者たちが備えられていた。音楽もそう、そして、何よりも説教がそうだ。本当に神様のメッセージを伝えることだからこそ、準備と熟練と、訓練が大切なのだと思う。主よ、十分な準備をして礼拝に臨めますように。十分に備えて、あなたに語られたこと、確信を持って語ることができるように力を与えてください。

「その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。」(使徒行伝12:12)
人々は祈っていた。ペテロの救いを祈っていた。しかし、ペテロが御使によって解放され、そこにやってきたら、「そんな馬鹿なことがあるはずがない」と反応した。彼らはおそらく、正規の手続きで解放されることを期待していたのだろう。祈っても、その通りには聞かれないかもしれない・・・ということは覚悟していたのだろう。ステパノも殉教した。ヤコブも殉教した。覚悟の中での祈りだったのではないだろうか?でも、神様は彼らの祈りを超えて、期待を超えて、応えてくださった。神様の不思議をもっともっと見ていきたい。主よ、見せてください。

「神に栄光を帰することをしなかったからである。」(使徒行伝12:23)
神に栄光を帰さなかったヘロデはそこで神に打たれた。王が、大きな権力を持った王が、虫に殺された。神の厳しさを思わされる。今の日本も、アメリカも、わたしたち多くの者たちが、神に撃たれるべき者であることを思わされる。厳粛な思いにされる。そして、福音を語ることの大切さ、罪を指摘することの大切さ、十字架を指し示すことの大切さを思わされる。

6月26日(水)
「心を強くし、勇め。恐れてはならない、おののいてはならない。」(歴代志上22:13)
ソロモンは、やはりおののかないではいられないような状況に置かれていたのだと思う。おののかないではいられないような状況の中で、この言葉が意味を持って迫ってきたのだと思う。この言葉が心に留まった。自分の心にも恐れがあるのだろうか?自分の心にもおののきがあるのだろうか?ここでは、ソロモン王が神殿を建てるために父ダビデが励ましている。やはり、前に進んでいこうとする時に、恐れがおそってくることがある。現状維持だったら、恐れなくて良かっただろう。主よ、恐れを超えて、あなたの導きに従わせてください。

「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔い改めをお与えになったのだ。」(使徒行伝11:18)
異邦人に対するユダヤ人クリスチャンの考えはこんなだったのか、とも思わされる。イエスは「地の果てまでわたしの証人になる」と言われたのに、なかなか彼らはこの壁を破ることができなかった。それで神様は最後の手段のように、こんなにも大きな御業をなして、壁を打ち破られたのだ。主よ、今、わたしたちに、教会に、わたし自身に、このような壁の打ち破られる奇跡が必要です。あなたが働いてください。あなたの御業を見させてください。

6月25日(火)
「費えなしに燔祭をささげることをいたしません。」(歴代志上21:24)
この言葉は本当に大切なことだと思う。神様にささげるものは、「痛みを伴う」ものであることを思わされる。いつかも書いたが、「最初から神様のもの」というつもりでいるのは、それはそれで正しい姿勢だが、「痛み」を感じない。「当たり前のことをしたにすぎない」から。でも、特別にささげるものは、痛みを感じる。それが本当なんだろうと思う。痛みを伴うささげもの・・・。その恵みを経験させてください。そのようなチャンスを与えてください。そして、そこで本当に神様を信頼することを教えてください。そう、たぶん、これがあるから大丈夫だ、というような貯金や財産を「ささげなさい」と言われる時に、痛みを伴うのだろうと思う。でも、やっぱりそれは怖い。主よ、お助けください。あなたへの信仰をお与えください。

「今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです。」(使徒行伝10:33)
この態度、御言葉に対するこの態度が大切だと思う。主が語られることを、残らず聞こうと言う姿勢。日曜日の礼拝でも語られたが、「聞く耳を持つ」ということは本当に大切なことだと思う。礼拝で久しぶりに会衆の一人として説教を聞く側に回ったけれども、この「聞く」姿勢がどれほどポイントかということを思わされた。神様が語ろうとされることを渇きを持って聞く、求めて聞く、何も聞き逃さないぞ、という態度で聞く。主よ、どうかお語りください。

