2月28日(木)
「シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。」(出エジプト記19:18)
神様が臨在を顕されるところ、それはこういうところなのであろう。その臨在は山が煙り、地が震えるようなものなのであろう。私たちが旧約聖書に触れるとき、本来このような近づくこともできないような神様の子供とされ、愛され、包まれ、癒されていることのすばらしさを感じないではいられない。このように恐ろしい方だからこそ、このように大きな、私たちの近寄ることのできないお方だからこそ、この方が私たち一人一人に目を留めて、今も支えてくださっていることのものすごさを感じないではいられない。主よ、もっともっとあなたの大きさを、あなたの力を見せてください。そして、もっともっとあなたの愛の深さを見せてくださいますように。
2月27日(水)
「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい。」(出エジプト記14:14)
これはものすごい言葉だと思う。ものすごいメッセージだと思う。自分がこの御言葉に従って「ああ本当だ」と神様の御業を拝したのはいつのことだろうか?何か「わたしががんばりますから、主よ、力を貸してください」という場面ばかりのような気がする。いつの間にか、神様が日本の神々のように「わたしの願いを聞いてくれる方」「がんばったら力を貸してくれる方」みたいな感じになっていないだろうか?主が戦われるのを見させていただく、それは本気で神様を信じていないとできないことだと思う。いつの間にか「自分の力」を信じていないだろうか?そんなことを思わされる。主よ、あなたの御業を見させてください。特に、「人が救われる」というところで・・・。わたしがばたばたするのではなく、あなたが働いてくださって、それを見させていただくような経験をさせてください。
2月26日(火)
「これは彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった。
」(出エジプト記12:42)
神様が寝ずの番をされた!神様なんだから当たり前だ、神様は昼も夜も守ってくださるのだ、とも思うが、そこをあえて、このように書いておられることの意味を考えさせられる。そのありがたさを思わされる。神様は私たちの夜も寝ずの番をして守っていてくださる。人間の言葉を用いて語るならば、神様が寝ずの番をするようにして、夜の間中特別な守りを与えてくださる夜がある、ということだ。私たちの人生の危機の時、どうしても助けが必要な厳しい状況の時に、神様がわたしたちを寝ずの番をするようにして守ってくださっている。ハレルヤ!感謝。
2月25日(月)
「パロの家来のうち、主の言葉をおそれる者は・・・」(出エジプト記9:21)
イスラエルの民か、パロの家来かではなく、主の言葉をおそれるかどうか、それがここでの分かれ目であった。今、自分はクリスチャンとして歩んでいる。そして、牧師として奉仕をしている。でも、それがいつの間にか牧師ビジネスになってしまう危険性がある。いつもいつも主の言葉を恐れて、そこに従っていく者であることが大切だ。だから、朝、祈りの中に聖書を読み、聖書によって裁かれ、聖書によって教えられ、整えられていくことが大切なのではないだろうか?教会員の期待に応えていくのが牧師であってはならないと思う。主の御言葉によって裁かれて、主の御言葉を恐れて従っていく、それが自分自身に与えられている使命であると思う。
2月24日(日)
「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし・・・」(出エジプト記6:7)
神様が私のことを神様の民にしてくださる幸い。本来ならば、わたしは神の民ではないのに、そんなことを言っていただける存在ではないはずなのに、そのように言っていただける。そのように受け入れていただける。その幸いを思う。そのありがたさを忘れてはいけないと思う。それが当たり前になってはいけないと思う。それが本当に当たり前にならないために、それを思い出させてくださるために、主がいろんなことを通して語ってくださるのだと思う。聖霊様が罪を示してくださるのもそのためだと思う。主よ、あなたの恵み深さを味合わせてください。
2月23日(土)
「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。」(出エジプト記3:12)
