7月31日(水)
「われわれが彼について聞く所はいかにかすかなささやきであろう。」(ヨブ記26:14)
神様の大きさを軽く見てはいないだろうか?この世界を作られた神様であるのに、どこかで人間の頭の中に収めようとしていないだろうか?今日は神様の大きさに思いを馳せてみよう。地球上の大きな山や谷は、ちょうど卵の殻のざらざらと同じ程度だという話を聞いたことがある。地球を直径13センチのボールにすると、月は4メートル先。太陽は1.5キロ先の14メートルの玉だって言うんだからこれは大変なことだ。その小さな地球の上のでこぼこの上で、あーだ、こーだ、言っているかと思うと、なんて自分はちっぽけなことにとらわれているんだろうかと思う。そう、神様の大きさを考えれば考えるほど、自分の問題の小ささを思わされる。もっともっと神様の大きさを思おう。毎日、5分でいいから、神様の大きさに目を向けよう。他の23時間55分は自分の小さな問題に振り回されているんだから・・・。
「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」(ローマ人への手紙13:14)
肉の欲、を物欲も含めた欲望全体と考えると、この言葉がとても大切な戒めに思える。本当に自分に撮って必要なものなのか、それを祈り求める時は大切だと思う。必要なものはすべて神様が与えてくださる。その信仰を持って歩んでいきたい。だから、本当に必要なものはためらわず買う。しかし、本当に必要ではなく、それを手に入れることによって更に時間さえも奪われてしまうものは控える勇気が必要だ。単に欲を満たすことに振り回されているときには、それを手に入れたとたんに、興味を失ってしまうものだ。神様、時を大切にする者としてください。それから、あなたから管理を任された財を大切にする者としてください。
7月30日(火)
「わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、口をきわめて議論するであろう。わたしは、わたしに答えられるみ言葉を知り、わたしに言われる所を悟ろう。」(ヨブ記23:4−5)
神様に議論をする。神の前に訴えをする。それがわたしたちに許されている。そして、神様はそれに答えてくださる。神様がそれに答えを与えてくださる。そして、その答えが与えられたら、それで十分なのだ。だから、日々、神に問うていきたい。どうしてですか?どうしてですか?と。神様の答えを求めていきたい。それが自分が願うような、自分が期待していたような答えではないかもしれない。でも、神様の答えが与えられた時には、本当に感謝があふれてくる。それで十分になってしまう。主よ、今日も、あなたに問いかけながら歩みます。どうか答えをお与え下さい。いい加減な所で納得してしまうことがありませんように。
「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食べさせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。」(ローマ人への手紙12:20)
こんな馬鹿な、と思うかもしれないが、そういう所で神に従っていくのが信仰なんじゃないかと思う。聖書の言葉に徹底的に従っていく。それがわたしたちに与えられていることではないだろうか?主がこの事を示してくださった。だから、このように生きていきたいと思う。主よ、「馬鹿」のように御言葉を信じて行かせてください。「善をもって悪に勝つ」ということの本当の意味をわからせてください。経験を通してわかるようにしてください。あなたを待ち望みます。人の言葉に振り回されないで、あなたの御言葉に振り回される者としてください。
7月29日(月)
「われわれはこれに祈っても、なんの益があるか。」(ヨブ記21:15)
これはヨブが見た、「悪人が栄える中で語る言葉」だ。祈っても益がないなら、祈る必要はない、神に従う必要はない、と言うかのようだ。昨日の夜、何気なしにテレビを見ていて、キリストの名の下に、「繁栄」を与えるお守りをPRしている番組があった。反吐が出そうだった。「わたしが祈った水です」とか、「このブレスレットの緑色は神様の与えてくださる繁栄のシンボルです」だとか。でも、時々、自分でも、祈って、願ったとおりにならないと、簡単に「どうしてですか?」と「神様ひどい!」みたいな反応が出てくる時もある。本当は神様は僕らの思い通りに動いてくれる召使いではないのに、どこかでそれを期待している。サタンが神の前でヨブを非難した「この人にこんなに繁栄を与えているなら、あなたに従うのは当然です。それを奪ってご覧なさい、彼はあなたを非難しますよ」という言葉を思い出す。自分はそんなレベルなのかもしれない。主よ、あなたと共にいること、あなたとの太いパイプを喜びとして歩んでいく者としてください
「万物は・・・神に帰するのである。」(ローマ人への手紙11:36)
万物が神から出ている、というのはわかる。でも、万物が神に帰する、ということに新鮮さを覚えた。わたし自身の歩みもすべて神様に帰する。そう考えると、本当に自分の人生がちっぽけなものではなくなってくる。神様の大きな絵の中に組み込まれている歩みなんだ。だと思うと人生に対する希望も、人生の重さも、大きくなっていく。何か、今日は本当にそのことを新鮮に感じる。主よ、感謝します。わたしの人生があなたに帰していくことのすばらしさを感じさせてくださってありがとうございます。今日の一日もその一コマであることを覚えて歩めますように。
7月28日(日)
「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」(ヨブ記19:25)
四面楚歌というような状況の中で、ヨブは神が自分をあがなってくださると信じて立つことができた。四面楚歌、友人さえも自分を責めるような状況の中で、このようなことが言えるだろうかと思う。自分の場合、人々が正しいのではないか、自分は間違っているのではないか、と思ってしまうだろう。結局人に振り回され、人の目を気にしていないだろうか?神様に目を向ける者となりたい。神様がわたしをあがなってくださる。神様がわたしの味方なのだ。神様は今のわたしをどのように見ておられるか。そこに目を注いで行きたい。主がどう思われているか、人ではなく、神様がどう思っておられるか、そこに目を注ごう。「しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。」(19:27)
