12月31日(火)
「これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」(マラキ書4:6)
エリヤの再来であるバプテスマのヨハネのことを預言した言葉である。その言葉が「わたしが行くときにわたしが人々を撃つことがないように・・・」ということを示しているのがとても興味深い。私達も主の僕だ。主が私達に使命を与えてくださっている。主が痛みをもって、私達のまわりの方々を撃たないでも済むように、私達が遣わされているのだ。主よ、どうか私達にあなたのあかしをさせてください。あなたのことを証させてください。主よ、待ち望みます。どうかあなたの素晴らしさを、十字架の福音を大胆に語らせてください。人々が滅びに進んでいくことがないように・・・。

12月30日(月)
「川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」(ヨハネの黙示録22:2)
光の次は、水、その次はいのちの木だ。その実によって力をいただき、その葉によって癒しをいただく。癒し。ここ数年、この言葉をいろんなところで聞く。でも、それはやはり「手軽な癒し」「表面的な癒し」のように思えてならない。根本的な癒し、完全な癒しを神さまからいただきたい。そして、まわりの人々の中にそのような癒しの御業を経験する方々が起こされていくことを見せて頂きたい。主よ、癒しを与えてください。手軽な、「そんな気になる」癒しではなく、神さまによって深い所まで取り扱われるような癒しを、主よ、お与え下さい。

12月29日(日)
「その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない。」(ゼカリヤ書14:8)
黙示録の「光」に続いて、ここでは「生ける水」だ。命の水がエルサレムから流れ出る・・・しかし、これは世の終わりの天国の情景だけではなく、十字架によって与えられる命のことをも言っているように思う。イエスはエルサレムの都の外で十字架にかかった。そして、そこから命の水があふれ、私達を生かしている。それが東にも西にも流れている。それは夏も冬も止むことはない。私達の命は夏も冬も止むことはない。ハレルヤ!いつもいつも十字架から命が流れている。主よ、私に今日も、このクリスマスの後の、静かなときにも命の水を与え続けてください。

12月28日(土)
「あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから。」(ゼカリヤ書8:23)
人々が神を信じる者たちにこう言う日が来る、という。神さまに従って歩んでいる者たちに対して、神があなたと共にいるから、あなたと一緒に行かせてください、と言うというのだ。自分の日々の歩みはどうだろうか?自分の日々の歩みは神さまが共におられるということが周りの人にわかるようなものであるだろうか?本当に神さまが共にいて下さることを見せて頂きたいと思う。自分自身が見るだけではなく、まわりの人々にもそのようなあかしが立っていくような、そのような歩みをさせて頂きたいと思う。

「神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。」(ヨハネの黙示録21:23)
神さまの栄光が都を明るく照らす。これはどんな情景だろうかと思う。どんなすばらしい情景だろうかと思う。神さまの栄光を見ることができる。その中に生きることができる。神さまの栄光の中に置かれているとは何とすばらしいことだろうか?わくわくしてくる。楽しみだ。でも、想像できない。普通だったら「恐れて」言葉を失ってしまうようなものだろうけれども、あのイザヤのように「私は滅びるばかりだ!」と叫ぶようなものであるだろうけれども・・・。神さまの栄光に照らされて、神さまの栄光に生かされていく・・・。主よ、楽しみにして待ち望みます。主よ、あなたの栄光の中に生かされる日を楽しみにしています。

12月27日(金)
「大いなる山よ、おまえは何者か。」(ゼカリヤ書4:7)
山は大きいのだ。山が大きいことは間違いないのだ。しかし、その山も神さまの前には、神さまに従う者たちの前には、平地となる。山ほど動かないことが当然なものはあるだろうか?その山が動いてしまうのだ。その山が動かされるのだ。神さまの力はそれほどのものなのだ。考えてみればそうだ。その山自体を作られたのが、その山をして山たらしめたお方は神さまご自身なのだから・・・。だから、恐れるな、だからおののくな。主が共にいて下さるから。

「イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。」(ヨハネの黙示録20:4)
イエスのあかしをしたために「首を切られた」人々がいた。という。本当に恐ろしい話だと思う。そして、自分にもその覚悟が必要だと思う。今自分が置かれている状況を考えるならば、そんなことは想像がつかない。しかし、時代は動いている。そして、自分が生きている間にそのようなことが起こらないなどとは誰が言えるだろうか?それでも、恐れず福音を語る者でありたいと思う。恐れず、ひるまず、大胆に福音を語っていく者とされたいと思う。主よ、お助け下さい。あなたのことを大胆に語る者としてください。裁きと救いをしっかりと語る者としてください。

12月26日(木)
「エルサレムを測って、その広さと、長さを見ようとするのです。」(ゼカリヤ書2:2)
何のために測るのだろうか。城壁建設のため?それとも霊的な意味があるのだろうか?神様に測られるとは怖いような気がする。まともに測られたら、ひとたまりもないだろう。そんなところに神様の憐れみが注がれて、赦されているのだ。イエスが十字架に架かられてわたしたちが赦されているのだ。感謝。

「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。」(ヨハネの黙示録19:10)
ただ主だけを礼拝しよう。ただ主だけが礼拝される教会をめざそう。それだけを求めていこう。主よ、私の心の中に忍び込んでこようとする虚栄心から守ってください。あなたがほめられ、喜ばれることだけを喜びとしていく者としてください。そして、人を崇拝するものではなく、あなたを見つめていく者としてください。

12月25日(水)
「これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたはおのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。」(ハガイ書1:9)
これは会堂のことだけを言っているのではない。わたしたちの神様に対する態度全般について、問いかけられていることだと思う。自分はどうだろうか。神様のことをそっちのけで、自分のことに追われていないだろうか。主よ、あなたのことを第一に思い、あなたのことを考える者としてください。

「それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。」(ヨハネの黙示録18:8)
世の終わりのバビロンの裁きはあっと言う間の出来事だという。あっと言う間に繁栄を極めたバビロンは滅びてしまうという。だから、その時に人々が一瞬の時間しかなかったとしても、イエス様を救い主として受け入れることができるようにとにかく福音を伝えていこう。結果をその場ですぐに見なくてもいいじゃないか。一瞬の最後の時に思い出して悔い改めることができるように、とにかく伝えていこう。

12月24日(火)
「主なる神の前に沈黙せよ。」(ゼパニヤ書1:7)
神の前の沈黙。最近、その大切さ、その神の前の畏れの大切さを深く思わされている。神さまのきよさの前には私達は沈黙するしかない。沈黙の中で学ぶこと、沈黙の中で味わうことがたくさんあると思う。神さまの前には沈黙することが一番ふさわしい。主よ、あなたの御業を見せてください。主よ、あなたの前に静まります。そして、あなたの大きな事、あなたの愛、あなたの力、見せてください。黙らせてください。

「彼らは心を一つにしている。」(ヨハネの黙示録17:13)
心を一つにする。それは素晴らしいことだ。しかし、それも目的が違うとまた恐ろしいことでもある。彼らはサタンに心を売ることにおいてその心を一つにした。神に反逆することにおいて心を一つにした。バベルの塔もそうだった。一つになる時は、本当に注意しなければならない。一つにさせていただこう。しかし、それは主の前にひれ伏すことによって。

12月23日(月)
「諸国民のうちを望み見て、驚け、そして怪しめ。私はあなたがたの日に一つのことをする。」(ハバクク書1:5)
神の御業に驚く。神のなさることに驚く、その聖なる畏れ。神さま、そのような御業をもっともっと経験させてください。いや、そのようなことをなさる、というのがこの聖書の御言葉の約束だ。主よ、私の願いを、私の思いを遙かに超えた、神さま、あなたの御業を見せてくださいますように。主よ、あなたの御前に畏れを感じるようなあなたの大きな御業を・・・。主よ、私の霊的な感覚をとぎすませてください。そして、あなたのなさることを鋭く見ることができますように。

「人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。」(ヨハネの黙示録16:21)
神の御思いと、人の思いの間の大きなギャップを思わされる。神さまがどれほどの痛みを持っておられるかを思わされる。人は自分の罪ゆえに襲ってきた災いのゆえに「神を呪う」という。ああ、何ということだろうか?自分がこの時代に生かされているとしたら、人々が神を呪っている姿はどれほどつらいだろうかと思う。しかし、今も、自分もそのようなことをしていないだろうかと思わされる。神のみ思いを探って知らせて頂きたい。