神様が共におられることが、神様に遣わされたことのしるし。それだけで十分だ。神様あなたが共にいてくださる時に、それで十分です。何か特別な奇跡がないとダメとか、特別な力がないとダメとか、そういうことはありません。あなたが共にいてくださる、それだけで十分です。あなたが共にいてくださるということがわかれば、出ていく事ができます。喜んで奉仕することができます。だから、いつもいつも共にいてくださることを教えてください。それを味わうことができますように。十字架まで来てくださったことを感謝します。
2月22日(金)
「叫びは神に届いた。」(出エジプト記2:23)
叫びは神に届いている。今日の一日のためにわたしが、また人々が叫んでいる叫びは神に届いている。だから、恐れることはない。神様がおられる。神様を見上げて行こう。自分の力ではなく、自分の能力ではなく、神様の力を経験させてください。今日出会う人に神様が直接働いてくださって、すばらしい御業をしてくださいますように。主が力であって下さって、わたしが道具として用いられますように。主よ、あなたに期待しています。働いてください。いや、あなたはいつも働いておられます。主よ、わたしをあなたの力が働く場所として用いてください。
2月21日(木)
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて・・・」(創世記50:20)
神様は人の悪を良きに変わらせることのできるお方なのだ。そんなことあるだろうかと思う。でも、そのように受け取ることができるのは本当に幸いだと思う。いつもいつまでも恨み続けるのではなく、そのような人の悪意をも、神様が良いことに変えてくださるほどの力のある方だということを経験して、受けて取っていくことができるならば、周囲の事に振り回されず、神様に感謝していくことができるのではないだろうか?主よ、感謝します。わたしもそのように思える事を感謝します。そのような視点が与えられている事を感謝します。人を恨む者ではなく、人の悪意をも良きに変えることのできる神様に目を向ける者としてください。
2月20日(水)
「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下るのを恐れてはならない。」(創世記46:3)
ヨセフが生きていることを喜んでエジプトに下ろうとするヤコブに対して、「大丈夫だ、恐れる事はない」と言われた。でも、実際、ヤコブは恐れていたのだろうかと思う。恐れより、喜びの方が大きかったのではないだろうか?でも、わたし達も、自分の嫌なことばかりではない、喜びに従っていく時も、本当にこのうれしい事が神様の認めておられることだろうかと不安になる時がある。ヤコブも約束の地が与えられていながら、そこにとどまるのではなく、エジプトにくだって行こうとしていた。たとえそこに愛するヨセフがいようとも、もうあきらめていたヨセフがそこに神様によって送られていたとしても、そこに下っていくのは、神様が認めてくださらなければ、不安でしょうがなかったのではないだろうか?自分の喜びではなく、神様の導きに従っていくのがわたし達の祝福だ。
2月19日(火)
「それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。」(創世記45:8)
ヨセフが「わたしはヨセフです」と明かした時の驚きと衝撃を感じる。そんな中で、彼らが聞いた言葉は「あなたがたがしたことを嘆くことも悔やむこともありません」というヨセフの言葉だった。ヨセフはなんと幸せな者だろうかと思う。自分が苦しみに会いながら、その事で人を恨む生き方をするのではなくて、その背後におられる神を見ていく生き方をしていく。恨みに支配されていくのではなくて、神様の導きにゆだねていく。神様の恵みを感じながら生きていく。そのような歩みをきょうもさせられて行きたい。理解できないこともあるかもしれない。不条理を感じる時があるかもしれない。でも、その中に神様の導きを感じ、人を責める事も、嘆くことも悔やむ事も必要のない歩みをして行きたい。
2月18日(月)
「あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言葉をためしてみよう。」(創世記42:16)
ヨセフはどうして、すぐに兄たちに自分がヨセフである事を明かさなかったのか、いろいろ考えさせられるところだ。ヨセフが最後に会った兄達は、やはり自分を売った兄たちであり、しきりに助けてくれる事を求めたのに聞いてくれなかった兄たちであった。その中で、やはり兄たちを受け入れるのにその時間がかかったのではないか?神様が彼の苦しみを忘れさせてくださった、ということをマナセ誕生の時に感じながら、今度は神様が兄達の事を思い出すように導いておられる中で、彼はそれを何とか受け入れようとしていたのではないだろうか?つらい忘れる事も大変だが、その事を思い出させられることもまた大変なことだ。その中で本当に神様と格闘するように受け止めていく事の大切さを思わされる。