7月27日(土)
「わたしの祈りは清い。」(ヨブ記16:17)
このヨブの姿に、こんなに人々にいろいろいわれながら、「わたしの祈りは清い」と言いきれるヨブに、自分もこのようになりたいと思った。自分は「わたしの祈りは清い」と言えるだろうか?「わたしの祈りは自分勝手なこともあるけれども、神様が教えてくれる・・・」と言うだろう。でも、それは単なる逃げではないだろうか?本当の謙虚さではなく、まだまだ、祈り抜いていない、まだまだ自分の問題を「いつか解決してくださるだろう」と先送りしている結果ではないだろうか?神様、祈り抜く者としてください。わたしも「わたしの祈りは清い」と言える者としてください。
「見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。わたしの友はわたしをあざける、しかしわたしの目は神に向って涙を注ぐ。」(ヨブ記16:19−20)
人々にいろいろ言われる時、神様に目を向けること、神様が保証してくださること、それを知っていることは何という幸いだろうか?でも、実際、人に非難されることは本当につらい。その中で神様をしっかり見ていくことができればどんな力であろうか?どんな平安であろうか?主よ、お助け下さい。つらい時にこそ、誰か弁護したり、わかってくれる人を求める以上に、あなたを求めることができますように。主よ、あなたを避け所とさせてください。
「したがって、信仰は聞くことによるのであり・・・」(ローマ人への手紙10:17)
聞くことの大切さ、聖書から聞くことの大切さを思わされる。今日など、やはり明日の説教のために、何か「聖書から読み取ろう」という思いが先に立つ。でも、わたしたちが聖書を料理すべきなのではなく、聖書がわたしたちを料理する。聖書から聞く。聖書が語ってくださることに耳を傾ける。主よ、今日もお語り下さい。今日のわたしのためにお語り下さい。そして、教会のために、明日の説教のために、わたしにお語り下さい。聞きます。聞く心を忘れることがありませんように。
7月26日(金)
「しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。これこそわたしの救いとなる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ。」(ヨブ記13:15−16)
苦しみの中で、自分が何か悪いことをしたわけではないのに経験する苦しみの中で、ヨブは、それでもわたしは神の前に自分の道を守っていく、と告白した。そして、それが今の自分にとって、救いとなることだ、という。説明しがたいが、すごく納得がいく。苦しみの中でも、幸いの中でも、神様の前に歩んでいく、誠実に、真実に歩んでいく。そのような歩みがしたいと思う。幸いの中では「生ぬるく」なってしまい、苦しみの中では祈ることもできなくなってしまう。でも、苦しみの中でも幸いの中でも、「神の前に」歩んでいく。そのことが求められていると思う。主よ、わたしの心をお守り下さい。
「ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」(ローマ人への手紙9:16)
神のあわれみ、ということを今日は感じた。自分の今あるのは、神様のあわれみなんだと。本当に単純にそう思った。それで十分だった。感謝。
7月25日(木)
「わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし・・・」(ヨブ記10:1)
神に自分の嘆きを包まず言いあらわすこと・・・その特権が与えられているのは何という感謝すべきことであろうか?神が正しいことは知っている。でも、その中で神に訴え、聞いて頂き、答えを求めていくことができるとは何という幸いであろうか?主よ、今、私の心を開きます。主よ、あなたが私の問題を、私の叫びを聞き、あなたご自身が応えてください。あなたご自身が答えを下さい。人の答えではなく、自分で自分を納得させることではなく、神様ご自身の答えを私に語ってください。あのヨブに応えてくださったように、あなたが私に御言葉によって答えくださいますように。
「その他どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙8:39)
何事も神の愛からわたしたちを引き離すことができない・・・でも、日々の忙しさ、それは本当に危険だと思う。日々の忙しさの中でわたしたちは神様から目が離れ、目先のことに振り回されてしまう。でも、それもサタンの方法だ。サタンの方法ならば、イエスに勝てるわけがない。だから、本当にいつも安心して主に従っていこう。どんなに忙しくても、神の前に静まる時を忘れないで、神の前に座り込んで、祈って、答えをいただいて、歩んでいこう。主よ、あなたとのパイプをもっともっと太く持っていくことができますように。
7月24日(水)
「その友に対するいつくしみをさし控える者は、全能者を恐れることをすてる。」(ヨブ記6:14)
神様を愛することは人を愛すること。神様を恐れることを、人の痛みや苦しみを軽く見ないこと。本当の意味で痛みがわかるなんて人間は簡単に言ってはいけないだろうけれども、知ろうとして、でも、本当はわからない痛み。それを忘れないでいたいと思う。主よ、痛みのわかる者としてください。主が私を訓練し、本当に痛みのわかる者としてくださるように。
「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」(ローマ人への手紙7:24−25)
罪の力、自分の無力さを、自分の醜さをいやというほど知ったこのパウロの叫び。「だれが救ってくれるのか?」に対して、反射的に飛び出してきたような、「イエス・キリストによって神は!」という答え。自分の姿を知れば知るほど、神様の力、神様のすごさ、神様の愛を知ることができる。主よ、あなたに感謝します。本当に私もそう思います。自分の弱さを、ダメさ加減を知れば知るほど、神様の大きさ、神様のすごさ、感じます。ハレルヤ!
