JCCNJ・2006年アドベント聖書日課
去年の一番早いアドベントのスタートに対して、今年は一番遅いスタートになりました。12月ももう3日。3週間のアドベントですが、一歩一歩共に聖書を読んで参りましょう。アドベントリースには4つのろうそくが立っています。その最初のろうそくに火を灯します。それはある伝統ではProphecy Candleと呼ぶそうです。「希望」を意味するろうそくです。新しい時代の到来を待ち望む希望の光です。そして、その希望の土台は神の言葉でした。今年もその希望のメッセージをたどりながら、アドベントを過ごしたいと思います。
「慰めよ、我が民を慰めよ。」(イザヤ書40:1)
これはイザヤがイスラエルの民のバビロンからの解放を預言した言葉です。「もうダメだ」「神は私たちのことを見捨てられたのだ」という人々に対して、イザヤは「慰め」を語ったのでした。それはあの繁栄を極め、勢力を誇っているバビロンもやがて滅びる。すべては神の御手の中にあるのだ、というメッセージでした。そして、その預言は次の言葉で締めくくられます。
「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。」 (イザヤ書40:31)
主の力を頂くための条件が一つだけあります。それは状況だけを見て、それに振り回されるのではなく、どんな困難の中にあっても、「主を待ち望む」ということです。状況さえも支配しておられる神の最善を信じて、主を見上げていくことです。
それはまた「救い主到来の預言」でもありました。やがて、人々に「慰め」としての救いが与えられる、それを実現する救い主が送られる、その預言でもあったのです。
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ書29:11)
エレミヤの時代もバビロニア帝国によるエルサレムの陥落、そしてバビロン捕囚の時代でした。祖国の滅亡と、それに続く他国への捕囚。ほんとうに屈辱的な歴史の中で、人々は挫折感にうちひしがれ、希望を失いかけていました。そんな彼らに対して、「私の計画はこうだ!」と神はエレミヤを通して語りかけられたのです。
そして、それはまた、イザヤ書40章と同じく、「救い主の到来」の預言でもありました。救い主によって新しい時代が開かれる。そのすばらしい計画がここで約束されているのです。
そして、それはあなたの人生という歴史に対しても語りかけられています。今、困難の中にある方々に対する語りかけでもあります。「私にはあなたのための計画がある、それはあなたに災いを与えるものではなく、平安と希望を与えるものである」と。
「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」(イザヤ書7:14)
新しい時代の預言の3つ目は、もっと「救い主」に焦点が当たっている預言です。これもイザヤの預言です。イザヤはイエスよりも700年前の預言者ですが、彼にはたくさんのイエスについての預言が与えられました。53章などはその代表的なものですが、7-11章にもいくつかの救い主の預言がまとまっています。
これはマタイによる福音書の1章に引用されている預言ですが、この預言は「救い主は処女から生まれる」ということと、もう一つ、この方は「インマヌエル」と呼ばれる、ということの2つを預言しています。
インマヌエル・・・これは「神は私たちと共におられる」または「私たちと共におられる神」という意味の言葉です。神様は私たちと共にいて下さる方、共に歩んで下さる方です。そのことが一番はっきりと表れたのがイエス・キリストの存在自身であり、ご生涯であり、また十字架の上の御苦しみでありました。どこまでもどこまでもあなたと共にいるのだ、という神の決意の表れがそこにあります。そして、その決意は今も、あなたの人生の中に続いているのです。「わたしは断固としてあなたと共にいる」と。
「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。」(イザヤ書9:2)
この言葉も救い主についての預言です。マタイによる福音書に引用されて、イエスの活動を一言で表す言葉です。暗闇の中にいた人々、特にガリラヤ地方はユダヤ社会の中でははずれの軽んじられていたところでした。そこに神の希望の光が輝く、という約束がイザヤによって人々に預言され、イエスにおいて、実現したのでした。
わたしたちの中で、またわたしたちの周りで、希望を失っているような方はおられないでしょうか?辺境に追いやられて、トンネルの中を歩いておられるような方はおられないでしょうか?イエスはその様な人々のために特別な使命を担っておられました。そして、その働きのバトンは教会に手渡されています。あなたはそこに集う一員としてまたその使命を与えられています。
トンネル。私たちはそこから抜け出ることを待ち望みます。しかし、神はもう一つの解決法をお持ちです。それは「トンネルの中にいる人々に光を与える」という方法です。もしも、あなたがトンネルの中におられたら、トンネルから抜け出ることだけが救いだと思わないで下さい。神様はトンネルの中にも光を与えて下さることの出来るお方なのです。