2月17日(日)
「いいえ、わたしではありません。神が・・・」(創世記41:16)
夢の解き明かしができたヨセフは、それを自分の能力として受け取らなかった。神様が与えてくださったものとして受け取った。そしてそれを胸を張って言った。神様がなさるのです。わたしの力ではありません、と。神さまが与えてくださったものを、自分のものであるかのように思ってはいけないと思う。そしてまた、神様から与えられたものを自己卑下をするかのように低く見てはいけないと思う。どこまでも主に栄光を帰して、どこまでも主を見上げて、主から与えられたものを感謝して、歩んでいけたらと思う。主よ、そしてどう見てもあなたの力だ、ということを見させてください。だれが見てもあなたの力だ、ということを見させてください。そして、主よ、今日の礼拝で、主の力を見せてください。あなたの臨在を見せてください。今日、悔い改め、イエス様に全てをゆだねて生まれ変わる方々を起こしてください。
2月16日(土)
「主がヨセフと共におられたからである。」(創世記39:23)
主が共におられたから、ヨセフは祝福された。そして、主が共におられたことを知っていたから、罪から守られた。主が共におられることはどんなに大きな力だろうかと思う。お題目のように「主が共におられる」と言い続け、自分に言い聞かせつづけるのではなく、本当に心のそこから「ああ、主がおられるなあ」と思うような、そのような一日を主よ、今日もください。今日出会う方々に、今日お話をする方々に主の臨在が伝わりますように。主が共にいてくださることが伝わりますように。そして、NJの方々にも主の臨在がありますように。主が共にいてくださる事が現実として経験できますように。主よ、助けてください。
2月15日(金)
「大いなる恐れが周囲の町々に起こった。」(創世記35:5)
ヤコブ一族が祈るためにベテルに上って行った時に、周りの町々に恐れが起こったという。何が起こったのかわからない。何が恐れになったのかわからない。けれども、神がその周りに砦を設け、守りを与えるために、その事をなさっている。主が不思議な力で、ヤコブ一族を守っている。今日、飛行機を待っている間、そして、飛行機の中で眠れない時に、話題になっている「ヤベツの祈り」(英語版)を読んだ。一章一章読んでは黙想し、悔い改め、そして祈っているので、こんな短い本でも時間がかかるのだが、本当に、神に祈って御業を見せて頂きたい。このヤコブの周りに不思議な恐れがあったように、神様の不思議な御業を見たい。
2月14日(木)
「わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。」(創世記32:11)
エサウとの再会を前にして、ヤコブには恐れがあった。兄が今でも怒りを覚え、恨みを抱いているのではないだろうかという闘いがあった。そして、いろいろな方法で、何とか、その怒りから逃れることを考えていた。そしてあらゆる可能性に対応する事を考えた。しかし、彼にとっての強みは彼が叫びを上げるべき神を持っていた、ということである。恐れを感じた時に、「恐ろしいんです」と叫ぶ相手を持っていた、ということである。そして、最終的には彼は神と格闘する中で、解決を頂く。それは神の祝福、神の力を受けることによってだった。そのためには彼はもものつがいが外され、自分が「ヤコブ」(押しのける者)である事を認めなければならなかった。つまり、神の前に自分の真相を知らされ、全く砕かれる経験が必要だったのだ。神様からの祝福を頂く。自分もその事を求めつづけていきたい。
2月13日(水)
「娘たちはわたしの娘、子どもたちはわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものはみなわたしのものです。」(創世記31:43)
このラバンの言葉にこわいものを感じた。「すべてわたしのものです」と言わないではいられなかった淋しさ、愚かさ、哀れさを感じた。それと共に神をわたしの財産とする事のできる幸いを思わせられた。何でも「自分のもの」と言わなければならないのは、やはりラバンは本当に淋しかったのかなあと思う。神様を財産とすることができればこんなにすばらしい、楽な、平安な事はないのに、このラバンの姿は何かみじめだと思う。「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない。」(詩篇16:2)この秘訣を与えられている事に感謝します。そして、この秘訣に生きていくことができますように主よ、お守りください。
