8月31日(土)
「全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。」(詩篇100:1)
この言葉が、英語では有名な "Make a joyful noise to the Lord"ってやつ。喜びの音なんだ。きれいなそろった歌はすばらしい。でも、そんな洗練されていなくても、喜びにあふれた声が神さまに向ってあげられることがすばらしい。明日の日曜日もそんな礼拝となりますように。神さまをたたえる声が思いっきりあげられますように。きれいさもすばらしいけれども、何よりも心からの喜びがあふれますように。心からの賛美がささげられますように。
「だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持っているところに応じて、それをやりとげなさい。」(コリント人への第二の手紙8:11)
多く与えられているんだから、多く与えよう。持っているところに応じて・・・とあるのだから、その通りにしよう。主よ、惜しむ心から解放してください。このことにおいても自由を与えてください。お金に縛られたり、惜しむ心に縛られて不自由を感じることがありませんように。また、持っているところに応じてささげることができますように。神様に向って見栄をはることがありませんように。ありのまま、神さまに導かれるまま、心からの喜びをもってささげることのできる者としてください。
8月30日(金)
「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。」(詩篇94:19)
思い煩いの満ちるポイントがまた神さまの慰めのあふれるポイントだ。本当に思い煩いに支配されやすい自分だけれども、そこに神さまの慰めがある、ということは何という幸いなことだろうか?神さまを知っていることのすばらしさを改めて思い知らされる。もし知らなかったら、自分みたいな人間は本当にうじうじするか、その思い煩いが単なる取り越し苦労かどうか、一生懸命確認しようと奔走するだろう。そんな落ち着きのない生活になってしまうだろう。思い煩うな!イエスが繰り返し言われたことの意味を思わされる。今日も思い煩いがわたしのうちに湧いてくるときに、主よ、あなたの慰めをもって癒してください。
「それはあなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うた悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起こさせたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。」(コリント人への第二の手紙7:9−11)
パウロがコリントの教会に耳の痛い話をしたときに、彼らが悲しんだだけではなく、本当に悔い改めに導かれ、熱情を与えられたとは何とすばらしいことだろうか?自分は忠告を受けたときに、このようにできるだろうか?逆恨みをしてしまって、相手が何もわかっていないからあんなことを言うんだ、と反発しないだろうか?また、自分はそう思われるのを恐れて、言うべき事を言わないことがないだろうか?今年、何度も聖書を読む中で示される事だが、事なかれ主義は決して愛ではない。単なる自己保身であって、無関心だ。主よ、熱い思いをわたしのうちに満たしてくださって、そうすべき時には、愛をもって対決する勇気を与えてください。
8月29日(木)
「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、『わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神』と。」(詩篇91:1−2)
あまり現世利益的になりたくはないのだが、この詩篇の言葉を本気で信じていきたいと思った。信じていいんだと思った。信じていくときに神さまはすべてその通りにしてくださると思った。神さまが守ってくださる。神さまのもとに隠れ家があり、戦いの中でも休ませてくださる。困難の中でも笑顔を与えてくださる。平安を与えてくださる。力を与えてくださる。すべてを守り導いてくださる。そこに信頼して歩むことができるとは何という幸いだろうかと思う。主よ、今日もあなたの守りを与えてください。不慮の事故から守り、悩みの中にも平安と笑顔を与えてください。
「この務めがそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。」(コリント人への第二の手紙6:4)
本当に大切なことだと思う。どんなときにも、特に非難をされたり、自分が失敗をしたときなどに、何よりも神さまの僕としての姿を示していく。何も人に見せるためではなく、誇示していくためではなく、ただひたすらに神さまに忠実に従っていく。その姿を示していくことだ。主の守りが今必要だ。主の助けが今必要だ。主の力が必要だ。主の僕だから・・・。今日も主よ、一瞬一瞬あなたの僕として歩ませてください。
8月28日(水)
「いつくしみとまこととは共に会い、義と平和とは互に口づけし・・・」(詩篇84:10)
正義か平和か、ではなく、真理か愛かではなく、それが一つとなるところがある、という。世界情勢でも、人間関係でも、「平和を保とうとする」か「正しいことを言ったりしたりする」か、という二者択一の場面がおおいように感じる。でも、神さまの力では、神さまのみ手の中では、これが両立するようなそれが一つとなるようなことがあるのだという。見せかけの平和ではない、本当の真実の平和。みんながお互いガマンして、いや一部の弱者がガマンして成り立っていくような平和ではない。そんな平和がほしいと思う。そんな喜びのあるあゆみをしたいと思う。主よ、助けて下さい。愛をもって真実を語る者としてください。
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いている。」(コリント人への第二の手紙5:7)
見ゆるところによらずして・・・という聖歌があるが、そのままの言葉がここにあるとは今まで気づかなかった。見えるものに頼っていくのではなく、見えるものを判断基準にしていくのではなく、信仰によって神さまを計算に入れて、神さまの働き、神さまの奇跡を計算に入れて、生きていく存在なのだ。信仰によって歩む。言葉だけではなく、現実の経験としてここに生かしてください。本気で一つのことを信じていく者としてくださいますように。もっと信仰を増してください。信仰に生きる者としてください。