7月23日(火)
「なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。」(ヨブ記3:11)
今日からヨブ記だ。このヨブ記を読むたびに、どのように読むべきかを考えさせられる。どのように読んだらいいのか?最初の1章でヨブは財産と子供たちを失い、「主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」と言っている。そして、2章では自分が病気になったときに、「われわれは神から幸を受けるのだから、災をも、受けるべきではないか。」と言っている。しかし、3章では、自分は生まれなければよかった、生まれてすぐに死んでいればよかった、と嘆いている。これは、1−2章ではヨブがガマンして信仰的なことを言っていた、のだろうか?でも、この1−2章のヨブの言葉が、決して無理をして言っていたとも感じられない。本当にそう思ったのだろう。そして、そういう「すべては神様が与えてくださったものだから・・・」という思いと、3章から続くヨブの苦しみとは両立するのではないだろうか?逆を言えば、「どうしてこんな苦しみが」と叫びながら、「神様は必ず最善をしてくださる」という信仰を持つことはできるのではないだろうか?人間の心はそんなに単純なものではない、そのことをヨブ記を読むたびに思わされる。主よ、今日からヨブ記を読みます。今年ここを読む時に、今までになかった「目が開かれる経験」を与えてください。
「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ人への手紙6:11)
「認むべきである」という言葉が心に留まった。すでに、自分は罪に対して死んだ者なのだ、そして、キリスト共に生かされている者なのだ、そのことを認めなさい、というのだ。実感がどうであるか、どのようなことをしているか以前に、そのことを認めて歩みなさい、というのだ。そのことを先ず認めて歩み出すことが大切なことなのだ。主よ、本当にわたしの歩みを守ってください。主が共にいて下さることを、主が今日も共に歩んでくださることを先ず、認めることができますように。そして、その中であなたの喜ばれること、あなたのわたしに使命として与えてくださっていることを見させてください。
7月22日(月)
「どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。」(エステル記8:6)
同胞のための祈り、同胞のための痛み。自分もやはり日本人としてのアイデンティティーがある。そして、同胞がイエスを信じることを心から願っている。もちろん、「日本人」として見ていると言うよりも、ひとりの人間として、ひとりの人がイエスを信じることを心から願っているし、「日本語教会」の牧師として、「日本人」ということよりも、「日本語を使い、理解する人」ということの方が大切な範疇なのだが・・・。だまって見ていることができない・・・。主よ、日本を憐れんでください、日本人を憐れんでください。主を知る人々がもっと起こされますように。
「それだけではなく、患難をも喜んでいる。」(ローマ人への手紙5:3)
苦しみをも喜びにできる。それはすばらしいことだ。実際、苦しいことは苦しい。つらいことは起こらないでほしい。でも、その中でも、たといそういうことが起こった時にもそれを喜びとすることができるとは、何とすばらしいことだろうかと思う。でも、やっぱり、これは言葉だけではダメだなあ、と思う。主よ、次に苦しみがわたしにおそってきた時に、この事を思い出させてください。そして、本当に苦しみの中であなたがそのことをも「喜ぶ」ことのできる者としてくださることを教えてください。
7月21日(日)
「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。」(エステル記4:14)
自分がここにいるのはこの時のためだったのか、と感じることがある。本当に神様がここに導いてくださったんだなあ、と感じること。そのとき、このエステルのように立ち上がることができることはとても幸いだと思う。ひとりひとりはそうなんだ、神様が必要だと思われてそのところに置いておいてくださっているのだ。だから神様の与えてくださっている使命を求めながら歩んでいきたいと思う。主よ、教えてください。今日、私がここに置かれている意味を。それを示すような出会いを与えてください。
7月20日(土)
「時に王とハマンは座して酒を飲んでいたが、スサの都はあわて惑った。」(エステル記3:15)
この文章は本当に印象的な一文だ。何も知らない王、そしてすべてを知っていたハマン、二人が平然と酒を飲んでいる頃、人々はニュースにあわて惑ったという。そして、このエステル記には「神」という言葉は出てこないけれども、そこに「神」という存在が暗示され、ハマンも本当は何が起こるか、知らなかった、ということが暗示されている。大体、このストーリーの始まりは、ワシテが王の命令に背いたことだった。大体その王の動機自体「美しい妻を見せびらかしたかった」と言うことであるし、ワシテを離縁したのも、人々の「示しがつきません」という言葉に左右されたことだった。本当に王の身勝手さで始まる物語だが、その王の身勝手ささえも神は用いて、ユダヤ人を救おうとされたのだった。主のなさることはわたしたちにはわからない。本当に期待していきたいと思う。神様が私の人生に何をなそうとしているのか・・・。
「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」(ローマ人への手紙4:18)
望み得ないことを、望み、そして信じること、これがわたしたちの信仰だ。主の全能を信じ、神の約束の御言葉を信じて、歩んでいくこと、そのためにわたしたちは救われたのだ。主よ、この信仰を教えて下さったことを感謝します。この信仰を伝えていくことができますように、語っていくことができますように。信じて祈っていくことができますように。主よ、お助け下さい。主よ、力をお与え下さい。主よ、望み得ない時にこそ、信じる者としてください。望み得ない時にこそ、あなたを第一としていけますように。人間の考えで進むことがありませんように。主よ、お助け下さい。
7月19日(金)
「わたしはまたレビ人に命じて、その身を清めさせ、来て門を守らせて、安息日を生別した。」(ネヘミヤ記13:22)
このネヘミヤの聖別に対する姿勢には本当に学ばされる。安息日に、そして神殿に不純なもの、我欲が入り込む時に、ネヘミヤはそれぞれの事情とかそういうことを考慮するのではなく、はっきりとした態度でそれを神様のために聖別した。自分の心の聖別、最近意識することもなくなっていたが、神様が今日語って下さったことを感じる。時を聖別し、生活を聖別し、経済を聖別し、主に純粋にしたがっていく者となりたい。きよさを求める。すべてが主のためであり、主がすべてを支配して下さるような生活。生活の一瞬一瞬が主を向いているような生活。まさに、食べるのも主のために食べ、食べないのも主のために食べない(ローマ14:6)、そのような歩みをさせて頂きたいと思う。主よ、私を支配して下さい。神の国を私の中に・・・。