6月24日(月)
「主にむかって歌え、主をほめ歌え。」(歴代志上16:9)
教会では歌を歌う。本当に他のところでは歌わないくらい歌う。カラオケボックスでお酒でも入らなければ歌わないのが、普通なのだろうが、教会では本当にたくさんの歌を歌う。時々、それがどうしてだろうか?と思う時もあるし、人によってはこの歌を歌うっていうのがつまずきになっているかもしれない、と思う。でも、この歌を歌う、神様を賛美するのは、ダビデ王様の時代からのことだったのだとわかる。大の大人が、それも戦士たちが大きな声で歌い、踊って神様を賛美した。人がどう思うかではない、神様に歌いたい、その気持ちからあふれてくる歌、それが尊いものだと思う。今度の日曜日の賛美のためにも、今から備えていよう。

「さあ、行きなさい。」(使徒行伝9:15)
サウロを恐れて神の命令にためらっていたアナニヤに対して、神は「さあ、行きなさい」と言われた。これは、自分に対する神様からの命令のように思う。恐れて、二の足を踏んでいることに対しても、「さあ、行きなさい」と言われているように思う。「さあ、行きなさい」と言われた神様は、アナニヤの知っていることを超えて、すでにサウロに働いておられた。神様は何もなさらない方ではない。神様が「行きなさい」と言う時に、問題の解決を私達に「自分でしっかりやれ」とは言われない。神様の方が準備してくださっていて、神様の方が備えていてくださっていて、それで、「行きなさい」と言われる。神様に従っていこう。

6月23日(日)
「ダビデが再び神に問うたので・・・」(歴代志上14:14)
一度勝利した後、ダビデは、次の戦いでも、神に問うた。「前回勝っているから、次も・・・」なんてことを考えずに、神に問うた時に、神は違う方法を示された。今、キリスト教会の中では、「あっちの教会でもうまくいったから」「こっちの教会はこんな方法で成長している」ということの花盛りで、神に問うているかどうかわからないことが多い。「あちらで成功したから・・・」「前回これがうまくいったから・・・」というのは落とし穴以外の何ものでもない。JOYJOYキャンプも、「今までのように」なんて思いは捨てた方がいい。神様が祝福してくださるように祈っていかなければいけない。主よ、あなたの御業を見させてください。あなたの力を見させてください。主よ、あなたの救いを行ってください。期待します。祈ります。求めます。主よ、あなたの方法を教えてください。

6月22日(土)
「主に問うことをしなかった。」(歴代志上10:14)
サウルの決定的な罪を、この歴代志の記者は「彼が主に問うことをしなかったからだ」と見る。そして、聖書は神の言葉だから、それは神様の思いでもある。何と私達が犯しやすい罪だろうか?他のところに導きを求め、神様に対して問うことをしない罪。それがサウルの一生を決定づけるような大きな罪だ、という。本当に私達は注意しなければならない。もちろん、これは目立たないかもしれないし、大体社会的には責任を取らされることは無いだろう。「おまえは神に問わなかっただろう!」なんて・・・。でも、それが神様の目には、その人生が決まってしまうような大きな罪なのだ。自分もいつも神に問いながら、神に尋ねながら歩んでいこう。祈りの時の大切さを今日も思わされる。

「おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。」(使徒行伝8:23)
金で神の賜物を手にしようとしたシモン。ただ自分が人々にちやほやされるために不思議な力を手にしようとしたシモン。彼には「苦い胆汁」「不義のなわ目」があった。クリスチャンの歩みの中で大切なことだと思う。いつもいつもきよめを求め、神様の栄光を求め、神様がほめたたえられる、神様のすばらしさがたたえられることを求めていくこと、それが私達の生涯の中で本当に大切なものだと思う。苦い胆汁を警戒し、不義の縄目を警戒しよう。それに支配されないようにしよう。主よ、助けてください。聖霊様の支配によって、心から、傲慢や、自分がほめられたいという思い、注目されたいという思いを追い出し、焼き尽くしてください。

6月21日(金)
「彼らは日夜自分の務めに従ったからである。」(歴代志上9:33)
いろいろな務めがここには記されているなあ、と思っていた。門を守る者、器を管理する者、せんべいを造る者、パンを管理する者・・・。そして、まとめるように、「彼らは他の務めはしなかった、自分の務めに従ったから・・・」と締めくくられている。自分の務めに徹する、その態度、その集中力、その忠実さ、それが今の自分にも必要なものだと思う。いろいろなことに手を出して、忙しくなってしまうのではなく、自分の与えられた務めに忠実であること、日夜それに励むこと・・・。昨日読んだように、「御言葉と祈りのご用」に集中すること。主よ、そうします。