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」(イザヤ書9:6)
イエスは「霊妙なる議士」でありました。「不思議な助言者」とも訳されます。人の知恵を超えた助言をして下さる方です。私たちが困っている時に、行く道が見えない時に、 「ここが道だ、ここを歩め」と語ってくださる方です。
イエスはまた「大能の神」と呼ばれます。この方は神です。また、「とこしえの父」でもあります。ここで、イエスは神と一つであるということがはっきりと表されています。
イエスはまた「平和の君」と呼ばれます。それはまず第一に、神様とわたしたちとの間に平和を与えてくださる方です。
わたしたちは神様に背を向けて歩いてきました。罪を犯して歩いてきました。けれども、その神様との間にイエスが立ってくださって、わたしたちの罪を赦し、神の差し出してくださっている和解を受け入れるようにと招いてくださっているのです。わたしたちの側から申し入れたのではありません。神の側から、和解の提示があったのです。神様の側からすると和解をしなければならない理由はありません。ほんとうはわたしたちの方が、和解を請わなければならないような状況にあります。でも、神様がわたしたちのために平和の使者として、和解の使者として、イエスを送って下さったのです。
「神の和解を受け入れなさい。」(コリント人への第2の手紙5:20)
「万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」 (イザヤ書9:7)
イザヤ書9章の救い主預言はこの言葉で締めくくられます。神様の情熱、神様の熱さ。神様は私たちに対して熱い思いを持っておられる方です。私たちのためにどんなことが出来るか、最高のプレゼントを考えてくださって、それを与えて下さいました。
そして、実行力のある方です。決められたことは断固として行動に移される方です。そこにも神の熱情が感じられます。神様は冷静に考えられて粛々とご計画を行っておられるのではなくて、熱い思いを持って、ほとばしるような情熱を持って私たちのために救いの道を開かれたのです。
神様がその様に私たちに熱い愛を注いで下さったのですから、私たちも神様に熱い思いを持って献身していこうではありませんか?
明日はいよいよ、JOYJOYクリスマスです。子供達のためにお祈りしましょう。
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。・・・おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。」(イザヤ書11:1-2、6-8)
希望、それはイエスが来られた時に成就しました。また、十字架にかかられた時に、復活された時に、完成しました。しかし、またイエスがもう一度来られる時(再臨)、最終的に完成するのです。アドベントは単に季節としてのクリスマスを待ち望むだけではなくて、やがての日、天国に迎えいられる時のことを待ち望む時でもあります。
動物も天国に行くか?という質問を受けることがありますが、聖書には天国の様子が上のように預言されていますので、やはり迎えいれられるのでしょう。ペット達だけではなくて、ライオンや熊もそこでわたしたちと楽しく過ごすのでしょう。
その天国への道を開くためにイエスは来られました。本来ならば、わたしたちが受けいられることのないところへの道をイエスは御自分の十字架の血潮をもって切り開いてくださいました。自分自身、この道を受け入れると共に、家族、友人のために祈っていきましょう。
「主イエスを信じなさい。そうそれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」(使徒行伝16:31)
今日はアドベントの第2聖日、今日火を灯す2本目のろうそくはある伝統ではBethlehem Candleと呼ばれ、また「平和」への祈りを込める伝統もあります。JOYJOYクリスマスのために、たくさんの子ども達が集まるように、すばらしい一時となりますように、お祈り下さい。
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ書43:19)
神様は新しいことを歴史の中にして下さいました。御子を世に送る。それはそれまでなかったことであり、またそれからもないことでした。歴史の中でユニークな1回きりの出来事でした。
そして、それは人々の想像できないような出来事でした。「新しいこと」であり、人々の常識でははかれないことでした。
そして、神様は私たちひとりひとりの生涯に、「新しいユニークなこと」を起こして下さいます。「前もそうだったから、今度もそうだ」と思うことがあります。「今までの経験からすると・・・」みたいなことを口走ることがあります。でも、神様の御業を見ていく世界はその様な人間の常識や今までの経験が全く通用しない世界です。
「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。」(イザヤ書43:18)
神様はあなたの人生に、また教会の歴史に、今までの経験の通用しない、新しい「砂漠に川が流れる」様なことをして下さるのです。