8月27日(火)
「わたしはエジプトの国から、あなたをつれ出したあなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」(詩篇81:10)
今年の教会のテーマ聖句だ。この言葉をもう一度教えて下さってありがとうございます。わたしたちを救って下さった神さまが大きなことをして下さらないことがあるだろうか?本当に大きく期待していこう。何よりもわたしたちが救われる、という奇跡を見せて頂いたのだから・・・。本当に大きく期待していこう。待ち望んでいこう。主が働かれる。今年、主は大きなことをして下さる。どうか更に救われる方々が起こされますように。またクリスチャンの中にリバイバルの御業が進んでいきますように。
「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。」(コリント人への第二の手紙4:18)
見えるものに振り回されるんだよなあ。本当に見えるもので一喜一憂してしまう。でも、目に見えないものに目を注いでいかなければ・・・。木の根っこが小さな木でも広く深く張っているように、見えない部分が大切なんだ。自分の信仰生活でもそうだ。見える部分だけ取り繕って、何かやっているかのように見せて・・・。牧師としての働きもそうだ。見える部分だけ一生懸命やっているかのように見せて、本当に見えない部分をおろそかにしていないだろうか?問われているように思う。本当に真実な歩みをしたい。
8月26日(月)
「こうして彼らは、神は彼らの岩、いと高き神は彼らのあがないぬしであることを思い出した。しかし彼らはその口をもって神にへつらい、その舌をもって神に偽りを言った。彼らの心は神に向って堅実ではなく、神に契約に真実ではなかった。」(詩篇78:35−37)
うーん、考えさせられてしまった。神の裁きを目にしたときに、人々は神を尋ねて、悔いて神を熱心に求めたという。しかし、彼らは本当に真実ではなかったというのだ。神に向ってもへつらい(何の意味があるのか?)、口先だけだったという。神の裁きを目の当たりにしても・・・という。でも、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があるように、そのときは結構真剣でも、そのとき限りで終わってしまうようなものだったのだろうか?いつもいつも苦しみがないと、神を見続けていられないのだろうか?考えさせられてしまった。本気で神さまを信頼して、人生を通して、金太郎飴のように「どこを切ってもイエス様」というような人生を送らせて頂きたい。
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく、これは霊なる主の働きによるのである。」(コリント人への第二の手紙3:18)
主の栄光を鏡に見るように!顔おおいなしに!あのモーセの輝き、モーセの顔の輝きも、わたしたちとイエス様との関係、イエス様を通しての神さまとの関係、聖霊様の働きを見るときに、くすんでしまう。そう顔おおいなしに神さまの栄光を表していく存在なのだ!ああ、何か今までの歩みがもったいなかったように感じる。もっともっと神さまの栄光を表していきたい。神さまのすばらしさにあふれて、喜びにあふれて歩みたい。どうせ同じ人生、どうせクリスチャンになったんだから、神さまの栄光を思い切って表す存在となっていきたいと思う。主よ、お助けください。
8月25日(日)
「しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。」(詩篇73:2−3)
これは本当に気をつけなければいけないことだと思う。周りを見て、特に自分に対して悪意を持つ者、高ぶって人を見下す者が栄えている、豊かなのを見て、調子よく生きているのを見て、それでねたみを起こしてしまってはいけない。自分と神さまとの関係がしっかりしていないと、どうしても周りが気になる。そして、批判が出てきてしまう。また、ねたみが出てきてしまう。いつも神さまご自身を見上げていこう。今日も神さまご自身を見上げていこう。主が働いて下さるのをしっかりと見ていこう。周りに振り回されるな!
8月24日(土)
「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしにおよんだからです。わたしが断食をもってわたしの魂を悩ませば、かえってそれによってそしりをうけました。わたしが荒布を衣とすれば、かえって彼らのことわざとなりました。わたしは門に座する者の話題となり、酔いどれの歌となりました。しかし主よ、わたしはあなたに祈ります。神よ、恵みの時に、あなたのいつくしみの豊かなるにより、わたしにお答えください。」(詩篇69:9−13)
神さまに真実であろうとするときに、困難に出会う事もある。批判されたり、「堅物」といわれたりする事もあるかもしれない。でも、あえてそのように生きたいと思う。そのように生きる事のできる幸いを思わされる。困難でも不利でも、神さまに真実でありたいと思う。人は変わる。人は本当に変わる。自分の言動を見ればそれは一目瞭然だ。だから、そこに失望して、ある人はお金を頼りにしたり、自分だけを頼りにしたり、する。でも、わたしたちは主を知っているから幸いだ。主を信頼して歩んでいこう。その主に対する信頼を土台として、人を信じていこう。何年か前に修養会の講師の先生が言われた言葉、本当に大切だと思う。「わたしたちはどんな人間関係も、信仰者同士の関係も、その間にイエス様がいて下さることが大切です。直接つながるのではなく、イエス様を間にしてつながる事が大切です。」アーメン。
「それはあなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、知ってもらうためであった。」(コリント人への第二の手紙2:4)