2月12日(火)
「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこに行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15)
神様がどこに行くにも守ってくださる。感謝。これを読みながら自分にとって神様にすれ変わってしまいやすいのは何だろうかと思った。「自分の願い」なのかなあ、とも感じるが、それよりも「人の声」のような気がする。人が何と言うかに自分の考えが左右され、人が喜んでくれなければ神様も喜んでくれないかのように感じる時がある。自分にとってのアキレス腱だと思う。この時ヤコブは本当に孤独だった。神様に頼るしかなかった。自分も神様に頼って、たとえそれゆえに孤独になったとしても、神様に頼って歩んで行こう。決して自分を捨てないお方を信頼して行こう。
2月11日(月)
「ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、『こんなことでは、わたしはどうなるでしょう』。彼女は行って主に尋ねた。」(創世記25:22)
以前から、どうしてリベカは27章で夫をだましてでもヤコブを祝福させたのか、と疑問を感じていたのだが、今日、この言葉で納得したような気がした。二人が赤ちゃんの時に彼女は神に尋ねて、神に聞いて、そしてそこで与えられた答えが「兄は弟に仕えるであろう」という神の選びだったのだ。神様に聞いて、答えが与えられたら、そこに立っていく、そこにかけていく、それが大切だ。今日も神様の導きを聞いて行こう。そしてそこにかけて行こう。リベカは「どうしよう」と思った時に、神様に尋ねた。自分も神に尋ねて行こう。主よ、お語りください。
2月10日(日)
「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。」(創世記24:50)
アブラハムの僕の言葉には説得力があった。彼の経験には説得力があった。いや、彼の経験を与えてくださった神様のなさることには説得力があったと言えるだろうか?これは神様の導きだ、ということをラバンに確信させないではいなかった。そして、「この事は主から出たことですから・・・」と言わせないではおかなかった。まさにこれは主から出た事なんだ、というとき、主がなさる事の前にひざまずく者となりたい。主がなさっていることだ、という確信がありながら、人の目を気にして躊躇する事がないようになりたい。主がなさる道は違うのではないか、と平安がない時に、人の目を気にして、見切り発車することがないように。主がなさる事に主が始められることに、主が進められる事に敏感に従っていくことができますように。主がなさる事に素直に従っていくことができますように。主がなさる事を見分けることができますように。本当の意味で神様を私の主人とすることができますように。
2月9日(土)
「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」(創世記22:8)
今まで、この言葉を単なるアブラハムの言い逃れのように感じてきた。息子イサクに無邪気に問われて苦し紛れにあたかも信仰の言葉であるかのようにごまかして言っているという印象だった。でも、それはやはり自分の信仰をアブラハムに投影しているだけで、自分の考えを投影しているだけで、神様からのメッセージを聞いていなかった。アブラハムとイサクとの間のいろいろな会話の中で、この言葉を残したのは、やはりこの言葉の中に神様のメッセージがこめられているからではないか。ヘブル人への手紙では、「彼は神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたのである。」(11:19)と言われている。アブラハムは「言われたまま」従ったと言うよりは、「神様を信じて従った」のであった。それは決して「神様がどうせ最後の最後で小羊を準備してくださるから大丈夫だというのではなく、神様の御手にお任せしていく時に、この子の事もお任せしていく時に、神様は最高の事をしてくださる、と信じたのではないか?私も神様にお任せして行こう。自分の愛するものも、神様が与えてくださったものも、神様よりも大切になってしまったら、それは幸せではない。喜びではない。神様をだれよりも愛していこう。神様を信頼して行こう。
