4月30日(火)
「わたしを迎えるものはだれでも主のものとし・・・」(士師記11:31)
このエフタの愚かな誓いは何だろうか?動物が出てくるとでも思ったのだろうか?それとも自分の奴隷か何かだったら、何とも思わないで生け贄にしたのだろうか?本当に愚かだ。でも、わたしたちはだれでも、「神様あなたにすべてをささげます」と言っておきながら、実際に神様が「これをささげなさい」と言われた時には、「え、それですか?それだけは勘弁してください」と言わないだろうか?自分もそうではないだろうか?どうでもいいものは簡単にささげられても、本当に大切なものをささげるとなると、本当に痛みを感じさせられる。でも、本当のささげものは痛みを感じるものなのだ。痛みを感じないものは本当の意味でささげものではないのではないだろうか?主よ、ささげものをささげさせてください。本当の意味でのささげものをささげさせてください。
「安心して行きなさい」(ルカによる福音書7:50)
安心して行きなさい。なんて、いい言葉だろうか?なんてありがたい言葉なのだろうか。イエスに救われた者たちは、罪赦された者たちは、「安心して行く」ことができるのだ。罪の深刻さは消えない。罪の結果は決してなくならない。でも、罪を赦された時に、「安心して行く」ことができる。今日も、安心して生きよう。主が赦してくださったのだから・・・。
4月29日(月)
「そうして彼らは自分たちのうちから異なる神々を取り除いて、主に仕えた。」(士師記10:16)
ため息が出るような乱れた時代の中で、だれが本当の意味で神に従っているのかわからないような混乱の中で、この16節には、人々の真剣な悔い改めが見えると思う。異なる神々を取り除く・・・。これはわたしたちにとってはどんなことを指しているのだろうか?あのイエスの山上の説教の一節を思い出す。「右手が罪を犯させるならば、それを切って捨てなさい。」自分のまわりで神様から目をそらさせようとするものがあったり、神様よりも大切になりそうなものがあったら、それは取り除かれなければならない。主よ、お助けください。あなたを何よりも大切にしていくことができますように。また、あなたよりも大切にしているものがあるならば、それを示してください。そして、主に対する献身の思いを持って今日を過ごすことができますように。
「それは力がイエスの内から出て・・・」(ルカによる福音書6:19)
イエスの力が流れ出る。主よ、その力をわたしにも下さい。イエスの内から流れ出る力を与えてください。主よ、あなたの力をいただきたいです。どうしたらいただけるのか。求めること。イエスにさわること。せっぱ詰まって一生懸命の人々のように求めること。切実な求め。主よ、わたしの内にある求めはまだ、真剣なものではないですか?主よ、導いてください。もっともっと切なる求めへと引き入れてください。試練が必要なのでしょうか?戦いが必要なのでしょうか?生ぬるいところに置かれているのでしょうか?あなたの力が流れ出るような、あなたの力に満たされていくような、そんな者にしてください。
4月28日(日)
「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアン人をわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自分の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。」(士師記7:2)
これはものすごく大切なことだと思う。自分たちは、たくさんの人々との協力で何とか先に進めると思っているかも知れないが、それが、神を頼ることからわたしたちの目をそらし、本当に神様に信頼していく時に神様がすべてを導いてくださることを見逃してしまう。本当に今の自分にとって、一番大切なのは、神様への信頼だ。そして、その姿勢を教会の方々に伝えていくことではないだろうか?主よ、わたし自身がだれよりもあなたを信頼していけますように。人々の協力を取り付けるために動き回るのではなく、あなたがしてくださることに従っていくことができますように。主よ、お助けください。
4月27日(土)
「しかしあなたは今行く道では誉を得ないでしょう。」(士師記4:9)
神に選ばれたバラク。そのバラクが神から「わたしは敵をあなたの手に渡すでしょう」と言われたのに、神に信頼するのではなく、女預言者デボラを頼り、あなたが一緒に行かないならいやです、と答えた。人を頼ってはいけない。たとえその人が霊的な指導者であっても。神様を信頼する。神様の御言葉を信頼し、歩んでいく、それが大切だ。主よ、わたしも本当にあなたを、あなただけを頼って、人々と共に歩んでいく者としてください。人々を当てにするのではなく、人々を頼るのではなく、神様、あなたを頼ることができますように。
「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せてきたとき・・・」(ルカによる福音書5:1)
この言葉に釘付けになっている。人々が神のことばを聞くために押し寄せてくる・・・なんて本当に経験したい。主よ、助けてください。こんなことを主よ、してください。神の言葉を語りますから、あなたの言葉を忠実に語りますから、主よ、送ってください。明日の礼拝に人々が神の言葉を聞こうとして、押し寄せて来ますように。祈ります。
4月26日(金)
「彼らがどこへ行っても、主の手は彼らに災いをした。」(士師記2:15)