パウロがコリントの教会に厳しい手紙を書いたのは、人々を批判して悲しませるためではなくて、パウロの愛のほとばしりだった。愛ゆえに厳しい事を言う。本当に大切な事であり、またむずかしい事だと思う。自分の事だけを考えているなら、自分がどう思われるかを考えているなら、直面を避けるだろう。でも、本当に人を思ったら、忠告する事も必要なときがある。でも、それが本当に正しい事なのか、それとも、神さまに祈って行くべきことなのか、相手が忠告を本当にまっすぐに受け止めて、反省することができる人なのか、いろんなことを考えさせられる。でも、ある牧師の友人の言葉を思い出す。「あえて厳しい事を言うときには、相手を信じ、また働いて下さる神さまの恵みを信じる事が大切だ」と。主よ、本当にこの事について間違いがないように守って下さい。
8月23日(金)
「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである。」(詩篇68:19)
わたしたちが重荷を負っていくのではない。神さまがわたしたちの重荷を負って下さるのだ。キャンプの事も、わたしたちが重荷を負って行くのではない。神さまが先頭に立って重荷を負って下さっている。だから神さまに尋ねながら、期待しながら先日の聖書の箇所のように、「全力を尽くして主のわざに励む」のだ。主が支えて下さるから、主が負って下さるから・・・。右も左もわからない中で、とにかく「子供たちにとって楽しいキャンプを!」という事だけを考えて始めた六年前を思うときに、本当に思い煩いよりも「神さまが助けて下さる!」という前向きな気持ちの方が大きかったように思う。だんだんいろんなことが見えてきて、思い煩いも出てきてしまっていないだろうか?主よ、お助け下さい。あなたの御力を見たいです。
「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせてくださる神を頼みとするに至った。」(コリント人への第二の手紙1:9)
ここでパウロが言っているのは、やはりパウロもいつもは自分を頼みとしていたのだという事だろうか?ここで彼は、本当に自分ではどうにもならないような状況に追い込まれて、自分を頼みとするのではなく、神さまご自身を、死人をも生かすことのできる神を頼みとせざるを得なかったのだ。いったい自分はこのような状況に追い込まれた事があるだろうか?本当に神さま以外に何も頼るものがない、というところに追い込まれて、神さまだけを頼りにして・・・。今、人がいる、教会がある、家族がいる・・・本当に環境的に恵まれたところに置かれていて、神さまを頼りにするのを忘れていないだろうか?主よ、あなたを頼りにする者としてください。もし、神さま、あなたしか頼りにできるものがないというような状況に追い込まれたときには、自分の身の不幸を嘆くのではなく、あなたを頼りとする事ができる幸いを感謝させてください。
8月22日(木)
「わたしが床の上であなたを思い出し、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる。」(詩篇63:5−6)
神さまの事を思って、こんな思いになった詩人。ある意味うらやましい思いがした。自分もイエスの十字架を思うときに心が震え、涙する事がある。でも、床の上で神さまの事を思うとそれで心がいっぱいになり、うっとりする、という事があるだろうか?本当にそのような夜を過ごしたいものだ。子供の頃、悪い夢を見ないようにイエス様の事を考えながら寝た事があった。自分の子供にもそのようにアドバイスした事もある。本当にそうだ。イエス様のことを思いながら眠る事にしよう。今日から、他の事ではなく、神さまの事で心がいっぱいになって眠るようなそんな夜を迎える事にしよう。そして、この詩人のような経験をさせて頂きたいと思う。
「一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。」(コリント人への第一の手紙16:2)
献金についての細かい注意だが、ここに人々が日曜日に集まるようになっていたことがわかる。そして、献金が行き当たりばったりのことではなく、いつも準備をしておくべきことがここに示されている。決めたとおりに神さまの前に真実に献金をささげることが大切なことだ。自分もいつのまにか習慣化してしまって、痛みを感じなくなってしまっていないだろうか?当たり前になっていることはいいことではあるが、それが本当の献金の意味をまるで「税金」か何かと同じようなレベルで考えていないだろうか?感謝をもって思いっきりささげる者となりたい。
8月21日(水)
「あなたは国を震わせ、これを裂かれました。その破れをいやしてください。国が揺れ動くのです。あなたはその民に耐えがたい事をさせ、人をよろめかす酒をわれらに飲ませられました。」(詩篇60:2−3)
どうしても、この時期、去年のテロの事を思い出してしまう。次女の誕生から1年ということはもう、まもなくあれから1年ということだ。本当に震えた。本当に揺れ動いた。耐えがたい事が起こった。本当に神に叫ばないではいられなかった。自分の祈りは、やはり「癒し」だった。本当にわたしたちが癒されて立ち上がる事ができるように、怒りに支配され、不安に支配されないようにという祈りだった。今、また平和なのだろうか?見せかけの平和なのだろうか?思い出すとつらくなるあの時。でも、「見せかけの平和」にだまされて、ごまかされて、大切なものを見失っていないだろうか?主が本当の事に目を開いてくださいますように。人々が「平和だ」「平和だ」と言っている時に、気がつかない事、1周年のこの時、もう一度気づかせてくださいますように。
「だから愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」(コリント人への第一の手紙15:58)
キャンプが半分進んで、本当に忘れてはならない事だと思う。主にあっては、すべての労苦は無駄になる事はない!わたしたちの働きは決して無駄になる事はない。決して無駄になる事はない。神さまはすべての事を益としてくださる。神さまが御業をなしてくださる。時々、何でこんなに一生懸命やるかなあ、と思う事もある。でも、すべては無駄にならない、と思うと、やっぱり力一杯やりたいと思う。体いっぱい子供たちにぶつかっていきたいと思う。主が助けてくださる。主がすべてを良きにしてくださる。
8月20日(火)
「肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。」(詩篇56:4)