2月8日(金)
「アブラハムはなお、主の前に立っていた。」(創世記18:22)
神の前に立ちつづけるアブラハム。そして神に喰らいつくように祈りをささげる。それはまるで神を追い詰めているようにも見える。このように祈ってきただろうか?「みこころだから・・・」という言葉を自分が祈っていない言い訳にしていないだろうか?祈りが神の御手を動かすことを本気で信じているだろうか?主よ、あなたは待っていてくださっているのに、あなたはわたしと話をしようとされているのに、それをないがしろにしてきました。「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいだろうか」とそんな思いを持ってくださるあなたに、真剣に取り組んでいませんでした。本気であなたと取り組む者としてください。祈らせてください。突き抜けるまで祈らせてください。祈ります。
2月7日(木)
「あなたの女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい。」(創世記16:9)
自分につらくあたってくる女主人のもとから逃げるハガイ。そのトラブルの責任の一部はサライにあり、アブラムにあり、そして、ハガイにもあった。もともとサライの提案で始まったことだなのにサライがつらくあたるのもおかしいし、アブラムがサライの勧めに単純に従ったことも責任がある。またハガルが自分が身ごもった時にサライを見下げたことにも問題がある。でも、立場の弱いハガイにはどうすることもできない。まさに逃げるしかなかった。その中でやっとたどり着いた泉、そこで出会ってくださった神様が「そうか、たいへんだなあ、いいよ、そんな家は出てこっちへおいで」と言ってくれたらどんなにホッとしただろうか?しかし、神様の言葉は「女主人の所に帰って、その手に身を任せなさい」だった。でも、ハガルは帰って行けた。どうしてだろうか?13節に、「わたしを見ていられる方のうしろを拝めた」とある。神様がわたしを見ていてくださる、という実感だった。「自業自得だ、自分のまいた種を刈り取るのだ」と神様は言われなかった。「大丈夫だから、サライのもとに帰って行きなさい。わたしがいつも見ている。」と語りかけられた。そうだ、神様がおられる。わたしを見ておられる神様がおられる。だから恐れないで行こう。主よ、感謝します。
2月6日(水)
「そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう。」(創世記12:13)
アブラムは神様から「わたしはあなたを祝福する」「わたしはあなたにこの地を与える」と言われていたのに、人々を恐れた。そして、妻に嘘をつかせて、それによって自分が助かる、と信じた。「あなたのおかげで・・・」と。それが彼の信用を失わせ、この後のトラブルの元になった。神様が彼を生かし、富ませ、祝福してくださる、ということを忘れていたのだ。14章では、ソドムの王様の贈り物を拒否している。神様が富ませてくださる、そこに信頼して、ソドムの王に「わたしが彼を富ませたのだ」と言わせなかった。自分は今、本当に神様を信頼しているだろうか?人ではなく、人ではなく、神様を信頼しているだろうか?人の支持を土台に歩んではいけないと思う。民主主義で選ばれる大統領や首相ではなく、神様に使命を頂いて歩いている身だ。どこまでも人の支持ではなく、神様の御心を求めて歩んで行きたい。
2月5日(火)
「さあ、町と塔とを建てて、その頂きを天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(創世記11:5)
一つとなって高い塔を建てよう。それのどこが悪いのだろうか?麗しいじゃないかと思う。「一つになって」なんて・・・。今世界が求めていることではないだろうか?それを神が乱された?それはやはり「神抜き」ということが問題なのだ。結局人間が「一つになればこんなこともできるのだ」と神の場所に立とうとしたことを神は裁かれた。社会のこともそうだが、それだけではなく、今教会も自分も「神抜きで」やろうとしていないだろうか?「神」を計算に入れないであくせくあくせくしていないだろうか?神様、悔い改めます。あなたの御業を待ち望みます。あなたが私達の弱さに働いてくださることを、御業を見せてくださることを忘れないようにしてください。それを第一に求める者としてください。祈る者としてください。
2月4日(月)