「すべての口がふさがれ・・・」(ローマ人への手紙3:19)
議論では勝てないと感じることがある。自分も結構言葉で家族を言い伏せてしまって、ひんしゅくを買うこともあるが、人と議論をしていて勝てないと感じることがある。心ではおかしいと感じながら、理屈で負けて、相手の言い分を認めてしまうこともある。そして、ある時には、主の御名が汚されることもある。それは本当に悔しい。でも、わたしたちが主を弁護する必要はないのだ。主が人の口をふさいで下さる。主の栄光、主の威厳の前に立つ時に、主が人の口をふさいで下さる。主が栄光を表して下さる。だから、僕らが一生懸命主の弁護をする必要はない。ただ、ありのまま、主のすばらしさを語っていけばいい。自分の弱さと、主の強さを語っていけばいい。主よ、今、あなたのすばらしさをもって、人々の口をふさぎ、あなたの力を見せて下さい。
7月18日(木)
「岩から水を出してその渇きを潤し・・・」(ネヘミヤ記9:15)
「岩」というのは砂漠の中では「水の出てきそうなところ」なのだろうか、それとも「水の出てきそうではない」ところなのか?日本のような所だと、岩から水が出てくるというのはよくありそうなことなのだが、砂漠の中ではどんなところなのだろうか?いずれにせよ、神様の奇跡であった。砂漠の中で水が与えられるとは奇跡であった。でも、神様はそれをお与えになった。だから、彼らは守られて、水を得ることができた。渇きを癒すことができた。主よ、今日も、あなたの水を感謝します。わたしの心の渇きを潤す水を感謝します。あなたが共におられることがわたしの力です。わたしの喜びです。今日、出会う人にあなたのすばらしさを証しすることができますように。そして、今日電話すべき人、メールを送るべき人、そして、お会いすべき人、教えてください。このすばらしい命を伝えるために・・・
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」(ローマ人への手紙2:4)
神の慈愛と忍耐と寛容の富。本当に神様はわたし自身のことをどのように見ておられるのか。寛容と忍耐が必要だろうなあ、と思う。でも、それを申し訳なく、ではなく、ありがたく思いながら歩んでいくことが大切だと思う。何か神様からのプレッシャーを感じて、「おまえ、こんなこともできないのか、しょうがないなあ」なんて思われていると感じながらでは、本当に不自由だ。「真理はあなたを自由にする!」聖霊よ、わたしにあなたの自由を与えてください。神様がどんな目でわたしを見ていてくださるか、本当に信頼して歩んでいくことができますように。神様、あなたとの信頼関係に生かしてください。
7月17日(水)
「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ記8:10)
律法の書を聞いた時に、人々は嘆いたという。自分たちがどれだけ神様から離れていたか・・・。それはわかるような気がする。でも、それに対して、エズラとネヘミヤは「憂えないで喜びなさい。それがあなた方の力だから・・・」と言った。自分の姿に泣きたくなることがある。でも、神様の願いは、わたしたちが神様の恵み、憐れみを覚えて喜ぶことだ。主が望んでおられるのはわたしたちが自己嫌悪に陥ることではなく、自分の醜さを感じれば感じるほど、神様の力と恵みを感じることだ。主よ!あなたの目を与えてください。あなたがわたしのことをどんな目で見ておられるか、それをもっともっと教えてください。
「わたしには、ギリシャ人にも、未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果たすべき責任がある。」(ローマ人への手紙1:14)
自分にも責任がある。イエスのことを伝える責任がある。福音を語る責任がある。それも伝わるように伝える責任がある。主よ、助けてください。どのように伝えたらいいのか、どこで伝えたらいいのか、主よ、あなたの知恵とあなたから来る勇気と行動力とをお与え下さい。主が助けてくださって、自分の責任を自分の責任として感じる使命感を明確にしてください。次から次からその伝えるべき方々を示してください。主よ、祈りの中に働いてください。
7月16日(火)
「その日から後は、わたしのしもべの半数は工事に働き、半数はやり、盾、弓、よろいをもって武装した。」(ネヘミヤ記4:16)
神殿の工事にあたっている時に、敵の攻撃に備えて、守る人もいた。わたしたちが主のために働く時に、敵も邪魔をしてくる。だから、しっかり守らなければいけない。エペソ人への手紙の神の武具は「御霊の剣(=御言葉)」以外は全部防御のものだ。姿勢としては攻めの態度が大切だが、決して守りをおろそかにしてはいけないと示された。祈りによって守りを固め、主の御業を見せて頂けますように。主よ、あなたに祈ります。もっと祈りで守りを固めよう。祈りによって敵の攻撃をかわそう。そして、6章にあるように、敵は偽預言者を使うこともある。それを見分けられるように、主とのパイプをしっかり持っていこう。
「はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた。」(使徒行伝28:31)
囚人としてローマに送られたパウロだが、自由に福音を伝えることが許され、力一杯それができたことは本当に何とすばらしいことだっただろうか?人の考えで何とか人々の理解を得ようと思っても得られなかった彼が、ひるむことなく福音を伝えていった時に、囚人となったとしても、目的を達することができた。「万事働きて益となる」ということはこういうことなのだろう。自分の思ったとおりにならないかもしれない。自分の願ったとおりにならないかもしれない、でも、神様の御業が進んでいく。それが最高の喜びだ。それがゴールだ。
7月15日(月)
「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。」(ネヘミヤ記2:20)
神の宮が荒廃していることがガマンできなかったネヘミヤ。そこを再建することを神の恵みと感じて歩んでいたネヘミヤ。今、自分たちが自分たちの教会の会堂を考える時に、効率とか、自分たちの経済力とか、そんなことに
目がいきやすく、神様の栄光、神様の恵みに目がいっているだろうか?もちろん、教会堂は手段であって目標ではない。そのことを忘れてはならないと思う。でも、本当に神様が栄光を表そうとしておられ、神様が用いようとされているなら、わたしたちは天の倉を開かれる神様に期待すべきだと思う。誰でもない、神様の富に期待すべきだと思う。主よ、あなたが天の倉を開いてください。あなたの天の倉、あなたの恵みに目を留めて進んでいく者としてください。
「たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜っている。」(使徒行伝27:24)