去年の9月11日から、「人ができる恐ろしいこと」の枠が広がってしまった。今も盛んにフセインが何かをする前にイラクを攻撃しておかなければ・・・という論調のニュースが聞こえてくる。何が起こるかわからない時代だ。でも、その中にあってもなお、「肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか」という聖書の言葉は何と力強いことだろうか。この言葉はこのような時にこそ意味がある言葉だと思う。まさに、ここでダビデは命をねらわれ、命からがら逃げていた。その中で語られた言葉なのだ。主よ、感謝します。このような時にも、「肉なる者ができること」はほんのわずかなことであることを教えてくださいました。魂の救いを与えてくださったあなたに感謝します。
「あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、一人ずつ残らず預言をすることができるのだから。」(コリント人への第一の手紙14:31)
御言葉の分かち合いの大切さを思わされる。みんなが学び、みんなが勧めを受けるために、みんなが預言をすることができると。みんなが神さまとの直接の関係を作り上げて、神さまとの関係の中で、御言葉を与えられて、それを分かち合っていく、教えられたことを分かち合い、それがお互いの力となり、喜びとなり、感謝となっていくようなそんな関係を教会の中で築き上げさせていただきたい。主よ、助けてください。一人一人が神さまから語りかけを頂いていくことができますように。
8月19日(月)
「神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)
悔いた砕けた心。本当に自分の弱さ、醜さを痛いほど知り、落ち込んでいる者の心を受け取ってくださる神さま。主の癒しと、赦しと回復の御業がそこになされていく。悔いた砕けた心。いつのまにか忘れてしまっていないだろうか?恵みが当たり前になり、当然の権利となり、喜びが薄らいでしまう。本来受け入れられるはずがないような者が、赦されるはずがないような者が、イエスの十字架によって赦されている。受け入れられている。本当に神さまの前に砕かれ、赦され、感謝にあふれて歩んでいきたい。
「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしはやかましい鐘や鐃鉢と同じである。」(コリント人への第一の手紙13:1)
今日からJOYJOYキャンプが始まるが、もしわたしたちの中に愛がなければ、愛がなければ、子供たちに対する愛がなければそれはただのやかましい一時に終わってしまう。主がわたしたちに与えてくださった愛。主がわたしたちに示してくださった愛。その愛を持って、一人一人の子供たちに接していくことができれば、と思う。そのことを気づかせてくださった主に感謝。一つ一つの出来事の中に神さまの愛を示してくださいますように。
8月18日(日)
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10)
神様はいつもタイムリーなお方だと思う。翌日にキャンプが始まる、そして、忙しい日曜日にこの言葉が語られるとは。本当にいつのまにか忙しさに振り回されて、神様が二の次になってしまってはいけないと思った。先週の月曜日のキャンプと修養会のための「連鎖祈祷」、ある方は旅行中、時間を覚えて祈りをささげたと言っておられた。忙しいからこそ、祈りを大切にする。あわただしいから、一時心を静める。今週、キャンプの一日一日にそのような時を持っていきたい。主よ、あなたを神と致します。
8月17日(土)
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」(詩篇42:1)
明日記念会をする三留さんの愛唱歌がこの曲だったと伺った。病の中で神様の臨在だけを求めて、神様が共にいて下さるという確かな感触を求めて祈り歌う方だったと思う。しかし、これは今日のわたしの魂の叫びでもある。主よ、わたしは、今日また、あなたの臨在を求めます。あなたが共にいて下さって、支えてくださいますように。あなたがお守り下さいますように。あなたを慕います。谷川を慕い求める鹿。それは渇いた地での鹿の姿だと思う。アメリカ西部の乾燥地帯の中に「鹿に注意」の看板を見た時に、ああ、この詩篇42篇の鹿は、このようなところに住んでいる鹿なんだなあ、と思わされた。主よ、今日もあなたの臨在を与え、あなたがわたしの魂を満たしてくださいますように。
「みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。・・・」(コリント人への第一の手紙12:29)
今日は、この「キリストのからだ」のところで、一人一人が違う!ということに心が留まった。みんなが違っていいんだ。いや違った方がいいのだ。ただ、「イエスが主である」という信仰告白の許に集まり、そして、主が与えてくださった一人一人への賜物が生かされて、用いられていくことが大切なんだ。教会での一人一人の働きが「出る杭は打たれる」というようなものであってはならないと思う。本当に主よお助け下さい。あなたのすばらしさを教会全体で表していくことができますように。「ねたみ」から解放してくださって、一部の人が用いられていく時に、全体が喜びを分かち合うような、そんな教会としてくださいますように。
8月16日(金)
「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」(詩篇37:7−8)
これは去年のテロの時に、神様から与えられた言葉だ。今、改めて読んでみると、本当に大切なことを語っているように思う。そして、あのような苦しみの中こそ、主に目を注ぐことが大切だと思った。単なるヒューマニズムや「団結」ということではなく、主に目を注ぐことが大切だと思った。悪いはかりごとが更に続くかもしれない。悪いはかりごとを今もたくらんでいる者たちがいるだろう。でも、そこで怒りに支配されたり、憤りに狂ったりする時に、それは「悪を行うに至るのみ」という。日々の歩みでもそうだ。本当に「これは悪意があるのではないか」と感じるような時にも、それに怒りで答えないこと、憤りに支配されないことが大切だ。主よ、今日も私の心をお守り下さい。怒りに支配されないようにお守りください。突然のことが起こってくる時に、憤りにとらわれることがございませんように。
「しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。」(コリント人への第一の手紙11:32)
いつもは何の気なしに読んでいる言葉が、心に留まった。主がわたしたちの悔い改めを求めて「懲らしめ」を与えられることがあるのだという。わたしたちが罪に定められることがないために、神様がわたしたちに懲らしめを与えられることがあるのだという。神様の懲らしめに対して、本当に敏感である者でありたい。敏感に神様の懲らしめを知り、悔い改める者となりたい。そのことを多くの人々に伝えていく使命も感じる。単に「神様はあなたの痛みをご存じですよ」ですませてはいけないと示された。もちろん、それも聖書のメッセージだ。でも、それと共に、神様が何かを気づかせようとして、罪を悔い改めさせようとして与える「懲らしめ」があるんだということも語っていかなければならない。そして、それが「愛」からくるのだ、ということも・・・。
8月15日(木)
「わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。」(詩篇34:1)
賛美が絶えない日々。賛美がいつもあるところ。そんな歩みをしたいと思う。そんな毎日を送りたいと思う。今、今日の自分はどうかと思う。賛美よわき上がれ、主をほめたたえる心よ、燃えよ。主よ、あなたの賛美を与えてください。数日前に「わたしの賛美はあなたから出る」という言葉があった。本当にわたしたちの賛美はわたしたちのうちにあるのではなくて、神様から出てくる。神様からあふれてくる。主よ、今日の一日も賛美で満たしてください。この詩人のような歩みをさせてください。そして、2節にあるように「苦しむ者はこれを聞いて喜ぶ」ということを見せてくださいますように。自分が喜びにあふれるだけではなくて、その喜びが伝染していくようなそんな経験をさせてください。
「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」(コリント人への第一の手紙10:23−24)
本当にこれは難しいことだと思う。「人のために」と恩着せがましくなることはないだろうか?自分が無理をして「人のために」っていうのは無理がたたって、自分をもそして、その相手をも苦しめることがないだろうか?他の人の益を求める。それが自然と喜びでできるような毎日でありたい。それが本当に心の底から喜びで、嘘のない、無理のない、歩みとなりますように。自分の益ではなくて、人の益を喜んで考えていく者としてくださいますように。
8月14日(水)
「わたしの時はあなたのみ手にあります。」(詩篇31:15)
ここまで歩いてきたこと、そして、今自分がここにあること、そして、今自分がしていること、思い出していく時に、本当に自分で考え、自分で準備し、自分で画策したことではなく、自分の時がまさに神様の御手の中にあるんだということを思わされる。この詩人のような苦しみはない。この詩人のような悩みを感じているわけではない。平安の中で、平和の中で、「わたしの時は神様の御手の中にある」と言っている。でも、次に嵐が襲ってきた時に、この言葉を覚えていたい。「嵐も神様の御手の中にあります」と。主よ、この事をいつも覚えさせてくだい。平和な時だけではなく、嵐の中でも、いや、嵐の時だからこそ、「わたしの時があなたのみ手にある」ということを。
「わたしはすべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。」(コリント人への第一の手紙9:19)
この自由。人に仕える自由。それが「できるだけ多くの人にイエスを伝えるため」というのだから・・・。権利を利用しない自由、権利を主張しない自由。本当にイエスにあって、自由を与えられていることのすばらしさを感じる。何でだ?それはやっぱりこの福音の力だろうか?この福音が伝わっていくことが喜びであり、この福音によって変えられていく人々が起こされていくのが喜びであり、この福音によって生かされているのが喜びであり、この福音自体が喜びであり・・・。何事も義務でやることは重い。でも、喜びですることは楽しい。今年のキャンプも喜びで満たしてください。「義務」となってしまうことがありませんように・・・。
8月13日(火)
「たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。」(詩篇27:4)
大変な時でも、苦難や困難、誤解や戦いがあるときにも「わたしはみずから頼むところがある」ということができるのは何という幸いであろうか?何という祝福だろうか?神様から慰めをいただき、癒しをいただくから、戦ってゆけるという時がある。この方はわたしの力であり、支えである。この方はわたしの命の源である。本当にそう思う。主よ、日々の歩みの中で、こうして、あなたのもとに力の供給をいただき、支えられていることを、笑顔で歩めることを感謝します。次に大嵐が襲ってきた時に、どうか主よ、わたしがあなたに支えを求め、力を求めることができますように。
「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。」(コリント人への第一の手紙8:1)
自分は何だろうか?自分はどうだろうか?知識に頼っていないだろうか?本当に愛があるだろうか?自分のことばかり考えていないだろうか?愛によって生かされているだろうか?今週の礼拝の御言葉が問われてきていると思う。主に愛されていることを喜んでいることだけが「わたしの愛のうちにいる」ということではない。互いに愛し合うことが、「わたしの愛のうちにいる」ということだ。イエス様の愛のうちに歩むことができますように。あなたに愛されていることに感動させられ、動かされて、人を愛することのできる者となりますように。主よ、今日も場面場面であなたのみ声を聞かせてください。愛することを教えてください。
8月12日(月)
「大いなる会衆の中で、わたしの賛美はあなたから出るのです。」(詩篇22:25)