主の手が災いになる・・・。そんなことがあるのだ。神に従わない時に、主の手がわたしたちにとって災いになるのだ。あのヨナの話を思い出す。ヨナが神様にそむいて、違う地に出て行こうとした時に、神は嵐を与えて、ヨナを呼び戻された。神様に従うことがどんなに幸いなのか、神様に従わないことがどんなに災いなのか、それを思う。でも、また主に従っていく時にも嵐がやってくることがある。どこで主に従っているか、従っていないか見分けることができるだろうか?それはやはり心の平安だろう。主に従っていく時に、平安がある。主よ、ただあなたの導きに従っていく者としてください。
「その言葉に権威があった」(ルカによる福音書4:32)
イエス様の言葉には権威があって、ほかの学者たちとは違っていたという。わたしたちは聖霊によってイエス様の権威を与えられた者だ。そのわたしたちはいつの間にか、また学者たちのように権威のない言葉を語っていないだろうか?主の権威、聖霊様による権威。悪例たちも従うような権威をわたしたちは持っているはずだし、持つべきだ。主よ、どうか与えてください。人におもねるのではなく、神様の権威を持って語る者としてください。神様の御業をわたしたちを通して現してください。
4月25日(木)
「彼らは、かえって、あなたがたのわなとなり、網となり、あなたがたのわきに、むちとなり、あなたがたのとげとなって・・・」(ヨシュア記23:13)
徹底性がここでは求められている。イエスの「剣を取る者は剣で滅びる」という言葉から、物理的な戦争は否定されるが、それが高じて、霊的にも骨抜きの平和主義になってしまっていないか。今日、わたしたちが霊的な戦いにおいて妥協するならば、それは罠になるのだ。そう言う意味では本当に厳しさがあると思う。イエスに従う道にはやはり厳しさがあると思う。楽しいし、喜びの道だ。日々賛美がわいてくる道だ。でも、そこでも、霊的な戦いはあり、その戦いに一つ一つ妥協なく、勝利していくこと、そのことを語られた。自分にとっては、それは十字架の福音を守ることであり、大胆に語っていくことだ。主よ、お助けください。この点で妥協をすることがありませんように。
「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(ルカによる福音書3:16)
イエスは聖霊と火とによってバプテスマをお授けになるお方。主よ、最近このことを忘れていました。このことが頭にありませんでした。何かすごく新鮮に感じます。霊の力、聖霊の満たし、本当に今のわたしに必要なものと思います。いつの間にか、方法を考え、頭で考えていたように思います。主よ、今わたしに、教会に必要なのはこの聖霊の満たしであり、あなたの霊の注ぎであることを今朝感じています。主よ、どうかお働きください。主よ、聖霊と人のバプテスマをわたしに与え、そして、教会に与えてください。ペンテコステまでの3週間、祈り続けます。主がこの御業をなしてくださいますように。
4月24日(水)
「祭司ピネハス、および会衆のつかさたち、すなわち彼と共に行ったイスラエルの氏族のかしらたちは・・・それを良しとした。」「イスラエルの人々はそれを良しとした」(ヨシュア記22:30、33)
ここに、人々が「良し」とした、とは書いてあるが、「神が良しとされた」とはどこにも書いていない。どこからでも見えるような大きな祭壇を造って、そして、将来、同じ神を拝んでいることの証明のために・・・などという言い訳をした民に対して、それも、「もし、こんなことがあったらいけないから・・・」などと、仲間を信頼しない言葉で語った彼らに対して、その説得力に負けてしまった指導者たちの問題を見る。本当に、神様の導きを求めていかなければいけないと思う。神様の導きをもっともっと求めていかなければいけないと思う。神様に求めていたら、結果は違ったのではないだろうか?逆にピネハスとかしらたちは彼らを説得し、悔い改めに導く使命があったのではないだろうか?主よ、あなたの導きを求めていく者としてください。
「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」(ルカによる福音書2:7)
一人の新しくクリスチャンになった方が、こう言っておられた。「人のために祈れる、ってすばらしいこと。そして、いろんなことを祈り出すと一日時間があっても足りないんじゃないかと思う。でも、先生の働きはそういうものだから、すばらしいと思う。」ほんとうだなあ、と思った。だから、ほかのことを犠牲にしても、祈ることを大切にしていきたいと思う。責任の大きさをも思わされる。忙しくて、祈る暇がない、なんてことになってしまったら本末転倒だ。主よ、祈りと御言葉の御用に用いてください。
4月23日(火)
「あなたがたは・・・いつまで怠っているのですか。」(ヨシュア記18:3)
本来なら、進むべき所に進むのを怠っていることはないだろうか?いや、たくさんあると思う。状況に無理やり押し出されるまで待っていてしまって、それはそれで神様は許してくださっているのだろうけれども、本当はもっと積極的に進んでいくべきところを、怠ってしまっていることはないだろうか?本当に神様の御心を知って歩んでいきたい。主よ、語ってください。主よ、あなたの遣わされるところに今日も、出て行かせてください。大胆に、失敗を恐れないで進みゆく者としてください。
「時が来れば成就するわたしの言葉・・・」(ルカによる福音書1:20)