12月22日(日)
「だれが彼の憤りの前に立つことができよう。」(ナホム書1:6)
神の怒り、憤り、その前には立つことができない。その怒りはどれほど恐ろしいものだろうかと思う。それなのに赦されている。それなのに受け入れられている。それはただただ、イエスの十字架によるのだ。ただただイエスの十字架の救いによるのだ。イエスの救いこそがクリスマスの喜びなんだ。そのことを大胆にのべ伝えていこう。

12月21日(土)
「主の声が町にむかって呼ばわる、全き知恵はあなたの名を恐れることである」(ミカ書6:9)
主を恐れる恐れ、それが私達の知恵の始まりだという。その恐れをもつ者にも「恐れるな!」と言われる神。神を恐れるときに初めてクリスマスの喜びが喜びになると思う。主よ、あのクリスマスの時に羊飼いたちに示した栄光を、羊飼いたちをめぐり照らした栄光を、教会の礼拝に、キャンドルライトサービスにあらわしてください。神さまのすばらしさに撃たれて、あなたに従う者たちが起こされますように。

「世々限りなく生きておられる神の激しい怒り・・・」(ヨハネの黙示録15:7)
神の激しい怒りか・・・。神は罪に対して本当に怒りを覚えられる。もう一度そのことを教えてくださってありがとうございます。あなたは罪に対して「いいよ、いいよ」というお方ではない。私達を救うためにひとり子をあの十字架にかけるほど、罪を憎んでおられる。罪に対して怒っておられる。そのことをもう一度教えてくださってありがとうございます。どうか、わたしの福音理解が浅はかな、薄っぺらなものになってしまわないようにお守り下さい。

12月20日(金)
「彼らは言う、『あなたがたは説教してはならない。そのような事について説教してはならない。そうすればわれわれは恥をこうむることがない。』」(ミカ書2:6)
このような恐れが襲ってくる。クリスマスの日曜日にそんな話をしたら、初めて来られた方はもう二度と来られないのではないだろうか、厳しい話ではなく、暖かい、ほのぼのとした話の方がいいのではないか、などと。でも、それは違う。一人一人を送ってくださるのは神さまだ。今までアドベントの間ずっと祈って神さまがそれに答えて送ってくださるのだ。だから、わたしは神さまが「語れ」といわれたことを語ればいいのだ。いや、語らなければならないのだ。クリスマスの喜びが本当の喜びとなるために、神さまが語れと導いておられることを語らなければならない。ガラス玉をダイヤモンドの代わりにしてはならない。それに、集まってこられる方々に対して、ダイヤモンドを隠しておいて、ガラス玉で済まそうなんて、その方々に対して失礼だ。主よ、あなたが「語れ」と導かれることを語ります。主よ、あなたの栄光を輝かせてください。

「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は・・・」(ヨハネの黙示録14:9)
13章で、この刻印がないとものの売り買いもできない、ということが書かれていたが、それはどんなだろうかと思う。しかし、そこで大変だからと、刻印を受けてしまうと、この何とも恐ろしい裁きを受け、「昼も夜も休みが得られない」という。ああ、人々の前でもハッキリした態度を持って、神さまに従っていかなければ・・・と思う。妥協するな、徹底的に神に従え。決して刻印を受けてはならない。この刻印は何だろうか?主よ、わたしの霊的な感覚をとぎすましてくださって、刻印が強制されようとするときに、それを見抜く力を与えてください。

12月19日(木)
「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜のいるこの大きな町ニネベを、惜しまないであろうか。」(ヨナ書4:11)
神さまが私達に対して持っている、大きなあわれみを思わされた。このヨナ書の中ではいろいろな言葉が心に留まったが、この最後の言葉の大きさ、この最後の言葉のありがたさの前にあって、他の言葉から語られたことが吹き飛んでしまうほどだ。あなたのあわれみに感謝します。あなたが、わたしのことをこんなに大切に思ってくださり、また、この私達のまわりの人々のことを大切に思ってくださっていることを感謝します。どうか、このクリスマスの時に、このクリスマスのうちにあらわされた神の恵みを多くの人々に、まわりの人々に語っていくことができますように。

「つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。」(ヨハネの黙示録13:10)
「666」の獣の登場だ。でも、そのど真ん中に、「忍耐と信仰」が記されているのは本当に意味が深いと思う。そして、絶対悪と見えるような者の支配に対しても、「剣で殺す者は剣で殺される」と、イエスが逮捕されるときにいわれた言葉が記されているのはまたすごいことだと思う。私達に必要なのは忍耐だ。信仰だ。神さまが必ず救ってくださる、苦しくても、悪のはびこるのを見ても、「忍耐」と「信仰」だ、という。自分のなすべきことが見えてくる。今の世界情勢の中で、どのように振る舞うべきか、人に受けがいいか悪いかではなく、神さまがどのように願っておられるのか、私達はどのようにすべきなのかが、わかる。主よ、あなたを信じて従っていきます。主よ、お守り下さい。

12月18日(水)
「あなたはユダの人々の滅びの日に、これを喜んではならず、その悩みの日に誇ってはならなかった。」(オバデヤ書12)
ユダが苦しむときにこれを自分の誇りの機会としたエドムの人々。神を恐れなければならないと思う。人が苦しみ姿は、それが極悪人であったとしても、それがおかしな宗教の教祖であっても、それが殺人犯であっても、それが「自業自得」のことであっても、神を恐れなければならないと思う。それが明らかに神の裁きであるならば、なおさらだ。自分自身も神の前に立てるような存在ではないことを忘れてはならないと思う。主よ、わたしを、教会を、アメリカの国を、日本の国を、神さまの前に恐れる者としてください。ある者に、ある国に、神の裁きが下るときに、あなたの前に恐れる者としてください。

「さて、天では戦いが起こった。ミカエルとその御使いたちとが龍と戦ったのである。」(ヨハネの黙示録12:7)
この地上の戦いは、天上の霊の戦いの単なる影にすぎない。本当の戦いは天上の戦いだ。あちらではどれほど壮絶な戦いがおこっているのだろうか?しかし、ここにあるように、私達の勝利は、神さまの勝利は確実だ、だから、恐れることはない。祈ろう。この地上の霊の戦いにおいても私達が勝利を見ていくことができるように、神さまの勝利の前味を味わうことができるように。主よ、わたしを祈り手にしてください。祈り手になります。あのモーセの手が上がっていたときに、イスラエルの人々に勝利が与えられたように、あなたの勝利を見せてください。祈らせてください。

12月17日(火)
「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。」(アモス書8:11)
「主の言葉を聞くことのききん」恐ろしいことだと思う。主の言葉によって生かされている私達にとって、これはどれほど恐ろしいことだろうかと思う。でも、この飽食の時代に食べ物のありがたさがわからないように、この御言葉をいくらでも読んだり聞いたりできる時代に、この主の言葉のすばらしさに目が閉ざされていることはないだろうか?御言葉があるのに飢えていないだろうか?主よ、この御言葉のすばらしさに目を開いてください。本当に御言葉によって今日一日を歩ませてください。この御言葉によって喜びを与えてください。御言葉によって生き生きと生かしてください。御言葉によって心を満たしてください。

「このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。」(ヨハネの黙示録11:10)
御言葉を語る者たち、神の預言の言葉を語る者たちは、ある時には人々を悩ませる。安穏と暮らしている人々を悩ませる。罪を犯しても平気だった者たちを悩ませる。神以外のものを生きがいとしていた者たちを悩ませる。神を神としない者たちを悩ませる。私達自身がその悩みから逃げないことが大切だ。御言葉によって悩まされたときに、御言葉以外の何かによって慰めをもらってはならない。御言葉によって悩まされて、慰められて歩んでいかなければならない。そして、私達自身が福音を語るときにも福音を水で薄めてはならない。福音を骨抜きにしてはならない。人が悩んでしまうことかもしれません。けれどもあなたの御言葉を、語れ、と示されたことを語る者としてください。

12月16日(月)
「あなたがたはわたしに求めよ、そして生きよ。」「あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。」(アモス書5:4,6)
私達の命は神さまにある。神さまにこそ私達の命の源がある。神さまから御言葉をいただいてこそ、生きていくことができる。心のチューニングをしよう。このように戒められているのは、私達がいとも簡単に、神さまを求めること以外のことで生きていこうとしてしまうからではないだろうか?主よ、あなたを求めます。今日も、あなたを求めて生きることができますように。そして、あなたによって生かされていることを実感できますように。