「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える。」(使徒行伝7:55)
私達がこの世を去る時に、イエス様が立ち上がって迎えてくださる。そのことを思うと、そのときは、また楽しみでもある。何が起こるかわからないから、この世に共にいる人々と別れるから、死はつらい。でも、それがまたイエス様と共にいることであるなら、イエス様が迎えてくださることなら、それもまた受け入れられるのではないだろうか?もちろん、本当の意味でわかるのは、自分がそれを経験する時であろう。でも、今日、本当にもう少し、楽しみになった。神様、感謝します。

6月20日(木)
「ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、『どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみを受けさせられないように。』神は彼の求めるところをゆるされた。」(歴代志上4:10)
最近注目されているヤベヅの祈りだ。でも、この祈りの内容よりも、ヤベヅが「苦しんで生まれたから」ヤベヅという名前になったことに今日は心が留まった。苦しみの中に生まれ、「苦しみの子」の名前を与えられ、その中で、神様に叫んだ彼の姿を思わされた。神様に対する図々しさ、神様の恵みに対する貪欲さは、やはり彼自身の渇きの産物だったのだ。求めていこう。もっともっと求めていこう。神様の祝福を求めていこう。特に多くの人々が神様を信じるように求めていこう。そう、自分が結婚する時に神様が与えてくださった言葉がそうだった。「主の御手が彼らの上にあったため、信じて主に帰依する者の数が多かった。」(使徒行伝11:21)主よ、今約束を果たしてください。

「わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当たることにしよう。」(使徒行伝6:4)
そうだ、自分の本来のつとめは、もっぱら携わるべきつとめは、「祈りと御言葉のご用」だ。ここがおろそかになっては本末転倒だ。ここに集中するようにしよう。ここに心をかけるようにしよう。ここに時間をかけるようにしよう。主がわたしを選んで与えてくださった仕事なのだから・・・。人の期待ではなく、神様の使命に生きていく者とされたい。主よ、わたしを助けてください。あなたの使命に生きていきたいです。主がなすべきことを日ごとに教えてくださいますように。

6月19日(水)
「アダム、セツ、エノス・・・」(歴代志上1:1)
名前の羅列ばかりのこの歴代志上の初めの方。でも、この名前の背後にいくつのドラマがあるであろうか?アダム、という一つの名前の中にも、エバとの出会い、罪の始まり、そして、本来ならここに並ぶべきであるカインとアベル、その二人の悲劇、セツの誕生・・・。でも、聖書は淡々と、アダム、セツ、エノス・・・と名前を並べていく。アダムの物語は私達は知っている。でもセツの生涯に生まれたドラマ、エノスの生涯の中で演じられたドラマ・・・。私達は何も知らないが、本当に多くのドラマがそこにあったであろう。そのことを忘れないで、一章一章読んでいきたい。そして、私が人と出会う時も、「名前」「人数」という外側のことにとらわれるのではない。その人自身の中のドラマに目をとめていきたいと思う。出会いを経験させて頂きたいと思う。主よ、出会いを与えてください。心がふれあうような経験をさせてください。

「あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ。」(使徒行伝5:4)
神を欺くことへの怖れ、それを忘れてはならないと思う。人がどう思うかばかりを気にして、神がどのように見ておられるか、を忘れてしまうことはないだろうか?本当に怖れるべき方を怖れているだろうか?神様の御前にあることをいつも覚えながら、神様が喜ばれることを求めていこう。今日を助けてください。神様、あなたの御前に歩むことができますように。

6月18日(火)
「主はついに彼らをみ前から払いすてられた。」(列王紀下24:19)
これは本当にすごい怖い言葉だ。神様に捨てられる・・・だなんて。でも、これもまた神様の招きなんだろう。悔い改めて、帰ってくるための招きなんだろう。70年間の捕囚の生活で、彼らが神様について、罪の結果について学ぶことが必要だったのであるし、私達への教訓でもある。主よ、罪の結果を軽々しく思わないように主が助けてください。罪の結果の恐ろしさを忘れることがないようにしてください。「またどうせ神様が赦してくださるよ」なんて感じることがないように。私達の罪のために神のひとりごが十字架にかかられたことを忘れることがないように。

「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせてください。」(使徒行伝4:29)
脅迫があったからといってひるむのではなく、いよいよ大胆に語らせてください、とそのように言えるとは何という勇気だろうか?自分だったら、このような状況の中で、どうしても守りの姿勢に入ってしまったり、トラブルを起こさないことばかり考えてしまいそうだ。でも、このようなことが信仰の先達たちによってなされてきたことは大きな励ましだ。主がわたしにも同じ勇気を与え、どうか主がわたしにも大胆に語らせてくださいますように。主よ、恐れから解放してくださって、思い切って福音を語らせてください。