囚人のパウロ。そのパウロに神様が人々をみんな与えてくださっていたという。本当にこれはまた大胆な言葉だ。人々から見れば、パウロはこの人々の手の中にあった。生かすも殺すも、百卒長の一存で決まったであろう。でも、それも神様から見れば、パウロにこの人々が与えられていたのである。この視点を持っていくことは自分にとってもとても大切なことだと思う。自分は小さな存在だ。社会の中では、このニュージャージー・ニューヨークのエリートのたくさんいる社会の中では、自分はなんて小さな存在かと思う。でも、神様の視点からするなら、神様がわたしにこの地域に住んでいる日本語を使う人々をゆだねておられるのだ・・・。そうだ。これは大変なことだ。本当に神様に忠実に、神様のメッセージを語っていく者となりたい。何か、今まで、初めての人が来られたりすると、その反応に一喜一憂していたように思う。でも、そうではない。自分が気に入られようとかそんなことにとらわれていてはいけない。主が人々をわたしに託してくださっているんだ。主のメッセージを語っていこう。
7月14日(日)
「おまえたちが行って獲得しようとする地は、各地の民の汚れにより、その憎むべきわざによって汚れた地で、この果からかの果まで、その汚れに満ちている。」(エズラ記9:11)
このところはわたしたちには理解に苦しむところでもある。どうして、そこまでしなければならないのだろうか、という思いになる。異邦の民から奥さんをもらった人がその奥さんを離縁しなければならなかったとは・・・。でも、この時代、イスラエルの人々が異邦の民の習慣に簡単に染まっていってしまった歴史を見ていく時に、やはりこの時にはこれが必要だったのだろうか、とも思わされる。イスラエルの人々が異邦の人々に対してよい感化を与えていく、という希望はなかったのだろうか?わたしたちが世界中の人々のために遣わされて、イエスのことを、神の愛を伝えていく使命が与えられているように、彼らも、あのルツのように神様のことを信じる異邦人が起こされていくことを期待していくことは許されていなかったのだろうか?でも、この記事から教えられることは、本当に外からの悪い影響に注意すべきであるということ。純粋なものを求めていくべきことだ。TVやインターネットの中には、本当にたくさんの反キリストのものがある。注意していきたい。主よ、わたしの目と耳とをお守り下さい。
7月13日(土)
「わたしはわが神、主の手がわたしの上にあるので力を得・・・」(エズラ記7:28)
主の手がわたしの上にある・・・、そのように今自分ははっきりと言えるだろうか?そうあってほしい、そのように願う。求める。ハングリーな思いはあるが、でも、本当に主の手がわたしの上にあると言えるだろうか?でも、一つ一つのことを考えてみると、これは自分の力でできたことではない、とわかる。神様の御業だということがたくさんある。本当に主の御手があるんだなあ、と思わされた。でも、その一方で、神様はもっともっと大きなことをなそうとされているのではないだろうか?だから、もっともっと主に求めていきたい。更に大きな御業をなしてください・・・、と。主よ、今日、わたしの心をあなたの力と恵みで満たし、明日の日曜日、今までにない大きな御業をしてください。イエス様の約束を信頼します。「信じる者はわたしの業をするであろう。そして、もっと大きな業をするであろう」。
「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけではなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。」(使徒行伝26:29)
語ることが少しであったとしても、クリスチャンになる人が起こされる・・・。それを信じる信仰も自分には必要だと思う。大体、いろいろ話をして、信頼関係の上に証をして、そして、本当にいろいろ語り合う中で福音は伝わっていくものだと思う。でも、それだけではなく、短い話を通しても、救われる人々が起こされる、そう信じることを自分はしてこなかったのではないだろうか?期待しないところに御業は起こらないだろう。主よ、明日も期待します。語ることは少なかったとしても、福音が語られ、そこで主を信じる者たちが起こされますように。主を救われる者たちが起こされますように。
7月12日(金)
「それでエルサレムにある神の宮の工事は中止された。すなわちペルシャ王ダリヨスの治世の二年まで中止された。」(エズラ記4:24)
この中断は15年だったらしい。15年間の中断!自分は牧師になって12年くらいだから、ちょうど聖書学院に入ってから今までの長さくらいだろうか?その間の中断!彼らにとってどれほどの痛みであっただろうか?ハガイやゼカリヤの預言に励まされるまで、もうあきらめムードも広がっていたかもしれない・・・。けれども、そこに神の御言葉を告げる預言者が与えられた時に、人々は立ち上がった。預言者の励ましがどれほどの力があったかを感じさせられる。御言葉の励まし。自分にとっても本当に大きなことだ。主よ、あなたが、今わたしに、わたしたちに御言葉による励ましを与え、なすべきことを怠らずになすことができますように。主が助けてください。
「翌日、アグリッパとベルニケとは、大いに威儀をととのえて・・・」(使徒行伝25:23)
この「大いに威儀をととのえて」という言葉がすごく滑稽に見えてくる。2000年前自分がここにいたら、もっと見方が違うかもしれないが、使徒行伝を読み、聖書を読んで行く中で、神様が導いている世界、聖霊様が働いている世界の中で、何を小さな国の領主が「大いに威儀をととのえて・・・」なんて・・・という感じ。でも、自分も結構こんなに滑稽なことをしているかもしれない。神様の御手の中で生かされているのに、憐れみによって支えられているのに、自分の見栄をはって・・・。神様、聖書の世界だけではなく、日々の歩みの中でも、神様あなたが導き支えてくださっていることを見させてくださいますように。主よお助けください。
7月11日(木)
「そして民はみな主をさんびするとき、大声をあげて叫んだ。」(エズラ記3:11)
先日、久しぶりにBrooklyn Tabernacleの祈り会に出席した時に、最初の歌で圧倒されてしまった。4000人入るという新会堂にいっぱいの人々が大きな声を挙げて賛美をはじめたのだ。もう、賛美のるつぼの真ん中にいるような感じだった。本当にすごいと思った。自分はどうかと思った。ここまで主を賛美することを喜びとしているだろうか?それよりも、人々が「こいつら気違いか?」と思われるのではないかと、ちょっと心配しながら、「気違いじゃないよ」ということをわかってもらおうと気配りをしながら声を出していないだろうか?あのペンテコステの時も人々は「こいつらは酒を飲んでるんだよ」と言ったじゃないか?その人々の中から3000人もイエスを信じる人々が起こされたじゃないか?何を恐れているんだろうか?主よ、大声を上げてあなたを賛美します!