大きく期待しましょう。ひとり子イエスさまさえも与えて下さった方です。私たちにどれほどすばらしいものを与えて下さるか、期待していきましょう。
「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」(詩篇81:10)
「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ書42:2-4)
平和の実現のために2つの道があるでしょう。まず第一は権力、軍事力による平和。力で押さえ込む、という方法です。イエスの時代そこにあった平和はこれでした。ローマ帝国の軍事力。ヘロデ王家の権力による平和でした。しかし、イエスが平和の君としてこられたとき、もう一つの方法を選ばれました。それは人々と共に歩むことによって与えられる平和であり、人々を愛によって支配することによって与えられる平和です。国家規模でその様なことはなかなか想像出来ませんが、家庭に置き換えてみれば、わかりやすいと思います。「大声」「腕力」「経済力」「口の立つこと」で押さえつけることによって家庭が平和であるのか、ほんとうにお互いに愛と尊敬の思いで家庭に平和があふれているか、ということです。それはやはり、押しつけや強制ではなく、一人一人に神様の愛が明らかに示されていく中で、与えられていくものでしょう。教会という場もそうです。また私たちの伝道もそうです。わたしたちも福音を伝える時に、強制や無理強いではなく、愛をもって伝えていくことができたら、それが伝わってけば、と思います。祈りましょう。
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。」(エレミヤ書31:33)
イエスの誕生が紀元前と紀元後とを分けています。まさに新しい時代の到来です。イエスの誕生が、「旧約聖書」と「新約聖書」を分けています。エレミヤはそれをイエスよりも500年前に預言しました。
イスラエルの人々はモーセを通して「古い契約」(旧約)を与えられましたが、それに従うことはできず、神に背いてしまいました。そんな中で、主がエレミヤを通して預言して、約束してくださったのが、この「新しい契約」(新約)です。神の戒めを守るならば、救われる、という旧約とは違って、ただ、神の憐れみによって救われるという預言がなされたのです。
そして、それはイエスによって成就しました。イエスの十字架の身代わりの死によって、わたしたちの罪が赦され、神に受け入れられるという「めぐみ」の世界が開かれたのです。ただ一つの条件は、そのプレゼントを受け入れるということです。信じる時に救われるのです。
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネ黙示録3:20)
「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。」(ミカ書5:2)
平和の君としてこられたイエスはその誕生の700年以上前から、ミカによって、その誕生の場所が預言されていました。それはイスラエルの政治と文化の中心地エルサレムではありませんでした。その近くにある町、ベツレヘムでした。それは小さな町でした。
そこで生まれたことがマタイによる福音書ではヘロデ王の権力と対照的に書かれています。力を持ったヘロデ王。人々を支配していたヘロデ王は、しかし、また恐れに支配された人でもありました。ですから、救い主がベツレヘムで生まれたらしい、という情報は彼にとってものすごい恐れとなりました。それに対して、小さな町ベツレヘムで生まれたイエスは、権力を持とうとはせず、ただ、自分を与えることによって、自分をわたしたちのために与えることによって、ほんとうの王となり、わたしたちの心を支配してくださる方となったのです。
わたしたちは周りの人との関係で、ヘロデ型のつきあいをしていないでしょうか?「人を恐れるのではなく愛する」そのことをおぼえる一日としましょう。
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」(イザヤ書61:1)
これもイザヤの救い主についての預言です。ルカによる福音書4章を読むと、イエス自身が、この言葉が自分において成就したことを宣言しています。「今こそ、この預言の言葉が成就する時なのだ」と。
そのメッセージは貧しい者、苦しんでいる者に対する福音であり、捕らわれている人々の解放のメッセージでした。
私たちは何に捕らわれているでしょうか?何があなたを縛っているでしょうか?そこからイエスはあなたを解放するために来て下さったのです。
先ず、自分の力でそこから自由になれないことを認めることです。
そして神の前にその問題を持ち出すことです。
イエスがその罪も赦してくださっていることを認めることです。
聖霊様があなたを自由にしてくださることを信頼することです。
そして、すべてをゆだねることです。それには「時」を委ねることも含みます。「今解放してくれなければイヤです」「今解放してくださらなければ信じません」というこだわりからも自由になることです。
また、信頼できる誰かに祈ってもらうことも助けになります。
さあ、あなたの問題を、主の前に持ち出そうではありませんか?