6月17日(月)
「ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起こらなかった。」(列王紀下23:25)
心をつくして神様に従うということはこのように徹底的なことなのだということを感じさせられた。自分が神様に従っていく時に、何か妥協があり、中途半端なところがあり、バランスという言葉でごまかしてしまうことはないだろうか?本当に一本筋の通った神様への服従、神様への信頼、そのようなものを持たせて頂きたいと思った。そして、それは単に気持ちの問題ではなく、行動の問題でもあることを感じさせられる。気持ちだけではなく、ヨシヤ王のように、それを行動に移して行ってこそ、神様への服従といえるのではないだろうか?主よ、御言葉を聞くだけではなく、そして、このように感じたことを文章に書くだけではなく、御言葉を行う者としてください。

「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒行伝3:6)
いつ読んでもチャレンジを与えられる。「わたしにあるもの」と言えるだろうか?「主イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言えるだろうか?やっぱり神様とのパイプだろう。神様といつもしっかりつながっていて、いつも神様の声を聞いている時に、言えることではないだろうか?主よ、わたしもこのペテロのように言わせてください。主イエスの名によって歩きなさい、と言える者としてください。「わたしにあるものはこれだ、イエス様だ!」といつも言わせてください。

6月16日(日)
「せめて自分が世にいるあいだ、平和と安全があれば良いことではないか。」(列王紀下20:19)
このヒゼキヤの言葉は残念な言葉だ。神様に命を15年さらに与えてもらったのに、自分の世を去った後の民のことはどうでもいいかのような態度だ。彼の息子のマナセはユダ王国の歴史の中で最悪の王となってしまった。彼が自分のことばかりではなく、民のことも考え、自分の後の時代のことも考えていれば・・・と思う。でも、自分はどうだろうか、と反省させられる。自分のことだけを考えているのではないだろうか?自分の後のこと、自分の周りのこと、信仰継承のことを本気で考えているだろうか?あと10年経てば、自分の子供たちが信仰を継承して立ち上がっていく時となる。そのために本気で考え、ビジョンを持って歩んでいるだろうか?主よ、信仰継承のために道を示してください。

6月15日(土)
「ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、そしてヒゼキヤは主の前に祈って言った。」(列王紀下19:14)
これだよな。問題が起こった時に、非難中傷を受けた時に、脅迫を受けた時に、まず神の前に出て、祈ること。あたふたして、人々に相談して、いろいろ思い煩って・・・というのではなく、まず神の前に出て、神に向かって祈り、助けを求めること、その大切さを思わされる。主の前に出よう。主から解決をいただこう。このような習慣を持とう。私自身も、また教会のひとりひとりも、そして教会全体も・・・。主の前に持っていこう。主よ、お助けください。今私自身が直面している思い煩いも取り去ってください。あなたのもとに問題を持っていきます。主の奇跡をなしてください。

「そして主は、救われる者を日々仲間に加えてくださったのである。」(使徒行伝2:47)
日々、救われる者が仲間にされていく・・・。日々救われる者が起こされていく、そういう奇跡を起こしてください。そして、そんなに急激に新しい方々が加えられていっても教会が混乱しないで守られていく、そういう奇跡を見せてください。救われる者たちを日々に加えてください。今年、救われる方々が次々と起こされていることを感謝します。主よ、もっともっと救われる方々を起こしてください、与えてください。この地域には何千、何万という方々が住んでおられるはずです。主がその方々を送ってください。

6月14日(金)
「アッスリヤの王のために主の宮から除いた。」(列王紀下16:18)
アッスリヤの王に助けてもらって、そして、アッスリヤの神殿から祭壇をまねて、そして、最後には、エルサレムの神殿の中で、アッスリヤの王に気を遣って取り除くものがあったという。なんたることかと思う。でも、自分も似たようなことをしていないだろうかと思わされた。世の中の論理に振り回されて、人の顔色を気にして、そんなことが自分の中に全くないか、というならば、あるのではないかと思う。本当にいつも第一とすべきものを第一としているだろうか?神様を第一として、自分の身を守ったり、人の考えに振り回されたりしないで、神様を信頼して歩んでいきたいと思う。主よ、助けてください。あなたを第一とする、ということの意味をもっともっと具体的に知ることができますように。

「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・」(使徒行伝1:8)
「力を受ける」聖霊様によって力を受ける。主よ、今、力をお与えください。大胆にイエス様のことを語る力を。そして、人を励ます力を。そして、出て行く力を。人の反応に左右されない力を。喜びを満たしてください。あなたを頼り、あなたを求めます。「主よ、我が力はあなたにある」そうです。あなたのうちに私の力があります。どうか御霊様を送ってくださって、満たしてくださいますように。今晩の集会においても神様のすばらしい御業がなされますように。