「ペリクスは不安を感じてきて・・・」(使徒行伝24:25)
御言葉がストレートに語られていく時に、人々は「不安」を感じる。その先に「平安」があるのだからもっと求めればいいのに、その不安に負けてしまって、「その話はまた今度聞こう」なんてことになってしまう。で、話をする方はそれを恐れるあまり、人々が恐れを感じる部分を軽くしてしまう。だから、福音にインパクトがなくなってしまう。御言葉をストレートに語るのは、大変なことだ。でも、本当に人の反応に振り回されないで、心から、イエスの十字架の恵みの力を信じて、ストレートにさばきも、正義も語っていく伝道者でありたいと思う。主よ、そのためにいつもいつもあなたとの太いパイプを持ち続けられますように・・・。
7月10日(水)
「主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身をひくくしなかった。」(歴代志下36:12)
御言葉の前に身を低くする。いつのまにか、御言葉を身近なものにするために、御言葉に対する敬意、御言葉にひれ伏す思いが薄くなってしまっていないだろうか?聖書が朗読される時に、メッセージが語られる時に、御言葉の前に身を低くする、そういう思いを忘れてしまっていないだろうか?毎朝、聖書を読む時に、「ひれ伏す」思いがあるだろうか?いつのまにか、また御言葉を「料理する」という態度になっていないだろうか?料理されるのは自分の方だ。御言葉に料理されて、砕かれて、はっとさせられて、さばかれて、そして、励まされて、気づかされて、癒されて、歩んでいく。そんな歩みを毎日毎日していくこと、そう、いつのまにかクリスチャンの歩みの醍醐味であるその御言葉経験を軽く見ていたような気がする。主よ、感謝します。今日、御言葉によって取り扱ってくださったことを。主よ、もっともっと御言葉によって歩む者としてください。
「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない。」(使徒行伝23:11)
ものすごいパワフルな励ましだ。イエス様が、直接パウロを励まして、牢屋に入っているにもかかわらず、「あなたはローマでわたしのことを証しする」と告げてくださったとは。何という励ましだろうか?パウロはこの時知っていたのだろうか、自分が囚人としてローマでイエスの証をする、ということを・・・。でも、どんな状況の中でも、どんな立場でも、主の証ができるというのは何というすばらしいことだろうか?アメリカでも、キリストによって生まれ変わった囚人が刑務所でイエスを証ししたいから仮釈放の道を拒んでいるという話があることを聞いた。本当に自分もすべての場面で主を証しする者となりたいと思う。
7月9日(火)
「彼と共にいる者は肉の腕である。しかしわれわれと共におる者はわれわれの神、主であって、われわれを助け、われわれに代って戦われる。」(歴代志下32:8)
これはなんという力強い言葉だろうか?彼らと共にあるのはどんなに多くあっても、どんなに実績があっても人間の者、肉の腕。しかし、わたしたちと共にあるのは、神の腕、神の力である。主よ、今あなたを待ち望みます。あなたを待ちます。あなたがわたしたちと共にあって、あなたの奇跡をなしてください。明日のコンサートにあっても、紺だけがんばったから、こんだけ準備したから・・・と言うことではなく、あなたの奇跡を拝させてください。あなたを待ち望みます。
「行きなさい。わたしがあなたを・・・つかわすのだ。」(使徒行伝22:21)
主が遣わしてくださる。ここで、パウロはユダヤ人の中で「異邦人に遣わす」と言う言葉を聞いたことを語ったため、人々から殺されそうになる。でも、パウロにとっては、人が自分のことを殺そうとしようが、人々が怒ろうが、「神様が、イエス様がわたしを遣わした」ということほど大切なことはなかった。今の自分もそうだ。状況がどうであれ、人々がどう言おうと、主がわたしをここに遣わしてくださった、と言うことほど大きなことはない。大切なことはない。主よ、あなたが遣わしてくださったのですから、あなたがお用いください。あなたの奇跡を見させてください。あなたのことを語らせてください。イエス様がわたしの人生にどんなにすばらしいことをしてくださったかを語らせてください。
7月8日(月)
「人々はこれをあざけり笑った。」(歴代志下30:10)
国難が襲ってきて、そして、自分たちが苦しんでいる時に、「敵の神々の方が強い」と言って、その神々を輸入するアハブ王と、この苦しみは神がわたしたちに悔い改めを迫っているんだ、と感じてユダだけではなく、北王国イスラエルの人々にも飛脚をとばしたヒゼキヤ王。人々から笑われたのはヒゼキヤ王であったが、神から捨てられたのはアハブ王だった。自分も福音をストレートに語る時に、人が「これはすばらしい教えだ」と言ってくれる時には本当によかったなあ、と思うが、「そんなのは甘い」と言われると、ひるんでしまう。人の声を恐れない者となりたい。人の声を恐れる必要はないのだ。主よ、そこに導かれていることに感謝します。どうか、人の声を恐れない者としてください。物笑いになっても、福音を大胆に語っていく者としてください。
「そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。」(使徒行伝21:24)
ヤコブはパウロが人々から誤解されないように方法を提案をした。でも、結果を見るならば、やはりパウロは誤解されて、ユダヤ人から捕らえられ、訳のわからない群衆たちによって殺されそうになった。御霊によって示されていたとおり、パウロはこれからローマに行くようにと神様から導かれていたようだ。そこに人間の混乱を恐れる人々が手を回したところで、それはどうにもならないことだったのである。わたしたちも必要以上にトラブルを恐れてはならないと思う。正しいことは正しい、悔い改めるべきことは悔い改める・・・という姿勢が必要だと思う。神様、あなたに信頼している強さを与えてください。