上に書いたことに関連して、この言葉が語られていると思う。怠らないで積極的に進んでいくと共に、「時が来れば成就する」ということを、はっきりと信頼していくことも大切だと語られていると思う。自分の力で、自分の判断で進んでいくのではない、神様の時を見極める、そういう態度だろう。そうだ、あのイスラエルの人々はもう少しのところで神様の時を見逃してしまうところだったので、ヨシュアは警告したのではないだろうか?ヨシュアの警告もまた神様の道具だったと思う。神様はどんなものをもって神様の時を示されるか、わからない。ある時はトラブルと思えるようなことを用いなさることもあるだろう。主よ、あなたの御声を、あなたの警告を無視するようなことがありませんように。そして、あなたの力を、あなたの大きさを信じる者としてください。
4月22日(月)
「山地はわたしどもに十分ではありません。かつまた平地におるカナン人は、ベテシャンとその村々におるものも、エズレルの谷におるものも、みな鉄の戦車を持っています。」(ヨシュア記17:16)
14章のカレブとの大きな違い。カレブは、「彼らは強いですが、主が共におられますから、必ず勝つことができます」と言ったが、エフライムとマナセとは「この地は狭いし、彼らは強い」と否定的な面しか見なかった。いろいろな問題があるかも知れないが、必ず勝つことができます。本当にそう思う。主が共におられるから・・・。そこにだけ希望を見ることができる。確かにいろいろと問題は大きい。でも、主が共におられるから、希望に立って、進んでいくことができる。恐れることはない。主よ、カレブの信仰を与えてください。
「週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。」(マルコによる福音書16:2)
早くイエスのみ体に油を塗りたい、そう願った女達は週の初めの日の朝早くに墓に行った。そして、彼らが最初の復活の証人になった。この特権。この幸い。それを自分も毎朝、毎朝、経験していきたい。主に会うために、また新しい恵みをいただくために、新しい奇跡を拝するために、毎朝、毎朝、主の前に出て、力をいただこう。主よ、あなたが待っていてくださっていることに心から感謝します。主よ、お語りください。主よ、遣わしてください。
4月21日(日)
「そしてわたしは、自分の信ずるところを復命いたしました。」(ヨシュア記14:7)
まわりの10人が「あれは無理です、やめましょう」と言う中で、神様を信頼して自分の信じるところを人々に語った、カレブ。それによって彼は命の危険をも感じるようになる。けれども、神様に命を与えられて、生き延びることができたのは、10人の方ではなくて、このカレブの方だった。神様の前に自分の信ずるところを人々に対して語る。あのルターがそうであったように、本当に神様の助けが必要だと思う。主よ、あなたの前に立たせてください。自分の考えではなく、あなたの御言葉、あなたの導きを待ち望んでいけますように。あなたの願われることがなんであるかを教えてください。
4月20日(土)
「主のさしずを求めようとはしなかった。」(ヨシュア記9:14)
人の言葉に惑わされて、主のさしずを求めようとしなかったイスラエルの指導者達。この姿の中にわたしたちに対する警告が込められていると思う。主との命の関係の中で導かれて歩むことの大切さを思わされる。戦いにおいては人々はアイのこともあり、緊張感があったであろう。しかし、ギベオンの人々が策略を練って、和睦を乞うような態度で出てきた時に、人々の緊張感はなくなってしまって、主に聞こうとはしなかった。会堂のこともそうだ。状況や人々の言葉以上に、主がどのように導いておられるか、主がどんな願いを持っておられるか、主が何をされようとしているかを見極める目、待ち望む態度が今、必要だと思う。恐れるな、おののくな、「強く、また雄々しくあれ、あなたがどこに行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。」(1:9)そして、本当にサタンのだますような働きに対して、気をつけて、神様に尋ねて歩んでいくことが大切だ。
「ピラトは群衆を満足させようと思って・・・」(マルコによる福音書15:15)
ピラトは群衆を満足させようと思った。自分が正しいと思うことではなくて、人々が求める求めに答えることに終始した。人々を説き伏せるべき人が、人々に白黒をはっきりと語る権威のある人が、その責任のある人が、人々を満足させようと思った。自分はどうだろうかと、いつも思わされる。人々を満足させることではなく、神様の語ろうとされることを語り、神様が望んでおられると信じることを伝えていく責任があると思う。もちろん、人から聞く謙虚さをいつも失わないでいたい。でも、人の顔を恐れるのではなく、神様が人を通して語られることを謙虚に聞き、神様が自分に対して語ってくださることを伝えていく、その大胆さを主よ、与えてください。
4月19日(金)
「民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません。」(ヨシュア記7:3)
エリコとアイとではエリコの方がずっと立派だったし大きかったようである。そのエリコを滅ぼしたイスラエルの人々にとって、アイの町は赤子の手をひねるようなもんであったように思えたのではないだろうか?けれども、それは間違いだった。簡単に見えることでも神様の力によって、歩んでいかなければいけないのだ。神様に信頼して歩んでいくことが大切なんだ。新しいところに責めていく時に、大切なのは自分たちの力と問題の大きさとの間の力関係ではない。神様に従っているかどうかである。自分たちの力に信頼するのではなく、神様の力に信頼して歩んでいきたい。
「心は熱しているが、肉体が弱いのである。」(マルコによる福音書14:38)