6月13日(木)
「あなたは五度も六度も射るべきであった」(列王紀下13:19)
貪欲さ、神様の恵み、神様の力に対する貪欲さ、それが必要だ。三回くらいでいいや、というのが私達が共通に持っている思いだと思う。でも、神様の救いの矢!であるならば、何回でも、何回でも射ることが大切だ。本当に貪欲に、積極的に、主の恵みを求め、「これくらいでいい」なんて思わないで、求めて求めていこう。神様、もっと大きな御業を見させてください。たくさんの方々がイエス様を求め、そして、それだけではなくて、ひとりひとりが神様につながって成長していくようなそのような御業を見させてください。主よ。もっともっと。

「彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。」(ヨハネによる福音書21:9)
たき火と魚とパンを準備して弟子たちを迎えられたイエス様。イエス様の暖かさを感じる。イエスの方が朝ご飯を準備して、弟子たちを迎えてくださった。「さあ、朝の食事をしなさい」これは霊的な食事についても言えることなのではないだろうか?僕らががんばって、聖書を読んでお祈りをするというつもりになっているけれども、イエス様の方が、準備して待っておられる。岸に帰って行くだけでいいんだ。主よ、あなたのふるまいに感謝します。

6月12日(水)
「あなたの母イゼベルの姦淫と魔術とが、こんなに多いのに、どうして平安でありえましょうか。」(列王紀下9:22)
この言葉にどきっとした。自分はこの姦淫と占いの満ちあふれた世界の中で、何と「のほほん」と、平和に生きていることだろうか?何と危機感のない、何と現状肯定的な生き方だろうかと思った。もっと危機感を持って生きなければならないことを思わされる。パウロは言った、「私は今、また涙をもって語る。彼らの最後は滅びである」と。涙をもって、彼らの滅びを嘆いて、福音を語っていきたい。大胆に、熱く福音を語っていきたい。

「安かれ」(ヨハネによる福音書20:19)
ユダヤ人たちを恐れて戸を閉じてふるえていた弟子たちに対して、復活されたイエスが最初に言われた言葉が「安かれ」だった。今日の旧約の言葉と対照的だが、滅び行く魂に対して危機感をもって、でも、自分の身の危険に対しては、「平安」を与えられて行く、これは一つのことだと思う。自分の魂は、イエスを信じた瞬間から神の御手の中にある。だから平安だ、でも、サタンにとらわれている人々の魂のためにはものすごい危機感を感じて、涙を流して求めていきたい。で、どちらが今自分により必要であるかというなら、やはり滅び行く人々に対する情熱だ。今度の日曜日、大胆に、「一期一会」の気持ちでメッセージを語らせてください。

6月11日(火)
「『たとい主が天に窓を開かれても、そんな事があり得ましょうか。』エリシャは言った、『あなたは自分の目をもってそれを見るであろう。しかしそれを食べることはなかろう。』」(列王紀下7:2)
神の開かれる天の窓を馬鹿にしてはいけない。天の窓が開かれるときに、神様が必要なものをすべて満たしてくださる。すべて与えてくださる。馬鹿にしてはいけない。それは私達の想像を超えたものであって、普通では考えられないような、信じられないようなことなのである。でも、その約束は、親が子供を煮て食べるような極限状態の中で与えられた。戦いはあるだろう。困難はあるだろう。信じられなくなるようなところも通だろう。でも、その中で天の窓が開かれる、そのような経験をさせて頂きたいと本当に思う。主よ、経済的なことがあなたの御業をとどめるようなことがありませんように。この点に置いては本気で神様を信頼していくことができますように。

「わたしは、かわく」(ヨハネによる福音書19:28)
イエスは言われた。「わたしは、かわく」と。私達に渇くことのない水をくださる方が、私達のために、私達を救うために「私は渇く」と言ってくださった。そこまでの渇きを味わってくださった。私達を救うために。わたしたちの身代わりとなって、命の源である、父なる神との交わりを絶たれ、渇きを経験された。私達も神様との交わりを絶たれると渇いてしまう。イエス様がここまでして道を開いてくださったのだから、本気で、神様との交わりに生きていく者となりたい。主が満たしてくださる命にあふれて生きていこう。