「この時、神はノアに言われた、『あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい』」(創世記8:16)
7章で箱舟の戸を閉じたのが神様であるなら、8章で水がひいた時に箱舟から出てくるように命じたのも神であった。10月1日から40日後だから、12月10日ぐらいからからすを飛ばしたり、鳩を飛ばしたりして、地面の様子を探ってきたノアだったが、水がひいたとわかって、1月1日はおおいを外して自分の目で見て水が枯れていることがわかっても、箱舟から出るのは神の語りかけがあってからだった。自分で状況を見ながら、でも、神様の声を待ち望む、そのような姿勢がノアにはあった。自分も神様の声をどこまでも待ち望む者となりたい。自分で見ている状況に支配されるのではなく、神様の声に従って行く者となりたい。主よ、お語りください。あなたに従っていきたいのです。状況に左右される者、状況に支配される者にならないように、主よ、自由をお与えください。
2月3日(日)
「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(創世記7:16)
主が後ろの戸を閉ざされる時、それは、全て神の命じられたことをノアが完了した時だった。そして、その後ろの戸は、ノアとその家族を守る戸だった。それはある見方をすると、彼らから自由を奪い、外に出ることができなくなることだった。しかし、それが彼らを守った。神様が戸を閉ざされることがある。神様がうしろの戸を閉ざされることがある。もう後戻りできない、ということがある。でも、それは私たちを守る戸だ。出エジプト記の紅海を渡ったイスラエルの人々もそうだった。彼らはあの紅海を渡ることによって後戻りできなくなった。それが彼らを守ることだった。私がこれから歩んでいく時にも、もしかしたら「戸が閉ざされる」ということがあるかもしれない。でも、それは神様の守りの御業なんだ。そして、それは神様の御手の中にあることなんだ。だから、神様の「好意」を信頼していこう。神様がなされる時に、それは私たちにとって「嫌なこと」であるかも知れない。でも、全てをご存知である神様の「好意」であることを忘れないでいたい。私たちの他人に対する「好意」は「余計なお世話」「迷惑」になることもあるだろう。不完全な人間だから・・・。でも、それでも、「わかってもらえない」ことはつらい。(神様なんか、「わかってもらえないのかなあ・・・」といつも思われているのかもしれない・・・。)でも、神様の「好意」は全てのことをご存知の上での「好意」なんだから、信頼して大丈夫。大丈夫。神様、あなたが戸を閉じられる時に、あなたの最善を信じます。
2月2日(土)
「アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。」(創世記4:4)
羊を飼っていたアベルにとって、羊を供え物として犠牲にするのはどんな意味があったのだろうか?どんな思いがあったのだろうか?神様がアダムとエバに皮の衣を作るために羊を犠牲にされたことの意味を両親から聞いていたのだろうか?そうだとしても、自分で羊に手をかけるのはどんな痛みがあっただろうか?これは感謝の現れだったのだろうか?自分が神様にささげ物をする時に、このような痛みがあるだろうか?そして、その痛みをいとわないような大きな感謝があるだろうか?主よ、まず、私の目を開き、感謝にあふれさせてください。そうです、あなたが私のためにしてくてくださった大きな愛の行いに感謝します。イエス様を与えてくださったことに感謝します。十字架にあらわされたあなたの愛に感謝します。その感謝に突き動かされるような人生を歩ませてください。
2月1日(金)
「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せた。」(創世記3:20)
彼らが初めて見た死。それは自分達の罪のために動物が犠牲になるという出来事だった。「この木の実を食べるならば、あなたがたは必ず死ぬ」と言われた神様の言葉の深刻さをここで知ることになる。どんな思いが彼らに生まれただろうか。そして、その動物の犠牲によって、彼らの恥を隠す着物が作られた。主よ、私の恥を隠すために覆うために、あなたはイエスの十字架という大きな大きな犠牲を払ってくださいました。そのことを私がどれほど深刻に受け取っているでしょうか?どれほど大きな痛みがそこにはあったでしょうか?そのことを忘れないで生きていく者としてください。そして、そんなに大きな犠牲を払ってくださったあなたの愛に感動して今日の一日も過ごせますように。