「すると、わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。その時、『あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない』と言う声がした。」(ヨハネの黙示録10:10−11)
御言葉は甘い。でも、それはまた苦い。この裁きの預言はヨハネにとって、どんなに心の痛むことだっただろうかと思う。でも、神さまが語れ、と言われたことについては、やはり語る責任がある。語らなければならない。しかし、腹が苦くなるほど、真剣に御言葉に取り組んでいるだろうかと思わされた。裁きが深刻であればあるほど、救いがすばらしいものとして受け止められると思う。表面的に、「恵み」という言葉で簡単に解決しないで、罪の恐ろしさ、裁きの恐ろしさを腹で感じ、そこで、救いのすばらしさを感じる者となれますように。

12月15日(日)
「ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう。」(アモス書3:8)
主よ、今日も、あなたの語られることを、あなたの言葉を語る者としてください。あなたの語ることだけを語る者としてください。主よ、今からでも、もっともっとわたしの心にあなたの言葉をお与え下さい。この預言者は「獅子がほえる時に、恐れないではいられないのと同じように、御言葉が与えられるときに語らないではいられない」と言っている。獅子にほえられたような勢いで、神さまから語られなければいけないと思う。主よ、お語り下さい。

12月14日(土)
「あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。」(ヨエル書2:28)
幻を見せてください。夢を見せてください。わたし自身が神さまから幻を、夢を見せて頂きたいと思う。聖霊様は私達に夢を与えてくださる方であり、幻を与えてくださる方だ。罪を示し、イエスの十字架の意味をハッキリと教え、イエスによる救いを与えて下さり、育ててくださる方であるだけではなくて、私達に夢を、幻を与えて、どんどん先に進ませてくださるお方だ。主よ、感謝します。そのような新しい願いを起こさせてくださり、新しい祈りを与えてくださったことに感謝します。どうか、幻を、夢を、聖霊様ご自身をお与え下さい。

「その時には、人々は死を求めても与えられず・・・」(ヨハネの黙示録9:6)
「人生は限りがあるから意味がある」という言葉に、うなずいたことがあった。でも、それは死というものを漠然としか捕らえていないときだろう。死を具体的に自分の問題、家族の問題として経験するときに、それは本当に恐れや不安が襲ってくるのだろうと思う。でも、神を信じない者たちにとって、そのような死さえも慕わしくなるときが来る、と言う。なんという恐ろしいことだろうか?そして、それを願っても与えられない・・・。しかし、考えてみれば、それは文字通り「地獄の苦しみ」だ。永遠の孤独、永遠の苦しみ。主よ、お助け下さい。あなたのことをもっともっと真剣に伝える者としてください。

12月13日(金)
「わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。」(ホセア書14:2)
赦しをいただいた者はくちびるの実をささげる。主にその賛美をささげる。主をほめたたえる。主よ、わたしのくちびるに賛美を満たしてください。ため息を取り除き、嘆きを取り除き、あなたへの賛美で満たしてください。もっともっと賛美させてください。現実の問題を無視するのではなく、それを見ながら、そこにも働いてくださる神さま、あなたの力を、あなたの愛を賛美します。どうか、わたしのくちびるに賛美を満たしてください。

「地に住む人は、わざわいだ」(ヨハネの黙示録8:13)
この4つのラッパのさばきは、「私達を支えるもの」に対する裁きだ。母なる大地、生命の源なる海、文明の発祥に関わる川、そして、月星太陽。すべて、ある人々にとっては「神」としてあがめられてきたものだ。そこに神は裁きを下されることによって、神の御支配が示されている。神ではないものを神とする私達に対して、それに対する裁きをもって、それが神ではないことを示される。災いだ。でも、それによって私達が神を知ることができるならば、その中にも神は招きを与えておられるのではないだろうか?