この言葉はイエスの励ましなのだろうか、慰めなのだろうか、それとも叱責なのだろうか。ここ数日、花粉症がまたひどくなってきて、体が思うようにならない。そして、それが心をも骨抜きにしてしまう。主よ、助けてください。弱い体を持った者です。どうか、あなたの御業によって心に熱いものを満たし、その心の熱さが体にも力を与えるような、そのような経験を与えてください。主よ、今日、祈りに導いてくださったことを感謝します。あなたが、祈りたいという思いを与えてくださっていることを感謝します。どうかゲッセマネで主が祈られたように祈らせてください。
4月18日(木)
「民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので石がきはくずれ落ちた。」(ヨシュア記6:20)
石垣は崩れ落ちた。イスラエルの人々の大声によって石垣は崩れ落ちた。町を毎日毎日、何も口を開かないで回り続けた。イスラエルの人々。夜、宿営に帰ると愚痴をこぼす人はいなかったのだろうか?でも、人々は従った。それはヨシュアに神の軍勢の長が現れ、ヨシュアが彼の前にひれ伏したからだった。ヨシュアに迷いはなかっただろう。神が共におられる。神が導いてくださる。だから、大丈夫だという平安があったであろう。主よ、今あなたとの結びつきに生かしてください。人の声ではなく、あなたの声を聞く者としてください。あなたの声に従う者としてください。人の意見を聞きます。けれども、それ以上の時間をあなたの導きを聞くためにつかうことができますように。
「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう。」(マルコによる福音書13:2)
40年以上の年月と、多くの人々の労力によって建て上げられたこのエルサレムの神殿。それをたたえる人々に対して、「これらも破壊されるんだぞ」と言われたイエス。わたしたちは地上では旅人であることをもう一度思わされる。どんな立派な建物も、神様の大きさの前に、神様の力の前には本当にちっぽけな存在であって、それらを褒め称える時に、それは本当に小さなものであることが示される。会堂のこと、本当に祈っていかなければいけないと思う。しかし、その会堂が偶像にならないようにと祈る。
4月17日(水)
「箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に・・・」(ヨシュア記3:15)
祭司たちが足を踏み出した時は、まだそこには川が流れていた。水が流れていた。岸いっぱいに水があふれていた。そして、その足がその水につかると同時に水がせき止められた。あの紅海が分かれた時には、人々はもうかわいていた地に踏み出したが、今回は水があふれているところに踏み出した。わたしたちの歩みの中で、紅海のような時もあるが、どちらかといえば、ヨルダン川のような時の方が多いと思う。足を踏み出すまでは道が開かれていないように見える。でも、神様の側ではもう道が用意されている。"God will make a way, where there seems be no way"だ。
「『あなたは神の国から遠くはない』。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった」(マルコによる福音書12:34)
「遠くはない」という言葉は意味深だ。でも、どうしてなんだろう。「遠くはない」と言われたあと、誰もイエスに問う者がいなかったとは・・・。もっといろいろ聞きたくならなかったのだろうか。たとえば「どうして、まだ入っていないのですか?」「どうしたら入れるのですか」「たとえば誰が入っているのですか」と聞く人はいなかったのだろうか?やはりパリサイ人はへりくだって人に聞くことはできなかったのだろうか?でも、本当に人の前にへりくだるのは大変なことだと思う。あなたの前に、人の前にへりくだる者としてください。
4月16日(火)
「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。」(申命記32:49)
神はどうしてこんなことをされるのだろうか?自分が入ることのできない地を見渡せとモーセに命じられる。どうせ入れないならば、見なくてもいいのではないだろうか?ヘブル人への手紙11:13には「これらの人々はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」とある。地上ではわたしたちは旅人にすぎない、そのことをモーセも知っていたから、自分がそこに入れなくても、その地を見るだけで、心が躍ったのではないだろうか?自分がそこに入ることが許されなくても、そこに自分の導いた民が入ると思っただけで心が躍ったのではないだろうか。自分の歩みの中にもそういうことがあるかもしれない。ずっとそれを夢見て、待ち望んでいたことを、自分は見れないで去っていく、そういうことを経験することがあるかも知れない。その時に、このモーセの姿を思い出そう。地上では旅人であり、寄留者であることを忘れないでいよう。
「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」(マルコによる福音書11:23)
疑わないで信じること・・・。本気で神様を信じることが今求められていると思う。山は山だ。自分の力で動かすこともできなければ、動くなんてことは常識では考えられない。だから、このイエスの言葉は本当に意味が大きいと思う。神様、この山を動かしてください。わたしの心の中にある山を動かしてください。神様が本当に大きなことをしてくださると信じて歩んでいけますように。またこのNJ・NY地区の日本語を使う方々がなかなか教会に来ることはない、という山を動かしてください。待ち望みます。毎年、救われる方が一桁にすぎないという山を動かしてください。