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカによる福音書1:38)
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。」(ルカによる福音書1:46-48)
マリヤは処女で身ごもるといいうことをどのように受け止めたのでしょうか?どれほどの不安があり、恐れがあったことかと想像するのですが、聖書はそれらについてほとんど語っていません。それよりも、マリヤが、信仰をもってそれを受け取ったこと、そして、マリヤが「主が私のことを心にかけてくださっている」ということを喜びとしたことが強調されています。やはり、神様はマリヤにそれを受け取り、喜びとする力をお与えになったんだと思います。わたしたちが歩んでいく中に、なかなか受け入れがたいこともあります。でも、主はそれをも喜びに変えることのできるお方です。わたしたちのことを愛し、わたしたちに最高の歩みを準備してくださっている主を信頼して歩んでいこうではありませんか。
「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。」(マタイによる福音書1:20)
ヨセフはマリヤの懐妊をどのように受け止めたでしょうか?マリヤはそれが心配ではなかったのでしょうか?ヨセフは当然、悩み、秘密裏に婚約解消をしようとしました。
しかし、マリヤに使命をお与えになった神はマリヤの心配も心にかけてくださいました。神はわざわざヨセフの夢の中に天使を遣わし、御言葉を語ってくださったのです。それで、ヨセフも安心してマリヤを迎え、マリヤを守りました。
わたしたちのために救い主が与えられるためにこのような信仰の先輩の存在があったことを感謝しましょう。そして、わたしたちも一人一人に与えられた神様からの使命を、勇気を持って受け取る者となりましょう。
アドベントも3回目の日曜日になりました。3本目のろうそくは、Shepherd Candleと呼ばれることもあるそうです。そして、そのテーマは「喜び」。クリスマスは神様が私たちに究極の喜びを与えて下さった時です。
「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。』」(イザヤ書57:15)
これもイザヤの言葉ですが、イザヤは神様の「聖」ということを強調した預言者でした。それは6章に出てくる神の「聖」に触れる経験から出てくるものでした。
その神様の聖さは、「人間を超越している」ということに留まらないで、「心砕かれた者」「へりくだる者」に触れて下さって、彼らをも「聖くする」ものでした。この神様はどこまでも人と関わろうとして下さる方です。人と関わろうとして下さって、人と関わって下さって、私たちを造りかえ、私たちを神様に近く引き寄せて下さる方です。
そのための条件がここにもあります。それは「へりくだる者」「砕かれた者」です。自分の弱さ、自分の愚かさを徹底的に知らされた者たちです。単に外交辞令として、「私なんか・・・」とか卑屈に「自分はダメだ」なんて言っている者たちではありません。神様の前に、自分の醜さ、愚かさを示されて、うちしおれている者です。そのような者を主はきよめ、生かしてくださる方です。
「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」(ルカによる福音書1:42-45)
特別な使命をもらっていたマリヤ。マリヤはお告げを受けてすぐに親類のエリサベツを尋ねます。親子以上に年の離れていた二人ですが、神の奇跡によってみごもるという同じ経験を与えられる中で、どんなにすばらしい交わりが与えられたかと思います。特にマリヤにとってはエリサベツの存在がどんなに大きな慰めだったことでしょう。困難も共通する部分が多かったと思いますが、それ以上に、「神様を信じるって、こんなにすばらしいことなんですね」とお互いに励まし合ったのではないかと思います。
祈りあい、支え合う信仰の友。その様な存在が与えられたら、幸いだと思います。あなたも勇気を出して、心を開いてみて下さい。自分の方から・・・。神様に祈って下さい。その様な信仰の友が与えられますようにと。
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(ヨハネ第一の手紙4:9)
私たちが先ず神様を愛する時に、神様も私たちを愛してくださる、と思っていないでしょうか?私たちが神様に喜ばれる歩みをしていく時に、初めて神様は私たちを愛してくださると勘違いしていないでしょうか?
神様は私たちが神様を愛する前から、私たちが神様に気がつく前から、神様に背を向けている時から、私たちを愛してくださっています。私たちのことを心にかけてくださっています。神様の方が先に私たちのことを愛して下さいました。そして、ひとり子イエスを与えて下さったのです。ここに神の愛が表されているのです。
この神様の愛を頂いている私たちは、いつも「先に」愛する者となろうではありませんか。
挨拶をされることよりも、挨拶をすることを
心にかけてもらうよりも、心にかけることを
声をかけられるよりも、声をかけることを
求めていこうではありませんか?
神の愛を知ったのですから、自分から愛する、自分から赦すことをしてみようではありませんか?