12月12日(木)
「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。・・・わたしのあわれみは、ことごとくもえ起こっている。わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。」(ホセア書11:9)
神さまが神さまであることが、怒りの中にではなく、赦しの中にあらわされることがここでわかる。神さまの「聖」なるお方であることも、それが、神さまのあわれみの中にあらわされていることがわかる。人ではなく、神さまだから、憐れんでくださる。主よ、あなたが聖なるお方であることを感謝します。主よ、あなたが神さまであることを更に示してください。更にあらわして下さい。

「それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。」(ヨハネの黙示録7:15)
神さまの聖所でいつもいつも神さまに仕える。そのような者でいたいと思う。いつもいつも主に仕える者でいたいと思う。詩篇の言葉を思い出す。「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にまさる・・・」本当にそう思う。御国が楽しみです。でも、この地上でもそのような歩みをさせてください。

12月11日(水)
「わたしがイスラエルをいやすとき、エフライムの不義と、サマリヤの悪しきわざとは現れる。」(ホセア書7:1)
神が癒しを与えられるとき、罪を犯している者の罪が明らかにされる。それは問題をごまかしての癒しではなく、本当に問題の部分を示し、まるで手術をするようにいやされるのだ。主よ、わたしをいやし、教会をいやし、一人一人をいやし、この国をいやし、日本を癒してください。それがたとえ、私達にとって痛みを伴うものであったとしても、癒しの御業をしてください。そのために必要なこと、それをなしてくださいますように。

「さあ、われわれをおおって、御座にいます方の御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでに来たのだ、だれが、その前に立つことができようか。」(ヨハネの黙示録6:16−17)
神さまの御顔が、恐ろしくてしょうがないとは・・・。何という悲惨。信じる者たちにとって、神さまの御顔は求める者であり、慕わしいものであるのに・・・。わたしたちをおおってくれるのは、洞穴や岩陰ではないのに・・・。死から命へ入れられていることを感謝すると共に、やはり大胆に福音を語っていくべきことを示された。主よ、人々を救いに導いてください。主よ、あなたのことを語る者として下さい。

12月10日(火)
「あなたがたの愛はあしたの雲のごとく、また、たちまち消える露のようなものである。」(ホセア書6:4)
自分の神さまに対する愛はどうだろうかと思わされた。一時熱くなっても、またたちまちさめてしまうようなものではないだろうかと思わされた。6章の1-3に出てくるその調子のいい言葉、そんなものではないだろうかと思う。ああ、本当に神さまの燃えるような愛に比べるなら、わたしの愛なんてなんて自己中心的な、なんて一時的なものだろうかと思わされる。主よ、あなたの愛の、何度も何度も赦して、立たせてくださるその愛のほんの一部でも与えてください。あなたに対して熱い思いを持ち続ける者としてください。

「これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。」(ヨハネの黙示録5:6)
七つの霊が神から世界に遣わされている。これは完全数の七なのだろうか、それとも、七つの地域、ということなのだろうか?いずれにせよ、わたしの所にも、神の霊が遣わされている。この七つの霊ということばに、身近なものを感じた。いまも、神さまはわたしのところに霊を送ってくださって、支えてくださっている。恐れがある、不安がある。でも、主は今もわたしをその霊をもって支えられる。主よ、お守り下さい。

12月9日(月)
「わたしは弓、つるぎ、戦争、馬および騎兵によって救うのではない」(ホセア書1:7)
主が私達を救われるのは武力によってではない!そのことを決して忘れてはいけない。では何によって?愛によって・・・。十字架によって・・・。でも、それで世の中に平和がくるかというと、やはりそうではないだろう。もし、自分の身に、自分のまわりの人々の身に、自分の家族の身に危害が及ぶときに、私達は武力を使って守らなくていいのだろうか?今まで、「やはり使わなければいけない場面がある」と思ってきた。でも、こんな時代になって、もしかしたら、聖書に従っていくと、本当は完全非暴力主義にならないといけないのかなあ、と思うことがある。神さまの奇跡だけを信じて・・・。この世の命はだれの命であれ、いつかは終わるのだから。そして、魂の救いこそが究極の救いなのだから・・・。そして、救いを与えるのは神だ、と言われるのだから・・・。

「彼らの冠を御座のまえに、投げ出して・・・」(ヨハネの黙示録4:10)
主よ、私達はあなたの前に行くときに、「よくやった、よい忠実な僕よ」と言われて冠を受け取るのが楽しみです。でも、その私達の冠も、またあなたを礼拝するときには投げ出したくなると言います。また、それも楽しみです。あなたにお会いするとはそんなにすばらしいことなんですね。楽しみにしています。この地上の生涯も守ってください。この地上の生涯でもあなたのすばらしさを前もって知ることができますように。天国で味わうその何パーセントだけでもいいです。そのすばらしさを前もって味あわせてください。