4月15日(月)
「彼らは食べて飽き、肥え太るに及んで、他の神々に帰し、それに仕えて、わたしを軽んじ、わたしの契約を破るであろう。」(申命記31:20)
物質的に恵まれている時が危機でもある。物質的に恵まれるのは、神様が与えてくださっているという面もあるのに、それがかえって、神様から離れて、他の神々に仕えるようになるきっかけになるという。気を付けていたい。わたしたちは安定した生活を求める。食べることに思い煩わないですむ生活にあこがれを覚える。けれども、本来、思い煩わないのは、お金があるからであるべきではない。神様がおられるから、神様が備えてくださるから思い煩わないですむのだ。お金があるから思い煩わないならば、それは結局お金を信頼しているのだ。主よ、必要が満たされた時に、安定した生活が与えられた時に、気をつけることができますように。主よ、あなたを信頼して歩む者としてください。
「何をしてほしいと、願うのか。」「わたしに何をしてほしいのか。」(マルコによる福音書10:36、51)
今、これを聞かれたら、27節の「人にはできないが神にはできる」こと。つまり「人が救われること」と答えたい。でも、自分の心を深く深く探っていく時に、どうして人が救われることを願っているのかを尋ねていく時に、「人が喜ぶ姿を見たいから」「一人でも多くイエス様の愛を知って欲しいから」「罪とそのさばきから救われる方が起こされるように」というものに「自分の牧師としての成功」なんていうものが混じっていないだろうかと思う。こんなことを意識すること自体、やはりそのような思いにとらわれているのかも知れない。主よ、人を愛することを教えてください。自分を愛するのではなく、自分のためにするのではなく、人を愛する者としてください。このヤコブとヨハネを簡単に批判できないわたしがいます。いや、この二人の姿はわたし自身の姿です。自分を捨て、自分の十字架を負って歩ませてください。
4月14日(日)
「そのような人はこの誓いの言葉を聞いても、心に自分を祝福して『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』と言うであろう。そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう。」(申命記29:19)
頑固な心で歩いても平安がある、なんてことはあり得ない。なのに、「わたしには平安がある」と言いきるとはどういうことなのだろうか?自分の気持ちに嘘をついているのだろうか?意地を張っているのだろうか?それとも「平安」をはき違えているのだろうか?平安の意味が違ってしまっているのだろうか?本当の平安を知らないのだろうか?意地を張ること自体が平安とは違うので、それだけで違うんだろうなあ。でも、自分も意地を張ることはないだろうか?神様に対して・・・。「大丈夫ですよ、このことは、あなたに頼らなくても・・・」みたいな・・・。
4月13日(土)
「それをレビ人と寄留の他国人と孤児と寡婦とに与え・・・」(申命記26:12)
十分の一がレビ人だけではなく、貧しい人々にも与えられるために用いられたことは新しい発見だ。献金を捧げることは幸いだ。でも、それが教会が贅沢をするために用いられると問題だと思う。豪華絢爛な教会堂はいらない。仕えるために、本当に機能的で人々に伝道できるような教会堂が必要だ。「受けるよりも与える方が幸いである」ということは、「教会」自体にも言えるのではないだろうか?ザイオン教会の方々はわたしたちにたくさん与えて下さっている。わたしたちも仕えることができますように。与えることができますように。
「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる。」(マルコによる福音書9:23)
神様には何でもできないことはない。神を信じる者たちにも何でもできないことはない。信ずる者にはどんなことでもできる。「私を強くして下さる方によってどんなことでもすることができる」信じていきたい。神様のなさることを拝見していきたい。教会堂のことでも、神様の栄光を拝していきたいし、信仰という面でも成長させていただきたい。信ずる者にはどんなことでもできる。信じていこう。人の力ではなく、人の力ではなく、神様の御業を。
4月12日(金)
「あなたはかつてエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主がそこからあなたを救い出されたことを記憶しなければならない。」(申命記24:18)
新約の時代に生きているわたしたちにとっては、自分は罪に死んでいた者であったのに、神がそこから救って下さったことを忘れてはならない、ということだろう。自分が元々どんなところから救われたのか、忘れてはならない。どんなに大きな愛を神様からいただいたのか忘れてはならない。大きな愛を神様からいただいたのだ。たくさんのものを受け取ったのだ。そして、それを覚えていて、人にもしなさい、ということだ。神様の愛を知ってただ「うっとり」していてはいけない。そのことを覚えて、人にも同じようにすること、そこに生きていきたい。
「イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、『なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう』」(マルコによる福音書8:12)