7月7日(日)
「アマジヤは神の人に言った、『それではわたしがイスラエルの軍隊に与えた百タラントをどうしましょうか』。神の人は答えた、『主はそれよりも多いものをあなたにお与えになることができます』。」(歴代志下25:9)
銀百タラント・・・何と言っても十万人の軍隊を雇うことができるくらいだからかなりのものなのだろう。そこまでしていたのに、神様から「待った」がかかった。アマジヤの言うこともわかるような気がする。「こんなに準備してお金も払ったのに、今から取り消しなんかできるか・・・みたいな。でも、それを無駄にしてでも神様に従った方がいい。神様はもっと豊かに持っておられる方だから・・・。神様はもっと豊かに与えてくださる方だから・・・。でも、現実の歩みの中で、自分にこういうことが起こってきたら、本当に神様に従うことができるだろうか?本当に神様が与えてくださるから・・・と神様に信頼していくことができるだろうか?わたしたちも陥りやすい問題だと思う。主よ、あなたを本気で信頼させてください。
7月6日(土)
「エホヤダの死んだ後、ユダのつかさたちが来て、うやうやしく王に敬意を表した。王は彼らに聞き従った。」(歴代志下24:17)
これは本当に危険なことだと思う。恭しく敬意を表するということで、彼らに従ってしまったヨアシ王。それまでの神に従った歩みのすばらしさを全く無意味にしてしまうかのような愚かな行為。どんなに恭しかったとしても、どんなに礼儀正しかったとしても、間違っていることは間違っている、退けるべきことは退ける、勇気とはっきりとした態度が大切だと思う。自分も「人間関係の円滑さ」に振り回されて、正しいことをはっきりと言う、間違ったことに対してははっきりとした態度を取る、ことができなくならないように注意していきたい。主よ、お助けください。
「受けるよりも与える方が、さいわいである」(使徒行伝20:35)
この言葉は大切な言葉だとわかっているが、「与える」ことの大変な時がある。大変な時があるからこそ、信仰が問われてくるのだろう。また、でも、それは「楽しい」ことでもあるのだが・・・。与えることが簡単な時に、「受けるよりも与える方が幸い」と感じることはたやすい。でも、本当にそれが大変な時にこそ、神様に力をいただいて歩んでいくのではないだろうか?主よ、与えることの喜びをもっともっと経験させてください。あなたの御力を感じさせてください。幸いな経験を与えてください。勇気を与えてください。
7月5日(金)
「われわれはこのように攻めて来る大軍に当たる力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです。」(歴代志下20:12)
何という情けない王だろうかと思う。王様がこんな時に、こんな国難の中でこんなことを人々の前で言っていいのだろうか?昨日の朝のブッシュ大統領の演説は力強いものだった。「神の許に」「全能の神に与えられた自由」「善をもって悪に勝つ」などという聖書の言葉が使われていた。いつも思う。この国の指導者の演説は本当に力強い。それに比べてこのヨシャパテ王のこの神の前の祈りは何と情けないものだろうか?「わたしたちにはその力がない」「どうしたらいいのかわからない」「神様、あなただけが頼りです。それしかありません」人々は不安にならなかったのだろうか?こんな指導者に任せておいていいのだろうか、と。でも、そこに神様の力が注がれた。人々は王様ではなく、神様を頼りにすることを学んだのではないだろうか?自分も牧師として「頼りになる牧師」に対するあこがれがある。でも、これは本当ではないのではないだろうか?牧師にとって、自分が頼りになるかどうかではなく、人々が神様を頼りにするようになるかどうか、が大切なことなのではないだろうか?主よ、本当にあなたを頼りにして歩んでいくことができますように。本当にそうです。そこに生かしてください。
「みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。」(使徒行伝19:17)
このエペソの教会の霊的な祝福。人々が心の奥底まで探られて、神様に従うようになっていった。この神様の前の畏れの感覚。みんなが罪を告白しないではいられなくなり、魔術を行っていた人々が魔術を捨てるようになっていくこの霊的な力。この霊的な世界における勝利をもっともっと見せて頂きたい。頭で納得しただけ、頭で考えて動いていくようなものではなく、霊的な世界においても御業を見せられて、歩んでいく者とされたい。もっともっとイエスが悪霊に勝利し、今も霊的な世界においても主であってくださることを見させて頂きたい。主よ、あなたの働きを待ち望みます。聖霊よ、あなたの自由な働きを待ち望みます。
7月4日(木)
「わたしは姿を変えて戦いに行きましょう。しかし、あなたは王の衣を着けなさい。」「しかし、ひとりの人が、なにごころなく弓を引いて、イスラエルの王の胸当とくさずりの間を射た・・・」(歴代志下18:29、33)
自分に対していいことを言わない預言者ミカヤを憎んでいたイスラエルの王アハブ。彼は、ミカヤの預言を聞いて、恐れたのだろうか、王の衣を着ないで、兵卒のひとりのふりをして戦いに出た。しかし、不思議だ、ひとりの人が何も考えないで弓をひいたら、その矢がアハブの急所を射抜いたという。アハブ王は神に悔い改める、という根本的な解決をしようとしないで、ただ、小手先の悪あがきで何とかその場をしのごうとした。でも、この「小手先の悪あがき」・・・自分もしていることがあるのではないだろうか?自分もここにはまっていることがあるのではないだろうか?本当に神様の前に出て、神様から解決をいただくべきところで、小手先の解決を求めていないだろうか?そこで満足していないだろうか?主よ、あなたの前に出て祈りの中で、解決をいただく者としてください。主よ、あなたとの交わりに生かしてください。うまくその場を切り抜けることがありませんように・・・。