6月10日(月)
「子供が『器はもうありません』と言ったので、油は止まった。」(列王紀下4:6)
器がなくなるときに、油も止まる。油のはいる器がないときには、油も与えられない。主よ、これは何という大切な事でしょうか?油が入る、油を受け止める器がなければ、油の注ぎは止まる。聖霊様もそうだ。聖霊様を受け入れる器があるときには、与えられるが、受け入れる器がなくなってしまったときには、それはもう与えられない。もう与え続けられない。主よ、聖霊様を与えてください。そして満たしてください。そして、教会のひとりひとりが求めて、与えられる備えができますように。ひとりひとりが求めていく事ができますように。主よ、お助けください。

「わたしの国はこの世のものではない。」(ヨハネによる福音書18:36)
イエスの国は、また私の国は、この世のものではない。アメリカよりも、日本よりも前に、神の国の者である。今、サッカーのワールドカップが盛り上がっているが、やっぱりものすごいナショナリズムを感じる。自分がどこの国にアイデンティティーを持っているか、ということを思わされる時だ。自分も日本を応援する気持ちは本当に強い。でも、こんな時だからこそ、「私達の国籍は天にある」と言う事を忘れないでいたい。もっともっと感じていたい。この世では旅人であり、寄留者である。旅人はたくさん荷物を抱え込んではいけない。

6月9日(日)
「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください。」(列王紀下2:9)
霊的には貪欲でありたい。もっともっと豊かに神様の恵みを知りたいし、神様の導きを知りたいし、神様の力を知りたいし、救われる方々が起こされる奇跡を見たいし、貪欲さ、貪欲さ、でも、本当にあのヤコブが一晩中神と格闘したように神様の前に出ているだろうか?今日のために主よ、あなたの前に出ます。本当に突き抜けた祈り抜いた確信と平安を持って一日をスタートできますように。主よ助けてください。

6月8日(土)
「預言者たちは一致して王に良い事を言いました。どうぞ、あなたも、彼らのひとりの言葉のようにして、良い事を言ってください。」(列王紀上22:13)
うわー、すごい言葉だなあ、と思う。みんな、王様の作戦に賛成しているから、あなたもそうしてください、と預言者が言われるなんて。本当に大きな誘惑だと思う。大きなプレッシャーだと思う。主の預言者は人々の喜ぶ事ではなく、神様のメッセージを語らなければならない。神様のメッセージを語らなければならない。そのためには、最近、本当によく思わされるが、神様のメッセージをしっかり聞いていかなければならない。祈りの生活が祝福され、確信を持って語る事ができるように。主よ、導いてください。大胆に、人の顔色を恐れるのではなく、神様が語れと言われる事をはっきりと語っていく事ができますように。

「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり・・・」(ヨハネによる福音書17:23)
昨日の集会では、一致するために必要なもの、助けになるもの、として、目標、リーダーシップ、などがあげられた。そして、ここでは、イエスが私達のうちにおられる事、イエス様が共にいてくださることが一致のための力だという。これは理屈では説明できない事なのであろう。理屈を越えた事なのであろう。聖霊様は一致の神様だ。悔い改めによる一致、福音伝道における一致、赦し合いによる一致・・・。神様、この一致を与えてください。今、私達の教会の中に主にある、神様による、イエス様の臨在による一致を与えてください。イエス様だけを見上げていく事ができますように。

6月7日(金)
「スリヤびとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろう。」(列王紀上20:28)
神様は全分野での神である。全分野での主である。ビジネスの分野でも、学問の分野でも、癒しの分野でも、すべての分野での主である。主は、心だけを支配しておられるのではない。だから、すべての分野で本気で神様を信頼していくことが大切だ。あの漁師たちが一晩働いて何もとれなかったときに、イエスが「沖へこぎ出して漁をしてみなさい」と言われたことを思い出す。神様はそうやって、すべての分野で神様を認めるようにと求めておられる。主よ、あなたの力を信頼します。わたしは多くの分野で素人です。でも、あなたはすべての分野を支配しておられる方です。あなたの導きを表してください。すべてのことについて、祈り、答えをいただいていくことができますように。

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16:33)
世に勝っておられるあなたに感謝します。本当に悩みがあります。この世ではこれでもか、ってほど、悩みがあります。でも、あなたはこの世に勝っておられます。勝利しておられます。だから、勇気が出ます。大丈夫だ、と。主よ、わたしをつかわしてください、必要とされるところへ遣わしてください。主よ、今日、連絡を取るべき方、主が教えてください。わたしに教えてください。またそれだけではなく、悶々としておられる方が、わたしに連絡を取る勇気が与えられますように、その方のうちにも働いてください。