主よ、あなたは今もこの深い嘆息を持っておられるのではないでしょうか?「しるし」を求めるわたしたちに対して、深いため息をついておられるのではないでしょうか?主よ、見ないで信じる者にして下さい。明日のことを思い煩わない者として下さい。主がして下さることを、主の最善を信頼して生きていく者として下さい。主よ、あなたが助けて下さい。イエス様の十字架という最高のしるしをしっかりと見据えていく者として下さい。
4月11日(木)
「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」(申命記21:23)
木にかけられた者は神にのろわれた者だ・・・。こののろわれた者に、イエスがなって下さった。それはなんということだろうかと思う。神にのろわれた者・・・。イエスがわたしたちの罪を背負って、罪の固まりになられた時に、それは本当に恐ろしいことだったのだと思う。その深刻さがわかっているだろうか?わたしたちはちょっとしたことで、心が重くなることがある。心が重く、先に進めなくなるような思いになることがある。でも、そのつらさも、「神にのろわれた者」とは桁違いなことだろう。それをイエス様は経験して下さった。イエス様は経験して下さった。
「すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。」(マルコによる福音書7:35)
耳が開ける時に、舌のもつれも解けて、話し出したという。自分も舌がもつれるように感じる時がある。説教をしていても舌がもつれるような思いになる時もある。それはもしかしたら、神様の語ることを聞かないでいる時ではないだろうか?神様が言われることを聞いていく時に、舌は自然と神を賛美するのではないだろうか?神様、あなたの御言葉を聞かせて下さい。聞かせ続けて下さい。耳を開いて下さい。そして、あふれ出る喜びをもって講壇に上らせて下さい。主よ、日曜日もそうさせて下さい。
4月10日(水)
「また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。」(申命記17:16)
どんなに馬がたくさん必要だとしても、エジプトに帰ってもいけない、という。エジプトに帰ったら馬がたくさんあるのに・・・という場合であっても、決してエジプトに帰ってはいけない。つまり救われる前の生活に帰ってはいけない。また、それはエジプトがどれほど魅力のあるところであるか、ということも示している。本当はエジプトから出た方がどれほどすばらしいかと思うのだが、それがよく見えずに、エジプトの方が魅力的に見えることがあるのではないだろうか?特に「馬が必要」というようなときに・・・。これから馬が必要なときがあるかもしれない。そのような時にこそ注意していきたいと思う。馬をも与えて下さるのは神様だということを忘れないでいたい。
「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。」(マルコによる福音書6:52)
イエスはパンの奇跡で何を悟ってほしかったのだろうか?イエスの支配力であろうか?イエスの力を信じてほしかったのだろうか?心配しないで信頼していけば大丈夫だということだろうか?主が共におられるなら何の心配もないということだろうか?わたしたちは一つ一つのこと経験していかないと、なかなか神様を信頼する、ということができないものだと思う。あのときも助けて下さった神様は今回も最善に導いて下さる・・・と信じていきたい。そして、前回とは違う形で助けて下さるかもしれないけれども、それでも最高のことをして下さる、と信じていける。それがわたしたちの幸いだと思う。
4月9日(火)
「あなたがたはあなたがたの神、主の子供である。・・・あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。」(申命記14:1−2)
神の民だから、神の子供だからという自覚の許に神に従っていく。私達もイエスを信じる者とされたということは、神に選ばれていることでもある。ならば、その選びにふさわしい歩みを要求されているのである。それは特権であると共に責任である。イエスを信じる者はすべて神の子であるが、それはヨハネ1章12節にあるように特権であると共に、また責任でもある。きよめてください。生活を整えてください。神の子としての歩みができますように。
「恐れることはない。ただ信じなさい。」(マルコによる福音書5:36)
この言葉がそのまま語られた。最近、将来のことについてなど、いろいろ思い煩うことが多かったが、恐れる必要はない。神様が共にいてくださる。すべては整えられて、守られていく。自分にとって思いがけない方向に状況が進んでいったとしても、大丈夫だ。主が共にいてくださる。主が恐れることはない、ただ信じなさい、と言ってくださる。だから恐れるな。主よ、感謝します。
4月8日(月)
「見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。」(申命記11:26)
私達の前に置かれたのは祝福とのろい。そのどちらかでしかない。どこかで中間があるかのような甘えが出てきてはいないだろうか?祝福か、のろいか。これは本当に厳しい選択である。でも、また簡単な選択でもある。どちらがいいか、そんなことは決まり切っている。決まり切っているのに、なかなか従えない。人間の「自己中心性」は本当にしぶといものだと思う。目先のものに振り回され、easyな方向に進んでしまうのも本当に弱い存在だと思う。主よ、お助けください。