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(コリント人への第2の手紙8:9)
イエスはわたしたちのために、貧しい者となって下さいました。御自分を捨てて下さったのです。それはわたしたちが神の恵みで豊かな者となるためです。わたしたちがこの神の恵みにあふれて歩んでいくことこそが、イエス様の喜びであり、神様の喜びです。今日もイエス様の与えて下さるいのちの泉でいっぱいに満たしていただきましょう。
「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネによる福音書4:14)
「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」(ヨハネによる福音書1:18)
神様を見た人はひとりもいない、と言います。神様は目に見えないお方です。でも、その目に見えない方を、目に見える形で表して下さったのが、ひとり子イエスさまである、とヨハネは言っています。
「神様がどんな方か知りたければ、この方を見なさい。この方は神様がどんな方かをあなた方に見える形で表した方です」と。
そして、同じヨハネが言っています。
「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(ヨハネ第一の手紙4:12)
イエスさまがまた天に帰って行かれたあと、神様を人々に分かるように表すのはクリスチャンの愛なのだと。この使命の深さに身を正される思いがします。私たちを通して、人々は神様を見ていく、神様はこんな方なんだなあ、と知っていくというのです。愛を増して下さい、と祈らないではいられません。
「全ての人を照らすまことの光があって世に来た。」(ヨハネによる福音書1:9)
1章1節から、イエスが世の初めからおられた神ご自身であることを語っているところです。ここで「言」という表現で表されているのが、イエスのことをさしています。イエスは世の初めから、天地創造の前からおられ、天地創造に関わっておられたことがここにハッキリと記されています。
その言には命がありました。その言は光でした。そして、イエスは私達の世の光であって下さって、「闇に勝つ光」です。「光は闇の中に輝いている」。闇がどんなに深くても、一度光がそこに入ってきたら、それはもはや闇ではありません。イエス・キリストをお迎えするなら、闇も光です。イエスは私たちの心を照らして下さいます。そして、12節にあるように、イエスを信じる者は、「神の子」として受け入れられるのです。
今日は中高生のクリスマス会です。多くの仲間が来られますように。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)
世界で初めてのクリスマスプレゼント、それは神から私たちに与えられたひとり子なるイエスです。私たちを愛する神の愛は、イエスとなってあらわれ、その十字架の上で一番はっきりと表わされたのです。
神様の愛が分からない、という時には、私たちは自分の身に起ってくること、自分の周りの状況などの中に神の愛を見ようとしているのではないでしょうか?本当の神の愛は、そのようなことを超えて、イエスの十字架の中に表わされているのです。
今日はクリスマスの直前の日曜日。アドベント4回目の日曜日です。Angels Candleと呼ばれるろうそくに火をともします。そして、今週のテーマは「愛」。私たちに対する神の愛に感謝しましょう。今年はそして、今日がクリスマスイブ。キャンドルライトサービスに多くの方々が集われますように。
「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える。きょうダビデの町にあなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカによる福音書2:10-11)
クリスマスの喜び、と言えば、やはりこの聖書の言葉でしょう。救い主が与えられた。全ての人々のために、そして、その救い主は「飼い葉桶のしるし」を与えられている、つまり、低いところに来て下さり、私たちと共に歩んで下さる、という救い主です。この救い主は高いところから見下ろして、「どれ、人間を救ってやろうか」と網ですくおうとされる方ではありません。人間の苦悩の真ん中に降りてきて、共に歩み、私たちの身代わりにまでなって下さる方です。うれしいですね。
でも、「喜び」のニュースは、それを経験しなければ、本当の喜びにはなりません。この羊飼いたちも、ニュースを聞いて、それで終わりだったら、その喜びを自分のものにすることはできなかったでしょう。しかし、彼らは急いで走っていったのです。そして、実際に飼い葉桶の中に寝かせてある赤ん坊を見つけたのです。「ああ、御使いたちの語ったとおりだ」と喜びながら、賛美しながら帰っていったのです。わたしたちも、聞いているだけでは、この喜びを自分のものにすることはできません。信じて、イエスを受け入れる時に、イエスの十字架がわたしのためだったのだと、受け入れる時に、喜びが与えられるのです。是非、この喜びを自分のものとして経験されますように。
「そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」(マタイによる福音書2:11)
博士たちは、東の国からやってきて、贈り物をささげました。これらのささげものは高価なものであり、特別な意味を持ったささげものであったようです。ここでも、彼らは喜んで、喜びの余り、ささげものをささげています。決して義務ではなく、強いられてではありませんでした。イエスの十字架を知らない、この時代の人々がイエスにこんなにささげものをしているのに、十字架を知っている私たちは何をしているでしょうか?本当に神様の愛を、イエスの愛を、心の奥底まで感じているのでしょうか?私たち、私たちのために命まで投げ出して下さったイエスのために、自分自身をおささげしようではありませんか。
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)
新しい年も、神様が教会に、そして、お一人一人にすばらしいことをして下さいますように。