わたしたちの賛美の源は、神様ご自身にある。主ご自身がわたしたちの賛美の源である。主がわたしたちに賛美を与えてくださる。あの牢獄の中のパウロとシラスの賛美を思い出す。彼らの賛美も決して自分たちが絞り出すような賛美ではなく、神様ご自身からあふれてくるような賛美だったのだと思う。何か、わたしたちが工夫をして、小細工をして、「賛美を盛り上げよう」なんて考えるよりも、心からあふれる賛美をすべきだと思う。主が賛美を導いてくださる。主が賛美を与えてくださる。そう思うとすごく楽しみであり、気が楽であり、肩の力が抜けて、やっぱり本当の賛美ができると思う。賛美は本来そのようなものであると思う。主よ、あなたの賛美を満たしてください。
「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされたものであり、また召された自由人はキリストの奴隷なのである。」(コリント人への第一の手紙7:22)
この節はものすごいパワフルだと思う。身分が幸せ、不幸せを作るのではない、自分が置かれた状況が幸せ、不幸せを作るのではない。奴隷であっても自由であり、自由人であっても奴隷なのだ。わたしたちは、主によって自由とされた者であり、キリストの奴隷なのだ。主よ、あなたの自由で満たしてください。そして、あなたの僕として歩み喜びを満たしてください。主よ、あなたがわたしの主です。あなたの命令を今日も与えてください。そう、あなたが命令を与えてくだされば、従います。従うことを学ばせてください。
8月11日(日)
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る。」(詩篇20:7)
去年もやはり同じ頃にこの言葉を読んで、やはり同じように感じたかもしれないが、キャンプが近づいてくると、本当に一つ一つのことをしっかりと決めていかなければいけないと思う。時間に追われて、いつもいつも「何か忘れていることはないだろうか」と考え、いろんなことを思いめぐらす。しかし、そんな中で、いつのまにか「じぶんたちが一生懸命やっている」と「戦車を誇り、馬を誇っている」というところに陥っているのではないか、と思わされる。神様がこの事でイニシアチブを取ってくださって、先頭に立って歩いてくださっていることを忘れないでいたいと思う。そして、主に祈って、期待して、待ち望んで歩んでいきたい。主がすべてを守り、支え、楽しく、そして、伝道の機会となるように。子供たちにはっきりと神様の愛を伝えることをしたいと思う。主よ、あなたがこの戦いのリーダーです。導いてください。
8月10日(土)
「あなたは私の主、あなたのほかにわたしの幸はない。」「わたしは常に主をわたしの前に置く。」(詩篇16:2,8)
8年前の明日、幸が生まれた。そして、この聖書の言葉から、「幸」という名前を付けた。ただ神様を自分の幸いとしてくれる事を願って・・・。それから8年か。その間、本当に自分はそのことを娘に伝え続けたであろうか?親自身イエス様だけを自分の「幸い」として歩んできただろうか。それを娘に見せてきただろうか?そう思うともっともっとはっきりと神様の事を子供たちに伝えていく事の大切さを思う。自分自身がどのようにしてイエスを救い主と受け入れ、そして、今日、この方を主として歩んでいる事を。「仕事」として牧師をしている事は知っているだろう。けれども、ひとりの人間として、「主を常に前に置く」という歩みをしているだろうか?主よ、今日の一日を覚えて下さい。ただ、土曜日であるという事だけではなく、明日の礼拝の準備をしなければならないから、というのではなく、ひとりの信仰者として、常に主をわたしの前に置く、という一日としてください。
「そもそも、互いに訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。」(コリント人への第一の手紙6:7)
どきっとする言葉だ。「なぜ、むしろ不義を受けないのか」とパウロは語る。でも、本当にできるだろうか?それは「神様が知っておられる」という平安から来るのだろうか?それとも、完全に自分に死んでしまっているからできるのだろうか?「訴える」ところまで行かなかったとしても、人間関係の中でも、「自分の正しさを主張しないではいられないことがないだろうか?自己弁護したくなることが多いのではないか?でも、聖書は、「むしろ不義を受けなさい」という。主よ、あなたを待ち望みます。あなたが与えてくださる平安を満たしてください。あなたの平安でわたしを満たしてください。人に対して自己弁護しなくても大丈夫なところまで、わたしに平安を与えてください。
8月9日(金)
「主よ、立ち上がってください。人に勝利を得させず、もろもろの国民に、み前でさばきを受けさせて下さい。主よ、彼らに恐れを起こさせ、もろもろの国民に自分がただ、人であることを知らせてください。」(詩篇9:19−20)
本当にそう思う。でも、彼らではなく、「わたしに」自分がただ人である事を知らせて下さい、という思いで読んだ。神様の御力を見せていただき、自分の小ささを感じることが今の自分には大切な事だと思う。主よ、助けて下さい。キャンプも守りの姿勢ではなく、ただ、けがや事故がないようにというだけではなく、本当にこの事を通して、神様の事を伝えていく事ができますように。神様の事を子供たちに、そして親に伝えていく事ができますように。また、今年も、これを通して教会に導かれる方々が起こされますように。主よ、あなたの御力を見せて下さい。あなたの圧倒的な御業を見せて下さい。
「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。」(コリント人への第一の手紙5:7)
主よ、この厳しい言葉をありがとうございます。時代は「何でもいいだろう」という時代です。「ゆるし」の名の下に、悔い改めのない「ゆるし」がまかり通っています。小さなパン種も、神様に示していただいて、わたしの心の中から、わたしたちの心の中から取り除いて下さいますように。何でもいいだろう、とごまかしてしまう事がないように。愛の名の許の無関心がまかり通る事がないように助けて下さい。主よ、わたし自身、あなたの召しに心から従っていく事ができますように。人間関係に配慮する余り、無関心と同じ結果になってしまう事がないように。愛は行動である事をいつも忘れる事がありませんように。
8月8日(木)
「主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます。」(詩篇5:3)