「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコによる福音書4:27)
種から芽が出て、育っていくのは、神様の業なのだ。どうしてそうなるかはわからなくても、そのシステムがどうなっていようと、神様がそうしてくださるという事実を私達は知っていくのだ。下手に説明しようとするからおかしくなる。主が育ててくださる。主が成長させてくださる。そこに信頼して祈っていくことが牧師にとってとても大切な仕事だと思う。祈らせてください。祈ります。
4月7日(日)
「それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。」(申命記8:16)
この8章はものすごいところだと思う。私達が出会う苦しみによって、神様はついには幸いを与えようとしておられる。わからないことはある。理解できない苦しみがある。苦しみに遭う時に、「これは神様が与えておられるのだ」とはどうしても思えないこともある。けれども、そのような苦しみを通して、神様は私達に幸いを与えようとしておられるとは!神様の与えようとする幸いはどんなものだろうかと楽しみになる。苦しみが大きければ大きいほど、神様の与えられる幸いはどんなものかなあと思う。主よ、あなたの与えてくださる幸いを楽しみにしています。必要な訓練を与えてください。
4月6日(土)
「むしろ、あなたがたはこのように彼らに行わなければならない。すなわち彼らの祭壇をこぼち、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かなければならない。」(申命記7:5)
これはわたしたちにとっては心の闘いのことを言っている。私達の内側の闘いにおいて妥協があってはならない。サタンは私達に少しずつ少しずつ攻撃をしてくる。少しずつ妥協を迫ってくる。これくらいいいではないか・・・と。骨抜きにされてはならないと思う。主に心の中すべてを占領して頂いて、生活のすべての領域を占領して頂いて、口からでるすべての言葉を占領して頂いて、神様にとらえられることのすばらしさを経験させて頂きたいと思う。主よ、私の心の中であなたに占領されていないところがあるでしょうか?私の生活の中で占領されていないところがあるでしょうか?主よ、あなたが占領してください。
「彼らを自分のそばに置くためであり・・・」(マルコによる福音書3:14)
イエス様のそばに置いていただける。イエス様のそばにいる。他の言葉では表現できない、あこがれのようなものを感じる。イエス様のそばに置いて頂く。ああ、今日、そのような一日となりますように。あなたのそばにいる、そのことを知らせてください。あなたのそばにいる喜びに生かしてください。でも、それは本当の意味では、パウロが言うようにこの世を去って御許に行く時に、わかるのかなあ・・・。
4月5日(金)
「ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の形も見なかった。それで、あなたがたは道を誤って、自分のために、どんな形の刻んだ像をも造ってはならない。」(申命記4:15−16)
主の形はわからない。自分で神様のイメージを固めてしまってはいけない。人間同士でもそうだが、相手のことを「こういう人だ」と決めつけてしまった瞬間から心のふれあうことがなくなってしまう。自分のイメージとつきあっているだけだから・・・。神様のことはもっとそうだ。神様はこういう方だ、とイメージを決めつけてその神様を信じてしまってはいけない。神様との出会いもたくさんの新しい発見があるのではないだろうか?驚きがあるのではないだろうか?説教は驚きの分かち合いだと思う。神様の前に驚かされて、感動させられて、その喜びと感動の中で講壇に立つ、そのような説教者でありたいと思う。主よ、助けてください。仕事に追われる伝道者ではなく、神様に驚かされて、その喜びを分かち合っていくような伝道者としてください。
「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。」(マルコによる福音書2:22)
力のある、喜びのあふれる福音を、古い皮袋、つまり古い伝統やしきたりに入れていると、福音も伝統もだめになってしまう。イエスの福音はいつもいつも新しいのに、人間の作るものはどんどん古くなる。その古くなったものにしがみついているから、だめになる。自分も古いものを捨てて、新しい皮袋を持っていきたい。主よ、私の固い頭を柔らかくしてください。あなたの力と喜びにあふれる福音を入れる大きな柔らかい器を持っていくことができますように。
4月4日(木)
「あなたがたは帰ってきて、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞かず、あなたがたに耳を傾けられなかった。」(申命記1:45)
新約の時代に生きている私達は、神様にはどこまでも赦されると信じている。しかし、それはあくまでもイエス様の十字架があったからだ。本来ならば、取り返しのつかないことがある。神様の前にどんなに泣いて後悔しても取り返しのつかないことがある。しかし、イエス様の十字架の血潮によって特別に赦して頂いているのだ。そのことを忘れないでいたい。そのことを甘く見ないで生きていきたい。罪の深刻さを忘れないで・・・。神様に従わないことの悲劇を忘れないで神に従っていきたいと思う。