12月8日(日)
「あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉はすでに聞かれたので・・・」(ダニエル書10:12)
祈りは聞かれている。その初めの日から。私達はそのことを知らないだけで、本当はもう聞かれている。すでに聞かれている。だから信頼せよ。信頼して歩め。主はもう祈りを聞いて御業を始めておられる。その実現、それが目に見えるものになるためには、答えがハッキリとわかるためには、まだ時間がかかるかもしれない。しかし、神はすでにそれを聞いて、答えておられる。安心して歩もう。

12月7日(土)
「あなたが祈りを始めたとき、御言葉が出たので・・・」(ダニエル書9:23)
これはものすごい言葉だ。「祈りを始めたときに御言葉が出た」とは!主よ、あなたの御言葉を下さい。御言葉を下さい。祈ります。祈らせてください。祈ることを教えて下さい。御言葉が必要です。主よ、必死になって祈ります。聖霊よ、祈らせてください。祈りを教えてください。そして、御言葉による解決を与えてください。このダニエルのように、祈ったときに御言葉が出た!という経験を毎日のように与えてください。「祈りを始めたときに、御言葉が出た」すごい。

「勝利を得る者を、わたしは神の聖所における柱にしよう。」(ヨハネの黙示録3:12)
いやあ、この言葉もすごいと思う。私達を神の聖所の柱として用いてくださる。すごいと思う。私達をそこまで用いようとされていることを。そこまでそばにおいてくださろうとしていることを。主よ、聖所の柱となりたいです。聖所の柱としてください。

12月6日(金)
「あなたの命をその手ににぎり、あなたのすべての道をつかさどられる神・・・」(ダニエル書5:23)
わたしの命も神の御手の中にある。それは神を信頼している者たちにとって本当に大きな喜びである。わたしの命も神さまが一番いいと思われるときに、神さまがそのご栄光のために最善だと思われるときに取られるのだ。それは自分にとっても最高であり、家族や周りの人にとっても、その時はつらくても、それは最高のことなのだ。そう思うと、神さまの御手の中ににぎられている、というのは何という幸いだろうかと思う。主よ、あなたのみこころをなしてください。わたしの命について最高のことをなしてください。

「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(ヨハネの黙示録2:4)
やはり、どきっとする言葉だ。でも、それはこの言葉が自分に対して語られていることだろう。自分はあのイエス様の十字架のすばらしさ、神さまの愛の深さを知った、「最初の愛」を今も持ち続けているだろうか?あの時の最初の愛の喜びを持ち続けているだろうか?イエスのことを伝えることに対する情熱を今も持ち続けているだろうか?主よ、どうか初めの愛に戻してください。そして、何よりも伝道者としてください。イエスの愛の大きさを、感動を伝えて、イエス様のすばらしさを大胆に語る者として下さい。十字架の愛を・・・。十字架きちがいであることを恐れないようにしてください。

12月5日(木)
「一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。」(ダニエル書2:33)
世の大帝国を打ち砕くイエス・キリストの力。今、世界はまた戦争の時代に入ろうとしているのだろうか?どうなってしまうのだろうか?超大国アメリカはどこに行くのだろうか?テロリストたちは次に何をしようとしているのだろうか?どうであれ、最終的にはキリストがこの世の力を打ち砕くのだ。この世の力を粉々にしてしまうのだ。だから恐れるな。このダニエルとその友人たちが本当に大変な時代の中で、火の中にまで投げ込まれる所まで行ったのに、神さまは彼らを守ってくださった。このお方を信頼していこう。恐れるな。

「彼は右手をわたしの上において言った・・・」(ヨハネの黙示録1:17)
イエスの栄光の姿を見て、倒れたヨハネにイエスはその右の手を置いてくださった。イエスはそういうお方だ。私達が自分の姿とイエスの姿を見て、倒れ伏してしまうときに、神さまのきよさの前に、自分の醜さ、汚れた姿を見せつけられて、倒れ伏してしまうときに、主は私達の上に御手をおいてくださる。御手を置いてくださる。ああ、なんというあわれみであろうか?何という温かな手であろうか?主よ、感謝します。あなたが手をおいてくださるから立ち上がれます。