6月6日(木)
「そして火をもって答える神を神としましょう。」(列王紀上18:24)
主よ、今火を求めます。今火が必要です。わたしにとっても、また教会にとっても、火を与えてください。火を注いでください。火をもって応えてください。そのためにエリヤがしたことは、壊れていた祭壇を繕ったこと、そしてささげものをささげたこと・・・。私達に必要なのも、いや、わたし自身に必要なのも、この二つのことだ。祭壇を繕い、神への祈りの場所を確立すること、そして、ささげものをささげること。神様のために自分の生活、自分の時間、自分のもてるものをささげていこう。そのときに、主が天から火をもって応えてくださる。そこに水がかけられようとも、大きな声で叫ばなくても、ただ主に祈り主に求め、主に期待していくときに、主は火を下してくださるだろう。主よ、火をもって応えてください。

「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人につながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネによる福音書15:5)
イエス様につながっている。それが私達の結実の生涯の条件だという。そう、命の通うようなつながり方をイエス様ご自身としていく・・・。本当に主が恐れるな、と語ってくださり、主が支えてくださり、主が導いてくださる道を歩んでいきたいと思う。主よ、わたしは飢え渇いています。聖霊様の注ぎを求めています。必要としています。主よ、今助けてください。あなたにつながっている、ということがこういうことなんだ、ということを深く深く教えてください。あなたから栄養が与えられ、実を結んでいく人生を与えてください。

6月5日(水)
「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。」(列王紀上17:13)
なんという図々しい言葉。今、最後の粉と油で最後の食事をしようとしていたこの女性に対して、「まず、わたしのために作ってください」なんて、普通言えるだろうか?言えないと思う。自分がこの立場だったらどうだろうかと思う。でも、もし、そうしなかったら、この親子は死ぬしかなかったのだ。エリヤの図々しい言葉、そして、その言葉に従ったこの女性の従順さが、この親子と、またエリヤを救った。神の言葉を語るときには図々しくなければいけないと思う。それが救いであるのだから。でも、そのためには、おとといも書いたように、神様からのメッセージをちゃんと聞いていなければいけない。神様からのメッセージをちゃんと聞いていれば、大胆に、遠慮せずに、はっきりと言えるはずだ。神様からのメッセージをしっかり聞いていく者となりたい。聞いて、語られたことを大胆に語る者となりたい。主よ、お語りください。

「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネによる福音書14:27)
イエスが去って行かれるというのに、弟子たちに、「心配するな」と言われるイエス。心配するなと言われても、やっぱり心配だっただろうなあ、と思う。でも、イエスは彼らに平安を遺して行かれた。その平安はこの世が与えるようなものとは違うという。神様以外のものが与えてくれる最高の平安・・・それは何だろう?親が子供に「大丈夫だよ」と言ってくれること?老後のための蓄え?仕事?人々の協力?そうだよな。でも、それらが与えてくれるようなものとはレベルの違うものだという。でも違わないと困るよなあ。この世の与えてくれる平安なんてたいしたことないから・・・。主よ、あなたの平安を与えてください。あなたの平安の中に生かしてください。そう、旧約で書いたように、神様が語ってくださること、神様が導いてくださる道、それは平安だと思う。力だと思う。主よ、感謝します。

6月4日(火)
「アサの心は一生の間、主に対して全く真実であった。」(列王紀上15:14)
これは何というほめ言葉なんだろうかと思う。一生の間、神に対して真実だった・・・。そう言われたいし、そのように生きたいと思う。「主に対して真実」いつも本気で、いつも神様に対して本音である、そういう歩みをしたいと思う。主よ、あなたに対して真剣であり続けることができますように。あなたに対していつも心を開いて歩んでいくことができますように。主よ、嘘のない歩みをさせてください。

「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(ヨハネによる福音書13:7)
「今はわからないが、あとでわかるようになる」そういうことはいかにたくさんあることだろうか?どれほどたくさんのことが、「今はわからないが、あとでわかる」ことだろうか?でも、私達は「今わかりたい」という思いがある。「どうして?」理解できないことがつらくて、納得できないことで前に進めなくて、神様に愚痴をこぼすことがある。でも、忘れないでいたい、「私のしていることはあとでわかるようになる」と主が言われることを・・・。主よ、ありがとうございます。今日、そのことを語ってくださったことに感謝します。