「すぐに網を捨てて、イエスに従った。」(マルコによる福音書1:18)
彼らにとって網はどれほど大切な者であったであろうか?子供の頃から網を手にし、今までの自分の人生全部が網に頼ってきたであろう。そのような漁師達が、すぐに網を捨てて従うほどのもの。それがイエスのうちにあった。今、その聖書から語る自分自身が本当にそのものすごさを知っているだろうか?信じているだろうか?そのイエスの福音のものすごさを説教の中で提示しているだろうか?福音のすごさ、それを思わされる。すでに本当に自分も造りかえられたし、造りかえられた人々を見てきた。けれども、もっと知りたいと思う。もっと福音のすばらしさの奥深さを知りたいと思う。主よ、あなたがもっと教えてください。福音の深さを、広さを、高さを大きさを教えて下さい。
4月3日(水)
「その逃げて行った逃れの町の境を出た場合・・・」(民数記35:26)
私達にとって逃れの町はイエス・キリストだ。もしも、その境を出た場合は、裁かれてしかるべきだという。主の恵みに生かされていることを思う。自分の働きも、本当にイエス様の守りの中にあると思う。それから外に出たら、大変なことになる。主が守ってくださるところに留まっていたい。主よ、いつもあなたと共に歩ませてください。あなたのことでわたしの心をいっぱいにして、そこからあふれ出ることが言葉となり、態度となりますように。個人的に人々と話をする時にも、また講壇に立つ時にも、主に満たされた心から正しい言葉が、人を裁き、人を愛し、人を癒すことばがあふれてきますように。
「すべての国民を弟子として・・・」(マタイによる福音書28:19)
人々を弟子とする。イエス様の弟子とする。その使命を私達は受けている。人々がイエス様の弟子となるのが大切なことだ。十二弟子も欠けだらけだった、いざというときには、イエスを裏切ったそんな弟子達だった。でも、彼らもイエスの弟子とされた。主よ、この「弟子」ということ、もっと教えてください。主を信じた者たちが、本当にあなたの前に悪戦苦闘しながら、従うことのすばらしさを経験していくことができますように。イエス様が救ってくださったことの喜びに満たされて、従っていくことができますように。わたし自身、まずあなたの弟子として整えてください。もっともっと訓練してください。
4月2日(火)
「どうぞこの地をしもべらの領地にして、我々にヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:5)
ルベン族とガド族との人々はヨルダンを渡らないで、そこの地にいたいと思った。それは最終的には、許されるのだが、彼らの動機は、単に「その地が牧畜をするためにはよい地だ」ということだった。神様はこれをどのように思われただろうかと思う。モーセが言うように、神様はヨルダン川の向こう側の地を約束されたのに、彼らは、ここが都合がいいからここにいたい、という。私達に対する神様の計画はどこにあるだろうかと思う。本当の祝福はどこにあるだろうかと思う。「ここが都合がいいからここにいます」ということが、神様の計画と違ってもまかり通ってしまってはいけないと思う。自分の都合ではない、神様の導きを見極める目を持っていきたい。教会の会堂においてもそうだ。自分たちの都合ではなく、神様の約束を、神様の導きを見極める目を持っていきたい。
「ピラトは彼らに言った、『番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい』。そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。」(マタイによる福音書27:65−66)
本当に「できる限り」をしたんだと思う。でも、そんなできる限りはせいぜい「弟子達がイエスを盗む」という程度のことにしか効果がなかったのだ。反対にそれはイエスが本当によみがえられたことを証明することになった。封印や番人の存在をも超えてイエスがよみがえられたことは、単なる「科学的に説明できること」のレベルではなく、イエスが本当によみがえられたことを示している。人間のできる限りのことなんて本当にちっぽけなことだ。主がなしてくださる御業を見ていく者となりたい。主の奇跡を拝していきたい。
4月1日(月)
「すべての誓願およびすべてその身を悩ます物断ちの誓約は、夫がそれを守らせることができ、または夫がそれをやめさせることができる。」(民数記30:13)
ご婦人方には「これは女性を物のように扱っている文章だ・・・」とおしかりを受けそうでもあるが、夫であるわたしが読む時には、それは夫の霊的な責任を感じさせる文章に思える。妻が神様の前にした誓約も、それは夫が認めることが必要だと言うことは、「おまえがそういうなら、好きにしたらいい」という、物わかりがいいようなふりをした、逃げの態度を許さないことでもある。妻が神様の前にどのように歩むか、それは夫の責任でもある。本当に妻のために祈り、共に祈っていきたい。
「外に出て激しく泣いた。」(マタイによる福音書26:75)
激しく泣いたペテロ。イエス様を裏切ってしまったことに本当に激しく痛みを感じた。今、自分の中にこのような激しい、自分の弱さ、罪深さに対する叫びがあるだろうか?「またやってしまった」と頭をかくだけで、終わってしまっていることはないだろうか?あまりにも失敗続きで、痛みさえ感じなくなってしまったのだろうか?「外に出て激しく泣く」なんていう経験はもう持ちたくない。後悔するような失敗はしたくない。けれども、もし失敗をしてしまった時には、神様の前に泣くようなそのような真剣さを持って生きていきたいと思う。