12月4日(水)
「川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。」(エゼキエル書47:12)
どこからその水が流れているかが大切なのだ。聖所から・・・。神さまのおられるところから、イエスの十字架から流れ出ていることが大切なのだ。自分を潤している命はどこから流れてきているだろうか?どこからそれがやってきているのだろうか?イエスの許に、十字架の許に、聖書の中に、その源泉があることが大切なのではないだろうか?主よ、あなたの所にいつもいつも水を汲みに行く者としてください。渇いてしまったとき、どうしようもなく渇いたときに、あなたから汲み、あなたに潤され、そうです、御言葉によって取り扱われ、御言葉によって命をいただく者と成らせてください。

「疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、火の中から引き出して救ってやりなさい。」(ユダの手紙22−23)
疑う者たちに対する愛。それをもっともっと与えられたいと思う。本当に愛をもって、それらの方々のために祈り、一つ一つその疑いが消えることを願ってていねいに語る者でありたい。もちろん最後は聖霊様の圧倒的な働きが必要だと思う。でも、そのために必死になって祈り、疑っている者たちが救われていく御業を見せて頂きたいと思う。あのトマスが疑ったがゆえに、私達もその姿を見て、慰めを受け、そこに働いた、そこに語られたイエスの言葉を思わされる。主よ、どうかこの面でもあなたの証し人と成らせてください。

12月3日(火)
「彼らには嗣業はない。わたしがその嗣業である。」(エゼキエル書44:28)
神さまご自身がわたしの相続すべきものである。祭司に言われたことである、と言うことは、これは私達すべてのクリスチャンに言われていることである。神さまだけを信頼し、神さまが必要を満たしてくださることを信じて前に進んでいく。そこで信仰が問われていると思う。主よ、あなたを嗣業として、あなたを当てにして歩む者としてください。神の国と神の義とをまず求めなさい。そうすればこれらのものはすべて添えて与えられる。この事を信じて、進みゆかせてください。

「わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。」(ヨハネの第三の手紙4)
そうだなあ、と思う。自分の本当の子供もそうだけれども、霊的に導いて主を信じる者になった人々が、信じるだけではなくて、本当に真実に真理の道を歩んでおられる姿ほど、励ましになり、喜びになることはないなあ、と思う。それと反対に、一人でも失われる人がいるのは大きな痛みだ。主よ、もう一度祈ります。一人一人をお守り下さい。一人一人にいつもいつも守りを与えて、導いてください。真理の中を歩むことができますように。

12月2日(月)
「あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ。」(エゼキエル書40:4)
主よ、あなたはわたしに何を示そうとしているのですか?わたしの証しすべきことは何なのでしょうか?何かもっとあるような気がする。もっと何かあるように思う。ここで福音を語るという使命、この教会を牧するという使命はもちろんだけれども、それに加えて特別にわたしに何かを示そうとしていると思う。主よ、あなたの示そうと思っておられることを示してください。そして、あなたの導かれる道に喜んで進んでいくことができますように。

「よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。」(ヨハネの第二の手紙8)
主よ、教会の一人一人のために、あなたが守りを与えてください。垣をつくり、あらゆるサタンの攻撃に対して、一人も奪われる者がいないようにお守り下さい。目を覚まして祈り続けることができますように。主よ、どうか守ってください。一人として、一人として奪われる者がいないで済むようにお願いします。

12月1日(日)
「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか。」(エゼキエル書37:3)
主の問いかけは「この骨が生き返るだろうか」という問いかけだった。わたしはどう答えるだろうか?どのように主の前に答えるだろうか?主は「あなたにはできます」という答えを期待しておられるのは明らかだ。でも、自分はどのように答えることができるだろうか?本当に「主よ、あなたにはできます」と信じていきます。主よ、あなたの奇跡を見せてください。そうです。人が造りかえられる奇跡を見せてください。あなたにはできます。あなたには何でもできないことはありません。そして、人が造りかえられること、それを一番喜びとしてくださるのはあなたご自身です。だから、このアドベントの時、わたしの中に、また教会の中に、新しい方々の中に、奇跡をなしてください。