6月3日(月)
「これは彼がその人を欺いたのである。」(列王紀上13:18)
うーん、また困ってしまうような話だなあ。10節までは、とてもわかりやすい。ヤラベアムが神から使命を受けて、10部族を任されたのに、自分の権力のために宗教を造って、偶像礼拝を始めたことは神様が怒られたことで、それを預言者が語ったのは「そうだなあ」と思う。でも、その後、別の預言者が彼をだました。「神が私にこうしなさいと言われたのです」と言ってだました。それによって、彼は死んでしまうのだが、それをまただました預言者が嘆く。彼はいったいどんな意図でだましたのだろうか?もちろん、彼は死んでしまった預言者が「いや、神はこう言われたから・・・」と神から語られたことに忠実であることを願ったのだろうが・・・。神が試されたのであろうか?わからない。でも、はっきりと私に語られたのは、「神様が語ってくださったことは、ほかの誰かが、『私にはこう言った』と言っても、それに振り回されてはいけない」ということだ。そこにしっかりと確信を持って歩んでいくためには、しっかりと神様につながっていることだ。祈りと御言葉によってつながっていることだ。主よ、今日もあなたが共にいて支えてください、語ってください。確信を持って進んでいくことができますように。

「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネによる福音書12:25)
この、「命を愛する」「この世で自分の命を憎む」とはどういうことだろうか、と思った。自分の喜び、自分の楽しみだけを求めて、人を食い物にする生き方が「自分を愛する」ということなんだろうかと。このように否定的に遣われるときはそうなんだろうなあ、と思う。でも、「人の喜びが自分の喜びともなっていく」というのはどうなのだろうか?そこに「神様」も喜んでくださるのではないのだろうか?そこに神様がいてくださることを忘れて、いや神など必要ないとバベルの塔のように傲慢になってくるときに問題があるのだろうか?じゃあ、「自分の命を憎む」とはどういうことなのだろうか?自分を嫌うことではないだろう。自分を二の次にすることだろうか?自分の時間、自分の願い、自分のプライオリティーを神様のために投げ出すことだろうか?自分にとって本当に大きな課題だと思う。主よ、この「自分の命を愛する」「自分の命を憎む」と言うことの意味をもっともっと知ることができるようなそんな者としてください。必要な経験を与えてください。「ああ、こういうことなのか」とわかる者としてください。

6月2日(日)
「わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう。」(列王紀上9:3)
私達は一生懸命祈ったとき、大きな声で心から賛美をしたときに、そこに目を注いでくださるような気がしていた。一生懸命声を上げなければ、振り向いてくださらないような気がしていた。でも、神様は、常に目を注いでいてくださる。「宝のあるところに心もある」とイエスは言われたが、神様にとっては私達は宝なんだ。いつもいつも心にかけてくださっているんだ。うれしい。いつもいつも心にかけて、こっちの方に心を向けて、目を注いでおられる。感謝。ハレルヤ!今日の礼拝、本当に、神様、あなたの臨在を覚えさせてください。感じさせてください。あなたが私達の方に目を向けていてくださっていることを覚えることができますように。

6月1日(土)
「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。」(列王紀上8:27)
ソロモン王の神殿は7年もかけて建てた神殿だった。多くの労力を用いて、建てた神殿だった。しかし、その神殿の奉献の時に、ソロモンは、あなたはここには住むことはできません。この神殿はあなたをいれることはできません、と告白した。そうなんだ。この大きな神様のイメージ。神殿なんかに閉じこめられるお方ではない。私達はどうしても神様を小さく小さくしてしまいがちだ。自分の心の中に閉じこめたり、自分の身の回りだけに閉じこめたり。でも、神様はどんなに大きな神殿にも、いや、天にも閉じこめられているようなお方ではない。神様の大きさを忘れないようにしたい。生活のあらゆる側面ですべてを支配しておられる方だ!主よ、大きなあなたの御手の業を見させてください。もっともっとあなたの大きさがわたしにわかりますように。

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」(ヨハネによる福音書11:25)
ああ、大きな神様を見せてください、と祈ったとたんに開かれた聖書の箇所が、「死をも支配される、死にも勝利してくださったイエス」の姿だった。神様は私達の生き死ににおいても主であってくださって、生き死ににおいてもすべてを支配しておられる方なのだ。感謝。平安。また、自分が死に直面したときに、イエス様が支えてくださることを信じていこう。たじろぐかもしれないし、あわてるかもしれない。でも、そこにも主がいてくださり、主がそれをも支配しておられる。だから大丈夫だ。主よ、助けてください。あなたの大きさをもっと見せてください。でも、そこには、「もし信じるなら神の栄光を見る」ということが言われている。そうだ。神様の力を見るためには恐れないで、「石を取りのける」ことが必要なんだ。主よ、わたしにとって石とは何でしょうか?あなたを信じて参ります。