「恐れるな。語り続けよ、黙っているな。あなたにはわたしがついている。」(使徒行伝18:9−10)
迫害の続く中でのパウロへの励まし。語り続けよ。語り続けよ!最近、「語る」ことに対する恐れがあることがある。言葉だけで通じないことがあることの恐ろしさ。自分が何もしていない、何か目に見える形で社会に貢献していないのではないかという思いの中での、語るのがなにかおこがましいかのような気持ちになることがある。自分のダメさ加減に嫌気がさすことがある。でも、それはやはり裏を返せば、「何か自分が大きなことをしていたら物が言える」とか「自分の内側に立派なものがあれば語ることができる」という思いこみなのだろう。本当にわたしが語ることができるのは、自分が何か偉い者だからではない。自分はただ、神様に支えられている、神様に赦されている。神様に愛されている。だから、語ることができる。語ることが許されている。July 4thで、英雄たちの姿、Heroたちの姿、9/11のHeroたちの姿がクローズアップされる中で、自分のつまらなさ、愚かさばかり見せつけられる。他の牧師たちの立派な姿に、自分の情けなさばかり見せつけられる。でも、いや、だから自分には神様しかいない。主よ、語らせてください。語らせてください。あなたのことを証しさせてください。だから、あなたのすばらしさで心をいっぱいにしてください。あなたの力を見せてください。
7月3日(水)
「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。」(歴代志下14:11)
信仰が試されていると思う。力の無い時に、何とかどこからから助けを求めたくなる時がある。もちろん、いろんな人たちの助けによって今の自分があることを思うし、一つのことをするのにもたくさんの方々の助けが必要だ。でも、そこで一番最初に頼るべき神様を見ないで人の助けを求めることのいかに多いことか?JOYJOYキャンプも神様の助けをいただいて、神様の守りをいただいてやることを第一に考えるべきだ。十分なスタッフが与えられたら大丈夫、なのではない。神様に信頼して、神様に期待して、祈って祈って祈って、「本当に神様の奇跡だ」ということを経験させて頂こう。
「死人のよみがえりのことを聞くと・・・」(使徒行伝17:32)
それまで一生懸命パウロの話を聞いていた人々、それも、自分たちの方から「聞かせてくれ」と言って来た人々が、大切な福音の中心を語った時に、聞く耳を失ってしまった。本当に残念だと思う。でも、これは今日でもあり得ることだと思う。でも、そこでもはっきりと福音を語ったパウロのように、自分のそこでひるまず福音を語りたいと思う。耳障りのいいことばかりを語るのではなく、福音を大胆に語っていきたいと思う。神様の励ましを感じた。感謝。
7月2日(火)
「みだらな神・・・」(歴代志下11:15)
前日の使徒行伝15章でも、避けるべきこととして、道徳的なこととして唯一「不品行」が挙げられていたが、ここでも、ヤラベアムの神が「みだらな神」と述べられている。日本でもたくさんそういう神がまつられている。生殖から「豊作」となるとよく言われるが、本当に人間の愚かさを思わされる。そして、最近のカトリック教会の不祥事。罪深さ、弱さがそこにあって、サタンもそこをねらってくる、ということだろうか。自分自身、単に、「何を馬鹿なことをやっているんだ」と非難するだけではなく、自分自身弱い者であることを認めて、神様の守りを祈ることの大切さを思わされる。主よ、今日も、あなたが私をお守りください。
「囚人たちは耳をすまし聞きいっていた。」(使徒行伝16:25)
これはすごいことだと思う。人々はわたしたちの神様への姿勢を見ている。神様への祈りを、神様への賛美を聞いている。パウロとシラスは別に囚人たちに向って歌っていたわけではなかった。囚人たちにメッセージを語っていたのではなかった。ただ、神様に賛美をささげ、祈りを捧げていた。それを囚人たちは聞いていた。そして、それが囚人たちと獄吏とを救った。わたしたちも、「人」を意識し、人に語ることだけではなく、とにかく、神様に目を向け、神様と生きた関係を持っていくようにしたい。人との間だけで生きるのではなく、神様からの命にあふれて生きていきたい。主よ、あなたの命を与えてください。
7月1日(月)
「さて一年の間にソロモンの所にはいって来た金の目方は666タラントであった。」(歴代志下9:13)
この数字は偶然なのだろうか?いや、神様のなさることに偶然はない。神様がここから特別なメッセージを与えようとしているのではないだろうか?「666」は黙示録にも出てくる言葉だが、6は完全数7に一少ない数で、「人間の不完全さ」を表す数だ、とよく言われる。こんなにすばらしい神の知恵を与えられたソロモンだけれども、不完全な人間であることを忘れるな、と言う意味で666なのだろうか?どんなに豊かであっても、神様の豊かさに比べれば、本当に不完全なものである、ということを言いたかったのか・・・。いずれにせよ、わたしたちの不完全さを忘れてはいけないと思う。神様の前にへりくだって歩んでいきたい。バベルの塔を繰り返してはならない・・・。
「しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。こうして激論が起こり、その結果ふたりは互いに別れ別れになり・・・」(使徒行伝15:38−39)
このパウロの厳しさ、神様はどのように見ておられたのだろうかと思う。この二人の激論、神様はどのように見ておられたのだろうかと思う。二人が結局別れ別れになってしまうのだが、この姿の中に、真剣に物事に取り組む二人の人を見る。パウロにはパウロの真剣さがあり、バルナバもそれに譲ろうとは思わなかった。「和をもって尊しとなす」という日本的な考えに自分は支配されすぎているのではないかと思った。もっと本気で神様を信頼して、もっと本気で激論を戦わす真剣さが必要ではないかと思った。主よ、あなたに対して、あなたの福音を語ることに対して、熱い者としてください。