主が聞いて下さる。待っていて下さる。だから、わたしも待ち望もう。主が語って下さり、主が聞いて下さる事を待ち望もう。朝、まだ、何も心に入ってくる前に、先ず、神様に語り、神様に待ち望もう。主よ、あなたを待ち望みます。先ず、あなたを待ち望みます。雑音を聞くのではなく、先ず、あなたに聞く事ができますように、人に訴える前に、先ずあなたに訴える事ができますように。主よ、助けて下さい。あなたの光を照らして下さい。そのために毎日の生活を整える事ができますように。主よ、今日の一日もお支え下さい。
「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」(コリント人への第一の手紙4:7)
自分はどうだろうか?心の隅々までも、一点の曇りもなく、すべて、神様の恵みであると信じ、受け入れているだろうか?そのことを本気で、純粋に感じているだろうか?3章の言葉がもう一度迫ってくる。「あなたは肉の人だからねたんだり争ったりするのではないか」と。自分の力、自分の持っている何かはすべて神様の恵みによって与えられたものであると信じ、ただ神様の栄光があらわれる事を求めているだろうか?自分の栄光を求めていないだろうか?冷静に考えれば、すべては恵みだと思う。自分の努力とか、敬虔さ、熱心さなんて本当に恥ずかしいものだと思う。でも、そこに神様の恵みが注がれて、今、生かされている。でも、うっかりするとそのことを忘れて、自分の栄光を密かに求めていたりする。せこい人間だと思う。主よ、憐れんでください。一点の曇りもなく、あなたの栄光を求めていく者としてください。
8月7日(水)
「主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」(詩篇4:8)
平安。何に平安を求めるのか?何が平安を与えてくれると信じるのか?この詩人は言う「それは神だけだ」。神は言われる「わたしだけだ」。けれども、どれほど、他のものに平安を求める事が多い事だろうか?自分の努力、人の言葉、人のサポート。そして、神様からの平安を待ち望む事がない・・・。本当に平安を与えて下さい。主よ、お助け下さい。他のものではなく、主よ、あなた自身に求めます。あなた自身を待ち望みます。平安を与えて下さい。
「あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」(コリント人への第一の手紙3:3)
6日の神の奥義としての「知恵の言葉」を与えられない、理解できない理由として、「肉の人」という言葉が使われている。そして、「ねたみや争いがある事自体があなたがたが肉の人である証拠だ」とパウロは言う。肉の人。自分はどうだろうかと思わされた。ねたみや争いから本当に解放されているだろうか?そして教会はどうだろうか?本当に人々をこの「肉の人」から解放されるように導いているだろうか?ものすごい語られる。主が2章、3章と語って下さっている。現状維持から霊的に、質的にもっと高いレベルの教会へとわたしたちを導いていることを感じさせられる。主よ、語って下さい、導いて下さい、どのように「肉の人」のレベルから解放されて、あなたの奥義を知らせていただけるかを。御霊が働いて下さっている事を感じる。目を覚まさせていただいた事を感じる。主よ、感謝します。もっと教えて下さい。
8月6日(火)
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。」(ヨブ記42:5−6)
ヨブの解決は、ただ、神ご自身に語っていただくことだった。どんな神学も、どんな理屈も超えて、神様ご自身に語っていただくことによって解決された。そして、神の語りかけの前には、本当に悔い改める事だけしかできなかった。でも、本当にこれがわたしたちの解決だと思う。神様に出会い、神様に語っていただくこと。どんな気の利いた一言も、どんな立派な一言も違う。神学的に正しい説明でもない、神様ご自身が語って下さる、それがどれほど大きなことであろうかと思う。主よ、今日も語って下さい、あなたが語って下さい。私に語り、今日、出会うお一人ひとりに語ってください。
「しかし、わたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。」(コリント人への第一の手紙2:6)
1−5節では、「十字架の言葉」を語った事が書かれている。けれども、6節以降では、もう一歩深い奥義としての「知恵の言葉」について書かれている。そして、それは御霊が語って下さる事だという。御霊が神の深みを究めるものだ、という。これは新しく神様から語られた事だ。今まで、ここを読む時には、5節までの「力がない時に、十字架の言葉だけに集中する事によって神の力があらわれる」ことのすばらしさを教えられてきた。でも、今日は、この「円熟している者の間で語られる知恵の言葉」を求めるように示された。主よ、これからの歩みの中で、御霊によって教えられる「知恵の言葉」が何であるか示して下さい。主よ、あなたの御言葉は何一つ無駄に書かれたわけではないはずです。主よ、あなたが語って下さい。
8月5日(月)
「わしがかけのぼり、その巣を高い所につくるのは、あなたの命令によるのか。」(ヨブ記39:27)
わしが高い所に巣を作るのは神様の命令なのだ。何か、今日はそのことに感動を覚えた。一つ一つの動物の習性を命じられたのは神様なのだ。何と言うことだろうか?何とすばらしいことだろうか?何と大きな神様だろうか、そして、何と行き届いた神様だろうか?言葉にすると何か感動が薄れてしまうのだが・・・。自分の表現能力がないのか、それとも、言葉にしてはいけない種類のことなのか、わからないが・・・。
「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。神は真実な方である。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。」(コリント人への第一の手紙1:8−9)
神様はわたしたちを責められるところのない者にしようとされている。神様は真実な方だから、そうして下さる、という。なんというありがたい事であろうか?わたしたちは救われ、罪赦されただけではなく、きよめてくださる、という。内側からつくりかえてくださるという。神様はそういう方だ。朱に交われば赤くなる、でも、主に交わればきよくなる。主よ、あなたとの交わりをもっと深いものにして下さい。もっと親しい交わりに導いて下さい。主よ、こんなもんじゃないと思います。もっともっと深みに導いて下さい。
8月4日(日)
「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳をその逆境によって開かれる。」(ヨブ記36:15)
苦しみによって救われる。逆境によって耳が開かれる。本当にそうだなあ、と思う。もちろん、その最中はこの苦しみを早く取り去って下さい、と祈らないではいられない。でも、苦しみの中で必死に祈る祈り、それは本当に必要なものであると思わされる。主よ、だから、逆境の中でわたしの耳を開いて下さい、わたしの目を開いて下さい。その苦しみが取り去られることを願うだけではなく、神様、あなたからのメッセージを聞くことができますように。心の耳を開いて下さいますように。いつもいつも神様が、人の言葉やいろいろな出来事の中で私に語ろうとしておられることに対して敏感でありますように。
8月3日(土)
「神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ。」(ヨブ記33:14)
一つは夢の中の幻。もう一つは病。それらを通して神は語られる、とエリフは言う。42章で、ヨブは正しいことを言い、3人の友人は間違ったことを言った、と神様にさばかれているが、エリフについては何も言われていないので、おそらく、正しいことを言っているのだろうと思うのだが、神様は病を通しても語られることがあるという。自分がちょっと体の調子が悪くなると、「神様は何を私に語ろうとしておられるのだろう」と待ち望むよりは、「早くこの苦しいのが何とかならないかなあ」とか「これが調子よくなれば、あれもできるのに、これもできるのに」とか、そんなことばかり考え、祈っている。病気だけではない、一つ一つの出来事に込められた神様のメッセージ、それを聞き取る耳が自分には必要だと思う。主よ、今日の一つ一つの出来事の中のあなたのメッセージを聞き取る耳を与えて下さい。
「こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。」(ローマ人への手紙16:18)
自分の腹に仕える者たち。これは異端のリーダーのことを言っているが、また、わたしたちが気をつけなければいけないことであろう。異端のリーダーたちも最初は純真な思いで求めたのかもしれない、一生懸命だったかもしれない。サタンも最初は天使だったとよく言われる。そこで、イエスに仕えないで、自分の利益を求めていった時に、道を外れていってしまった。そして、純粋な人々ほど惑わされる。自分の腹に仕える人々に純粋な人々がだまされる。ある人がエホバの証人となってしまった妻を救出するために、いろいろ聖書を調べて、ある牧師のところに書いてきた手紙の言葉を思い出す。「本当の聖書のメッセージを知っている皆さんが、もっともっとそのことを伝えて下さい。本物のメッセージをもっと伝えて下さい。」
8月2日(金)
「あの時には、全能者がなおわたしと共にいまし・・・」(ヨブ記29:5)
神様がわからなくなること、それほど怖いことはない。苦しみ、悲しみを乗り越えることはできたとしても、それは神様が共にいて下さるという確信があるからだ。そして、やがてトンネルには出口があると信じているからだ。でも、ここで、ヨブは、「あの時には神様が共にいて下さったのに・・・」という思いに支配されてしまっている。でも、ヨブ記のこの後の展開を見ていくならば、そう思う時にも、そう感じる時にも、神様は共にいて下さる、神様はご計画を持っておられる。トンネルには出口がある、ということを教えられる。神様が見えなくなる時にも、神様はそこにいて下さる。神様が感じられない時にも、神様はそこにいて下さる。感謝します。今日の歩みの中で、神様、あなたが見えなくなった時にも、あなたを信頼していくことができますように。ヨブにそうしてくださったように、あなたご自身を表してくださいますように。
「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばせるべきである。」(ローマ人への手紙15:1−2)
「正しいこと」を振り回して人を傷つけることが多くはないだろうか?自分だけが満足して、周りの人々がついていけない、ということがないだろうか?本当に弱い人の弱さを思うことができるように、そして、それを「になう」ということは重荷を負う、ということだ。損をするわけではない。人を見て、見返りを求めて、主にを負うのではなく、人を見るのではなく、神様の愛を見て、神様から力をいただいて人を愛することができますように。そのためにも主よ、あなたがいつも力を下さい。そして、あなたが力を下さるこの祈りの時を、御言葉を思いめぐらす時を主よ、大切にすることができますように。あなたとのパイプをもっと太く太くさせて下さい。
8月1日(木)
「見よ、主を恐れることは知恵である。」(ヨブ記28:28)
主を恐れることが知識のはじめだという言葉が箴言では有名だが、ヨブ記の中にこの言葉があるのには気がつかなかった。それもヨブの言葉の中に・・・。ヨブは決して高慢ではなかったと思う。自分の正しさをあくまでも主張したけれども、ヨブは神がどれほど大きな存在であり、自分がどれほどちっぽけな存在であるかを知っていたように感じる。神を恐れる。自分はどうだろうかと思う。神を恐れて歩んでいるだろうか?妻を恐れて歩んでいないだろうか?人を恐れて歩んでいないだろうか?神を恐れる。神は一番甘く見ていないだろうか?「神は赦してくださるだろうが、あの人は許さないかもしれない」そう思う時はないだろうか。主よ、本気であなたを見ていくことができますように。本気であなたのことを見ていくことができますように。
「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」(ローマ人への手紙14:4)
この言葉にはどきっとした。主にある兄弟姉妹は他人の僕。僕仲間なんだ。何かうれしくなってきた。兄弟姉妹、という言葉もすばらしいが、イエス様のしもべ、これがまたすばらしい。自分がイエスに従うように、自分がイエスに献身するように、同じような思いで主に従っている仲間。生きるのも主のため、死ぬのも主のため。ハレルヤ!感謝します。あなたに感謝すると共に、そのような僕仲間が与えられていることに感謝します。